声と身体──『ドリームガールズ』

公開されたばかりの映画『ドリームガールズ』は、観て損のない作品である。

巷の認識では、今年のアカデミー賞で『バベル』の菊池凜子と助演女優賞を争う作品として、うけとめられているのかもしれない。そういうゴシップめいた話に惹かれて観に行くもよし、一本のミュージカル映画として観に行くもよし、ミュージカルは知らないが R&B は好きだというひとが音楽映画として観に行くもよし。

本作品は1980年代のミュージカル・プレイを映画化したものだ。シュープリームス(今様に表記するならスプリームス)とモータウンに取材したストーリーである。無名の黒人女性歌手三人組ドリーメッツが、マネージャー兼プロデューサーのカーティスの辣腕で白人が支配するショービジネスの世界に猛烈な売り込みをかける。三人娘はドリームズと改名して大スターとなり、カーティスの会社もブラックミュージックの一大レーベルに成長するのだが……という粗筋だ。

けれども、この映画が興味深いのは、そこに描かれるのがシュープリームスの成功物語だからではない。声と身体をめぐる物語であるからだ。声が、名声という他者の声と引き替えにみずからの身体を失い、やがて再びその身体を取り戻し、声と声とが響きあう──そう、なんだかミハイル・バフチン的な映画なのだ。バフチンが映画監督として21世紀によみがえり、モータウンを題材にミュージカル映画を撮ることになったとしたなら、きっとこういう作品をつくりあげることだろう。

舞台となる1960年代合州国では、音楽の世界は白人のものと黒人のそれとに分かれていた。黒人音楽は、白人の世界から見れば魅力的な資源の宝庫であり、草刈り場だった。黒人音楽のヒット曲をパクって白人歌手にうたわせることなどめずらしくなかった。その過程で独特のソウルは脱色され、白人向けに穏当で口当たりのいい音楽に骨抜きにされてしまうのだ。黒人から見れば、それはかれら自身の音楽を、歌を、声を、白人に奪われることを意味した。

白人の収奪から黒人たちが自身の音楽を守るためには、黒人の手で黒人音楽をビジネスとして成立させることだ。そう考えたカーティス(ジェイミー・フォックスが演じる。モータウンの社長だったベリー・ゴーディ・ジュニアがモデルらしい)は、ショービズ界に売り込みをかける。ショービズ界は白人によって支配されており、商業主義とマスメディアと録音技術というテクノロジーによって象徴されている。

ところが皮肉なことに、黒人音楽のビジネス化をはかるために白人によるショービズ界に接近することは、当初の動機とは裏腹の事態を招く。ドリームズ自身が白人受けする黒人へと自己を改変すること、言い換えれば、黒人としての身体をみずから「漂白」していくことになったからだ。白人たちに受ける。そのために彼女たちは、衣装を変え、メイクを変え、ダンスを変え、楽曲を変え、アレンジを変え、歌唱法を変えた。リードヴォーカルとて例外ではない。ソウルフルな歌唱スタイルのエフィ(ジェニファー・ハドソン)はバックコーラスに降格され、癖のない声とテレビ映えする容姿の持主ディーナ(ビヨンセ・ノウルズ)が抜擢されたのだ。落胆したエフィはやがてグループ内で孤立し、ドリームズを去る。こうしてドリームズは、みずからの身体ばかりか、音楽的な声をも失う。

ディーナを中心に据えたドリームズは大ブレイクし、名声という他者の声を得る。だが、ディーナの声が白人社会に広く受け入れられたのは、固有の身体をもたなかったからだった。カーティスはのちに告白する。録音時にエフェクトをかけて調整してきたのだと。ディーナの声は、テクノロジーによってつくりだされた虚構の声だったのだ。

後半は、エフィが失った声を取り戻し、ディーナはみずからの声を発見していく過程が、両者を交錯させつつ描かれる。最後に報われる式のカタルシスが力をもつのは、たんにメロドラマ的定型としての物語というだけではなく、そこに声と身体の再生という神話的テーマが練り込まれているからである。そして、そうした声と身体をめぐる物語が、複製技術によって成立する映画というメディア──そこでは身体性はあらかじめ失われている──において描かれようとされている。ぼくの考えているミュージカル論にとって、とくに重要なところだ。いずれ機会があれば書いてみたいとおもう。

エフィを演じたジェニファー・ハドソンが圧巻である。独特の存在感と、抜群の歌唱力とで、歌手が本職であるはずの主演ビヨンセ・ノウルズを完全に喰っている。久しぶりに観たエディ・マーフィーが、時代に取り残されていくシンガーの役を渋く演じている。

脚本・演出ともビル・コンドン。けっこう大事な場面でぎこちないのが不思議である。カットやシーンのつなぎ方は、かれが脚本を書いた映画版『シカゴ』によく似ている。違うのは、やり過ぎて嫌みになる手前で抑えているところ。エンドクレジットに至るまで手を抜かず工夫を凝らすのは、ミュージカル映画の基本であるとはいえ、たのもしい。

ところで、本編上映前に流れた『トランスフォーマー』の予告編、スピルバーグとマイケル・ベイがあらわれて日本語で挨拶するのだが、あれはなんとかならないものか。

追記。事実関係の記述に誤りがあったので訂正した。同作品がアカデミー賞作品賞にノミネートされたという意味の記述をしていたが、誤り。他の賞と混同していた。すみません。アカデミー助演女優賞は下馬評どおりハドソンのオスカーと相成った。

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