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コストパフォーマンス思考(下)

だが、一見合理的にみえるこのコストパフォーマンス思考には、陥穽が隠されている。「なにを選んでも、心底満足できな」くなってしまうのだ。この不幸は、リスクをなるべく排除しようとしたことの帰結として到来する。まず、二つのものが失われてしまうと知る必要がある。

第一に、駄作に接する機会が失われる。

作品は人間と同じで、多様性のなかに生きている。大多数は凡庸きわまりない。傑作はごく少数で、それなりの数を駄作が占める。なかには、腰が抜けるくらいひどい超駄作もある。これらを避けてとおるのは、多様な作品世界に接する貴重な機会をみすみす捨てているようなものだ。

駄作や超駄作を知らなければ、すぐれた作品に接したときに、そのよさを理解することができない。だが、それだけではない。駄作を駄作としてそれとしっかり向きあうというのは、しんどい反面、それ特有のたのしさをもっているものである。そのたのしさを得る機会も失われる。いったいどうすれもこんなショーモナイ作品や商品や展覧会ができるのか。呆れはてて思考も枯れるという経験は、得難いものである。

第二に、多様な「よさ」がありうることを知る機会を失う。

いかなる選択であれ、なんらかの基準によってなされる。コストパフォーマンス思考のばあい、選択基準はじぶん自身ではなく、他人たちである。そこでは一般的に、最大公約数的な作品が相対的に前景化しやすい。それにまた、そのようなレビューで「よい」「観て損はない」という評価を得たとしても、それはどこまでも他人の評価であるにすぎない。

いま仮に、その評価に後押しされて作品を観にいっておもしろかったとしよう。しかし、そのときあなたが感じた「よかった」は、あなた自身の内側から感じとられたのではなく、あなたが参照したレビューを書いた他人の「よかった」を追認しただけだ。あるいは、レビューを読んでこの作品に決めたじぶんの判断の正しさを確認しただけである。それは、作品それ自体がもつ力とは別の話だ。

逆に、ユーザーレビューでの高評価とは裏腹に、作品がつまらなかったとしよう。あなたはきっと、レビューアーの見識のなさを嘆いたり、それを信じたじぶん自身の失敗をなじったりしたくなるだろう。こうしてあなたは、本来、当事者であるあなた自身に帰属するはずの、作品のつまらなさを引きうける権利を行使する機会を失ってしまう。

つまらなさを引きうける権利は、もうひとつの権利と裏表だ。つまり、ほかの誰がなんといおうとこの作品のよさはじぶんだけにはわかる、と思い込むことが許される権利である。コストパフォーマンス思考は、この二つの権利をいっぺんに奪う。

それだけではない。じぶんにとっての「よさ」を発見することは、駄作がどのように駄作であるかを知るのと同様、じぶん自身の基準をつくりあげていくための試行錯誤である。試行錯誤のないところに学習はない。だから、試行錯誤の機会が失われるということは、学習してみずからを変更していく可能性を奪われることにほかならない。

すなわち、コストパフォーマンス思考に過度に浸りすぎると、学習して成長する機構が停止する。あとはひたすら情報を右から左に消費するしかない。「おもしろがらせてくれ」「損をさせないでくれ」というあなたまかせの受け身の態度しかとれなくなる。このような態度で作品選択に臨んでいては、みずからの選択に満足できる日は、おそらく永久に訪れることはないだろう。

なぜなら、このような思考における選択のなかには、すでに当事者であるじぶん自身が失われているからだ。本来一律の基準で測定できるはずのないものを、じぶんの外部にある尺度で測る。あなたの時間、あなたのおカネ、あなたの身体、あなたの価値は、外部に奪われる一方だ。

だからあなたはけっして満足できないのだ。あんなにあれこれチェックして選んだはずなのに、いざ作品に向きあうと、じつはもっとおもしろくて観るべきだった作品が別にあったのではなかったか(つまり、じぶんは損をしているのではないか)という気持ちに襲われ、焦りや不安に追い立てられる。

可能なかぎり大量の情報を集めることは、けっして最善の選択を約束してくれるものではない。そのことを、われわれは謙虚に知るしかない。対処療法にすぎないとはいえ、処方箋ははっきりしている。ある段階できっぱりと情報を遮断するのだ。そして、えいや! と、じぶんの一歩を踏みだすことだ。

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