強度不足と分譲マンション

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姉歯事件以来、耐震強度不足の名所となった趣のあるわが町市川。鳴り物入りで建設中の駅前の高層マンションでも、設計図どおりに鉄筋が入っていないという「事故」が発覚した。あれが、2-3週前のことだったか。発覚後、当該物件ではただちに工事が中断された。そのとき江戸川土手から撮ったのが上の写真だ。灯りはなく、クレーンも静かにうなだれている。ここしばらく、えらく忙しかったので気がつかなかったが、月曜日に駅のホームから見上げたら工事再開していた。「事故」はぶじに解決する目処がたったのだろうか。そうだといいのだが。

報道によれば、今回の「事故」は施工ミスのうえに監理によるチェック漏れが重なったために起きたそうだ。たまたま優良住宅の指定をうけていたため、外部の検査をうけたところ発覚したのだという。多数の職種が出入りする現場ではミスが看過されることがありうるというような釈明もあったが、だとすると、この手の「事故」が稀なケースとは考えにくいのではあるまいか。もしかしたら、「事故」が発生しながら気づかれることなく分譲されちゃった高層マンションも、じつは少なくない──のかもしれない。

分譲マンションの建築にかんする「事故」が頻発する理由はいくつもあるだろうが、マンション購入の経験者のひとりとして、ごく個人的な偏見をあえて述べたい。遠因のひとつは、現在の分譲マンションという「しくみ」そのものに含まれているようにおもわれる。

誤解しないでもらいたいのだが、これは買い手や売り手ひとりひとりの意識といったような個人的レベルの話ではない。通常の分譲マンションはそのしくみ上、そこにかかわる誰にとっても、当該建築にたいして芯から向きあい、徹底してすべてのプロセスに主体的にかかわる気持ちが生まれにくいということである。

そのことを端的に表しているのが、マンションは一般に「買う」ものであって、「建てる」ものではないという現実だ。買い手は、売り主が用意してくれたマンションを既製品として、すでに用意された選択肢のなかから、選ぶ。金額のスケールこそまるっきり違うけれど、やっていることは、家電製品やら洋服やらを買うのとほとんど同じだ。

コーポラティヴ住宅のようなごく一部の例外を除けば、分譲マンションにおいて、敷地探しや建築家選びや設計の過程の一切は、実際にそこに住むひとびとの預かり知らぬところで決められる。買い手・住み手にたいして、建築そのものの設計にじぶんの意見を反映させたり、建築の過程に密に寄り添ったりする機会が提供されることは、まずない。「オーダー」を謳っていても、せいぜい内装の味つけにわずかばかりの選択肢が提供されるあたりが関の山であり、出来合いのもののなかから選ぶという本質に変わりはない。ここでは、住み手は徹底して計画や生産の過程から遠ざけられている。住み手というより、むしろ買い手であることしか求められていない。計画や生産は、売り主になるひとびとの仕事なのであり、つくり手や売り手と買い手・住み手のあいだは徹底的に分断されている。

この構図のなかでは、つくり手・売り手の関心は、ともするとその分譲マンションが人気をよび、首尾よく全戸売れてくれることに流れがちである。その建築が将来どのように、そこに住むひとびとや近隣のひとびとの生活や環境を豊かにしてくれるかということなどは、しばしば後景に退きがちとなり、ひどいと完全に欠落する。売り出し時の美辞麗句はもっぱら顧客獲得を志向しているのであって、その建築の行く末にたいするビジョンと責任に裏打ちされているわけではない。

一方、事実上生産過程から締めだされている買い手のほうからしてみれば、完成品を手わたされるだけなので、その内部はブラックボックスになってしまう。買った品物つまり住宅が欠陥品であるかどうかは、買って、住みはじめたあとでしかわからないし、下手すると、それでも気がつかなかったりする。賭けのようなものだ。

これって、近代マスメディア産業と同じ構図なのだけれど、もっといえば、商品経済というしくみそれ自身のなかに含まれている志向性だといえよう。ただ、住宅が商品として扱われるとき、他の商品と決定的に異なるのは、それに投じられるお金が個人にとっては桁外れに大きいことだ。買ったときにはたいてい、貯金をあらかたはき出して空っぽになっており、それでも足りずに何十年ものローンを組んでいる。だから万一にもババを引いてしまったら最後、もう身動きがとれなくなってしまう。

だからこそ売り手は、買い手・住み手がもっと計画や建築のプロセスに主体的にかかわることができるようなモデルを構築していかなければならないのではないだろうか。

規制強化も大切だろうが、現在の「分譲マンションというしくみ」そのものが変わらない限り、悲劇はくり返されるような気がしてならない。