夏休みから学ぶ

授業も終わり、試験も済ませ、期末課題も提出し、学生たちは夏休みを迎える。教員はまだ仕事があるのだが。先日何人かの学生と話した内容を総合すると、かれらの夏休みはおもに(1)バイト、(2)帰省、(3)旅行、に費やされるそうだ。

一方、わが次男(小三)は、昨日から学童のキャンプに出かけていった。毎年恒例の行事なのだが、今年は少しばかり条件が異なっている。昨年まではつねに長男が一緒だったので、次男は有形無形にかれに頼っているところがあった。ところが今年、長男は中学にあがったため、学童の行事には参加しない。次男は初めて、二泊三日のキャンプにひとりで参加するのだ。初日の朝、大きなザックを背負って張りきって家を出たはいいが、5分したらたちまち戻ってきた。提出すべき書類を忘れたという。書類をつかむなり、あわてて駆けだしていった。その後とくに連絡はないので、ぶじ集合時刻に間にあったのだろう。いまごろは埼玉のどこかのキャンプ場で飯ごう炊さんをしているはずだ。

小学校にせよ大学にせよ、学校文化のなかで、夏休みは特別な時間である。

だが「休みから学ぶものはなにもない」という意見もある。前ジェフ千葉・現サッカー日本代表のオシム監督の語録にある言葉だ。オシムがぼくにとって興味深い人物であることは間違いないが、かれの「語録」のかなりの部分は、職業サッカー選手を率いる監督という立場を念頭において聞くべきものだとおもう。にもかかわらず、その「語録」がビジネスの世界に横領されていくさまは、それが資本主義の常であるとはいえ、あまり気持ちのいいものではない。

オシムとは真逆の「語録」もある。西澤立衛さん(建築家、横浜国立大学)は言う。「(ふだんの授業などでは)ぜんぜん伸びなくて、なのに春休みとか終わったら突然見違えたようになっててさ、「なんでおまえ、休みになると学ぶんだよ」ってところあるじゃない? 教えるって計画的なことで、あんまり感動しないけど、学ぶというのはもっと本能的で、誰にも決して止められない原始的活動、それはたいへん感動的なものです」。

「休み」にかんする二つの「語録」は真っ向から対立している。どちらを選ぶべきだろうか。

少なくとも、わが次男や学生たちを前にしたとき、ぼくは西澤さんの言葉の側に立ちたい。休みは、それ自体多くを学ぶことができる時間になりうるし、そうすべきものだろう。この判断が妥当かどうかは、休み明けにかれらと顔を合わせたときに判明する。むろん忘れてならないのは、同じその言葉が、ただちにぼく自身にも跳ね返ってくることなのだけれども。

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