夏至

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まもなく夏至だ。今年(2007年)は6月22日(金)だそうだ。

子どものころ、夏至とは「一年のうちもっとも昼間の長い日」だと教わった。東京のばあい、日の出から日の入りまでの時間が14時間35分にもなる。冬至のそれは9時間45分というから、じつに5時間近くも長いわけだ。たしかに、午後8時になってもまだ空に明るみが残っている。この時期、いつまでも外遊びをしていて、帰宅が遅くなっては怒られる、ということが、ままあった。

しかし実際には、「一年のうちもっとも昼間の長い日」を実感することは、あまりなかった。たいていは梅雨で、雨降りばかりだったことも関係していたかもしれない。それに、小学生や中学生にとっては、まだ一学期のただ中だ。夏休みまで、あと一カ月も学校に通わなければならない。思う存分外遊びに興じるような余裕はなかった。

だから、当時のぼくにとって「夏至」とは、言葉としては知っていても、身体を介して実感されるような経験ではなかった。それは、この時期に大人たちが口にする「季節のクリーシェ」だった。たとえば、テレビの天気予報の前口上としてであったり、新聞コラムの枕としてつかわれたりするものであり、「文学」やら「教養」やらといった世界に所属する言葉だった。つまり、近しい言葉ではまったくなかった。

にもかかわらず、ぼくがこの言葉に興味を覚えたのは、語感が印象深かったからだ。「ゲシ」という音は、落ち着いて静かな印象をともなって、ぼくの耳に響く。激しい陽射しにカンカンと照りつけられて、光と影のくっきりとしたコントラストだけの世界となって、微妙な陰影とともに、音という音がすべて飛んでしまったかのような。それは、内省的とさえいえるような響きをもたらすのだった。

意味上では似たようなカテゴリーに入るはずの言葉に、「夏」がある。こちらは開放的な印象をともなっており、一歩間違うと、ハメをはずして騒ぎまくるという、にぎやかで騒々しいイメージにまで転がってゆく。だからこそ、同じ季節にかかわる言葉でありながら、まるで対照的なしっとりとした静けさを印象させる「ゲシ」という語は、不思議な存在感をもつように感じられたのだった。

夏至を体感してみようとおもったのは、天文学的な知識を得てからだ。夏至の日に北回帰線上に立ち正午を迎えれば、そのとき太陽は、ちょうど真上に来る。視覚的にも感覚的にも、そして天文学的にも。

以前、ちょうどこの時期に、台湾を訪れる機会があった。台湾は日本からもっとも行きやすい北回帰線下の地である。南北にやや長い台湾島のちょうど腰のあたりをすっぱりと横切るように北回帰線が走っている。正午。熱射の空を見上げた。太陽は、たしかに真上にあった。その瞬間、ぼくは地球上で、もっとも太陽に近いところにいる人間だ。天頂から放射される猛烈な光にじりじりと焼かれつつ、ぼくはそこに立っていた。