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地獄めぐりの一日

ぼくの専門はメディア論である。具体的な研究の局面として、いまのところ出版・コミュニティ・ミュージカルという三つが柱だ。昨日は、この三つを一日で経めぐることになった。たとえていえば、「地獄めぐり」の一日である。ダンテの『神曲』とはとてもいかない。温泉地によくあるそれ、というのが相応しかろう。

まずは出版学会の大会(大正大学)。研究発表の司会を担当したのち、いくつかの発表を聞く。興味深かった発表は、いずれも歴史を扱ったものだった。現在の日本の出版研究のなかでは、歴史の研究がいちばんやりやすく、じっさい実績も積みあげられつつあるようにおもう。

他方で、出版産業を扱った研究も相対的に少なくはない。だがしばしば、業界団体やシンクタンクなんかが出すレポートと区別がつかなかったりする。なぜこんなことになるかといえば、出版にかんする理論的枠組みがないからだ。ほとんど皆無といっていい。唯一の例外は箕輪成男先生のものだが、これは出版産業の枠組みである。あちこちで書いていることだが、出版産業と出版はまったく次元が異なる。一般に素朴におもわれているように出版産業のなかに出版があるのではない。出版のごく一部として出版産業がある。だからいま必要なのは、むしろ出版の理論のほうだ。そのことをテーマに、博士論文を書いている。相手が巨大すぎて、もうまるで力及ばないことは先刻承知なのだけれど。

ついで、コミュニティ。移動の多い一日だったのだが、その間に原武史さんの新著『滝山コミューン一九七四』(講談社)を読んだ。昨冬『群像』に掲載されて話題になった作品だ。時代はオイルショック直後。舞台は東京都下・東久留米のある小学校。著者が「滝山コミューン」と名づける学校・児童・保護者からなるこの地域共同体は、学校を「みんなのもの」にしようという民主主義の旗印を掲げる。しかし、多様な個による自由な討議というハーバーマス的な公共圏を体現するコミュニティを標榜しながら、それはたちまちにして、「みんな」のために「正しい」価値観を貫徹しようとする全体主義へと変質し、異質な者を排除する管理統制社会と化していく。その過程が仔細に描かれる。とくに、主人公の児童「私」に、別の児童たちが「総括」を迫る場面には、胸がつぶされる。

コミュニティは、メディア論にとってきわめて重要な概念である。だが、この言葉はどうしても同質化された集団という理解をともなってしまう。だが実際には、実践コミュニティ論でいわれるような「周縁から中心へ」という主流ルートなのではなく、どうしても中心へ入っていけない状態がしばしば生じる。大事なのは、それをいかに同質化させるかということではなく、異質な状態をそのままでどう肯定できるかということだ。同質化を暗黙に肯定しないコミュニティはいかにして可能か。この容易ではない問いもまた、博論のなかで扱わなければならない課題である。原さんのこの著作は、そこにひとつの示唆を与えてくれるような気がする。

本書の主人公「私」とは、むろん著者原武史さん自身。つまりここで題材として扱われているのは、著者自身の小学校時代の経験であり、一個人の経験を徹底して穿っていき、その先で戦後思想史に連絡しようという試みである。だからこの作品では、学者にとって「禁じ手」である自伝的スタイルを、あえて──そして用意周到に──採用している。そしてこの方法は、この本の要であると同時にアキレス腱でもあり、両者の拮抗の微妙な振幅が、なんともいえない迫力と魅力の源泉をなしている。

ところで、そもそも原さんがこのスタイルの採用に踏みきった直接の要因は、四方田犬彦さんの『ハイスクール1968』に刺激をうけたからではないかと推測する。しかも帯の惹句は高橋源一郎さんだ。なんだか明学のスター三教授そろいぶみ、という趣である。

最後はミュージカルだ。夕方から成城大学へ移動して、映像学会の映像テクスト研究会に(遅れて)参加した。木村建哉さん(成城)と長谷正人さん(早稲田)が、それぞれ『バンド・ワゴン』(1953年)をとりあげて発表するという趣向である。ぼくが到着したときは木村さんの発表の終わりがけだったが、レジメは懇切丁寧・用意周到という言葉を具現化したもので、ひじょうに勉強になった。

長谷さんの発表は、ミュージカルを「生きる歓び」と見、『バンド・ワゴン』という映画をひとつの契機として、むしろ映画という仕掛けの本源に触れようとしたものだ。じつに長谷さんらしいといわねばなるまい。さらに質疑応答のなかで、自己言及性、後半における「観客」の不在(個人的にはこれは、本作品の題名およびポスターに描かれる “Get Aboard” の語と結びつけて考えるべきだとおもう)、ノワールとの関係など、興味深い論点が多数示された。

個人的にとく興味をもったのは、物語からダンス・シーンへの移行過程への着目である。これは重要だ。1930-40年代のハリウッド・ミュージカルがこの点に無頓着で、そうであるがゆえに「自然」であったものが、第二次世界大戦後にはその「自然」が不自然であると感じられはじめるようになる。1953年とは、「自然」から不自然への掉尾にあたるだろう。それはわたしたちの日常の身ごなしに似ている。ふだんなにげなく実践している身ごなしが、あるときふと不自然におもわれてくる。いったん身ごなしを意識しはじめたら最後、それまでの身ごなしの「自然」は永遠に失われ、二度と戻ってはこない。だから『バンド・ワゴン』は、ちょうど林間合宿の最後の晩のキャンプファイヤーのように、ハリウッド・ミュージカルが自身をふり返って織りなすという意味で、集大成なのだ。以後ハリウッド的なミュージカルは今日にいたるまで、「不自然」となってしまったその「自然」にいかにして「自然」を取り戻すかに腐心することになり、いずれの試みにおいても失敗を重ねつづけることになる。

さて、長谷さんの提示された枠組みは、同時にぼくの考えているミュージカル論とずいぶん重なるところがあった。その意味でも大いにうれしく、また刺激をうけた。ひとつだけ論点をあげれば、ミュージカルとは、たんなる映画の一ジャンルではない、ということだ(ぼくも前に『ユリイカ』に少し書いた)。むしろ日常の身ぶりや身ごなしからの連続として考えていくべきなのだ。ふつうに読むだけでは気づかないかもしれないが、紀伊國屋書店の雑誌『Scripta』に連載している「機械と身体の縫合域」は、じつにそのような観点から、「日常のなかに」いかにして「少しだけミュージカルがある」のかを探索し、考察する試みである。

明日の授業では、ぼくも少しだけ、学生たちに『バンド・ワゴン』を見せよう。