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Amazon Kindle

かねて噂のAmazon謹製電子書籍リーダーKindleが、とうとう発売された。399ドル(5万円弱ほど)というから、アップルのiPhoneとちょうど同じ価格だ。といっても、当面は米国のみで、日本では発売しないらしい。そのせいか別の理由によるかは知らないが、日本のマスメディアは概して無関心だ。その無関心ぶりは、ネットのIT系ニュースサイトやブロガーたちの反応の素早さや厚みと比べたとき、奇妙に感じられるほどである。

鳴り物入りで発売されたKindleだが、細かな機能はともかく、電子ブックリーダーとしての枠組みに目新しさはない。ケータイ小説やマンガ配信に読者も業界も群がる日本の状況からすれば、このKindleはそのネーミングに込められた烈しい感情──この言葉は、あおる、燃え立たせる、輝かす、産むなどといった意味を含む動詞である──に相反して、牧歌的な印象をいだかせるものである。もしこの商品が商業的に成功するとしたら、この「鈍さ」が鍵になるのではないか。

Kindleが端的に示しているのは、アマゾンの「本」にたいする想像力である。それは本を冊子体という物質的な水準において捉え、それをデバイスと見なす発想だ。紙の冊子体という器に、テクストが内容として盛りつけられているという、古典的なメディアとコンテンツのイメージであり、いたって保守的で、わかりやすい。だから、冊子体の可搬性と形状をそのまま物質として実現し、ページや版面をディスプレイに置き換え、内容にあたる作品をそこに表示できるようにし、タイトルを探す書店や図書館にあたる空間をネットで提供する。こうした発想は、過去に存在した他の電子書籍リーダーと変わるところはない。そもそも専用機であること自体が、冊子体の本にわたしたちが見出してきた世界性──その基盤は綴じられた本という物質性にある──にたいして、よくいえば敬意を払っており、別言すれば、本を伝統的な範疇にとどめようとしているといわねばなるまい。

アマゾンのKindleの特徴をよりはっきりと把握したいのであれば、グーグルのすすめるブック検索と比較してみればよい。こちらは、大学や図書館、出版社と連合して、地球上の冊子体の本を片っ端からスキャンしていこうとするプロジェクトだ。米国の出版業界は、これを救世主とみるか敵とみるか日和見を決め込むかにわかれて、紛糾している。

ブック検索に限らず、グーグルの活動を支えるのは、独特の使命感である。それは、あらゆる知を断片化していわばカード化し、フラットな情報空間を構築していくという世界観にもとづいている。本日(2007年11月25日)付け朝日新聞の求人広告欄の企画記事(14面)に、グーグル日本法人社長・村上憲郎氏のインタビューが掲載されていた。村上氏は、グーグルはメディアではなく価値中立的な立場だと強調する。氏の見解というだけではなく、米国本家が掲げるとおりの主張である。だが、この発言をもし額面どおり受けとるのだとしたら、それは理解を誤る道だといわねばなるまい。すべての知は情報であり、情報はすべて検索資源だとする世界観自体、きわめて独特かつ立派なひとつの価値観であり、思想だからだ。この思想は、一方では誰しもがグーグルをつかわざるをえず、グーグルは広告媒体として栄える、という筋書きへとつながり、もう一方では、とりわけ世界性と「人間(ヒューマン)」を重ねあわせるフィクションの上に成立してきた人文系の知は、その解体にいよいよ決定的な一撃がくわえられることを意味しているだろう。良し悪しは別として。

アマゾンとグーグルは昨今、「グーグル・アマゾン的世界」などとして、つねに十把一絡げに扱われる。だが、本とくに書籍にたいする姿勢を見ていくならば、両者のビジョンやテイストの違いは端的に浮き彫りになる。物販を生業とするアマゾンにとって、本を扱うときその物質的側面を無視することができない。これにたいして、検索サービスを武器に広告媒体として主導権を握るグーグルにとっては、本は検索資源の一大宝庫──ただしいくつもあるうちのひとつの宝庫にすぎない。両者に共通するのは、いまや書籍こそがデジタル化を拒むアナログ世界の最後の牙城であり、最大の草刈り場であると見なす点にある。

以下を参照。

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拙稿「グーグル切断──デジタル・メディア社会における「活字」と「綴じること」」(『東京大学情報学環紀要 情報学研究』70号、2006年12月所収)はこちら(PDFファイル)。