映画『フラガール』

『フラガール』(李相日監督)を観に行った。この手の作品は必要上観ておかねばならない、などとじぶんに言いわけをしつつ(ほんとは、たんに好きなだけだ)、本八幡のニッケコルトンへ出かけていった。

『スウィング・ガールズ』のプロットを『ALWAYS 三丁目の夕日』のノスタルジアで味付けし直したような作品である。なるほど、追い詰められた人間が起死回生をめざして一転奮起し、最後に成功を手にするというのは、ここしばらくのあいだにすっかり各所で見受けられるようになった。「手堅く安心」なプロットなのだ。とりあえず観る者を最後まで引っ張ることができるし、観たほうも最低保証がついたようなものだからだ。じっさい、この『フラガール』もその例外ではない。NHKテレビの『プロジェクトX』の女性版を狙った、という製作者サイドの談話をどこかで読んだが、さもありなん。実話ベースだしね。ただし、『プロジェクトX』的なのはプロットなのであって、話法ではない。話法を踏襲すると『スキージャンプ・ペア』のようにパロディになる。個人的にはそちらはそちらで興味があるのだが、この作品にとっては、むろん適切なルートではない。

定型的なプロットを踏襲しエンタテインメントに徹する。この姿勢は基本的に好ましい。『フラガール』のばあい、みずからに課したこの制約のなかで、まずまず健闘しているといってよい。とくに前半は。だが巡業から戻ってくるあたりから以降、台詞で状況を説明してしまう傾向が肥大化し(むろん前半にもこの傾向は見られるのだが)、登場人物がつぎつぎと泣きだしたり大声をだしたりしはじめるという日本映画の「伝統」に作品が乗っ取られてしまう。終盤の富司純子の「演説」など、正直かなりつらい。

考え込んでしまうのは、フラを踊るダンスのシーンだ。ここは、この映画の肝である。プロット上の、というだけでなく、みずからに課した定型という制約条件の服にみずからの身体をあわせつつ、その枠組みを内側から突き破っていく可能性を唯一もっていた箇所だという意味で、肝なのだ。そして、もしそれが実現されていれば、この作品は独自の地位をもちえただろう。

じじつこのシーンにはかなり力が入れられている。松雪泰子(このひとは、もしかすると十年後にはなかなかいい女優になっているかもしれない)や蒼井優をはじめとする女優たちの踊りっぷりは、相当の練習を積み重ねてきたことをうかがわせるものである。

そして、そうしたダンスの動きをスクリーンにもたらすために、おそらくは考えつくあらゆる方法が導入されている。カットを細かく割る。上から撮る。横から撮る。バストショットで撮る。腰のアップを撮る。引いて撮る。観客の反応を撮る。──あらゆることがなされているのだ、文字どおり。だが不幸なことに、あらゆることをしてみせていること自体が、踊りを捉え損ねていることの証だという事実を、あるいは、踊りを捉える方法をもちあわせていないという事実を、ありありと露呈してしまっている。残酷にも。

残念だとはおもうが、とはいえ、この作品はミュージカル映画ではないので、このようなわたしの指摘は的外れかもしれない。それに、そもそもこの作品に限ったことではないのだ。ハリウッドだって、ダンスを撮れなくなって久しい。踊りという要素を映画的に取り込もうという考えは、昔もいまも魅力的だが、少なくとも現在において、それは諸刃の剣である。

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