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映画『ザ・マジックアワー』

築地につづいて守加護(すかご)へ向かう。映画『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜脚本と監督)である。

三谷が監督や脚本家としてかかわった映画のなかで、たぶん最良の作品だ。(舞台やテレビドラマを別とするならば。)

かれの撮る(書く)映画には、これまでしばしば、一見もっともらしいメッセージをむりやり接着して、観る者を一気に白けさせてしまう癖が見られた。そんな「テーマ」は、失礼な言い方になるが特段深みのあるものではないし、本人とて本気で信じていたともおもわれない。「よそゆき」というか「建前」というか、一種の身構えだったのだろう。今回の作品には、そんな余計な力こぶは見られない。シチュエーション・コメディを貫きとおしている。それがいい。

いまや邦画界では希少種といえるオリジナル脚本である。例によってよく練られている。込み入った物語構造と入り乱れる人物を手際よくさばきつつ、客を笑わせ、伏線を張り、物語を展開させる。感心したのは演出だ。これまでどこか素人監督という逃げ道を用意しているように見えた三谷だが、今回は最後までテンポが乱れることなく、堂々とした「映画監督」ぶりで作品をまとめあげている。

スタッフワークの質はきわめて高い。本作品の肝である美術はいうにおよばず、撮影や照明もよい。音楽も称賛に値する仕事だとおもう。それから、配役。過去の作品では意外性がともすると過剰でやりすぎの感があったが、今回はいい塩梅にはまっている。佐藤浩市を初めていい役者だとおもった。個人的におどろいたのは、柳澤慎一の登場と、市村萬次郎がビリー・ワイルダーそっくりだったこと。

筋はシンプルだが、物語構造はちょっとややこしい。肝をなすのは、「映画についての映画」という自己言及性だ。「映画みたいな世界」に「映画をつくる世界」が同居する。二つの世界は最後まで交錯することはなく、それぞれ一定の距離を保ったまま終わる。それゆえにどんな観客も混乱することなく鑑賞できるわけだが、もしこの作品に物足りなさが感じられるとしたら、この点であるかもしれない。

自己言及性はまた、この作品のおもしろさが、物語構造上きわどい地点に立つことと引き替えに得られるものであることも示している。少しでもバランスを崩せば、一気に自家中毒へと崩壊しただろう(じじつわたしたちは多数の失敗例とごく少数の成功例のあることを知っている)。

その細い尾根の上を一歩も踏みはずすことなく最後まで歩ききることに成功しているのだとしたら、その最大の要因は、このフィルムを実現させることにたいする三谷自身の強い気持ちなのではあるまいか。