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映画『ビルマ、パゴダの影で』

昨日は、人文書の書店員さんたちの勉強会で話をさせていただいた。「ポスト人文書空間において「人文書」はいかに可能か」と題して、いま書こうとしている論文の内容を、さわりのところだけなのだけれど、お話しした。参加者はみなひじょうに熱心で、ぼく自身もいろいろと教えられた。貴重な機会だった。

公開されたばかりのFirefox 3.0をさっそくダウンロード。むちゃくちゃ速い。でもやっぱり、メインでつかうのは当面Safariのほうだろう。

さて、しばらく前に観たドキュメンタリー映画の評である。『ビルマ、パゴダの影で』(アイリーヌ・マーティ監督)。監督はスイス人ドキュメンタリストで、観光PR番組の制作と偽って入国し、案内兼監視役の公務員の目を逃れて撮影を敢行したものだという。ミャンマー(というのは軍事政権のつけた国名らしいのだが)で軍事政権に圧迫される少数民族を中心に取材した作品だ。

軍事政権そのものの圧政を直接描くのではない。ミャンマー国内の多民族状況のなかで、主流派のビルマ民族が、それ以外の少数民族を迫害しているという構図の下に、その少数民族たちの状況を描こうとしている。

政府軍によって村を追われた少数民族のひとびとが難民キャンプにのがれてくる。かれらの口から、軍隊が村に入り、無茶な徴用で労働力を奪い、家屋や備蓄食糧へ放火をくりかえして、少数民族を徹底的に迫害するさまが語られる。だれもが、ぽつりぽつりと、ちぎっては投げるようにして言葉を吐きだす。

難民キャンプを守っているのは、少数民族による武装した反政府軍だ。かれらは密林のなかで政府軍とたたかっている。反政府武装組織はいくつも存在するようだが(それはそうだろう)、それらは連帯しているとナレーションが語る。

将来の希望は? とインタビュアーが難民キャンプに暮らす子どもたち──多くは戦闘で身寄りをなくしている──に訊ねる。子どもたちの答えは、みな一様だ。少女は、故郷の村で教師になりたいという。少年は反政府組織の兵士になりたいという。両親を殺したやつらを撃ちたいのだという。

声高に告発するのではないが、作品の視点は基本的に少数民族の側に寄り添っている。それゆえか、軍事政権対少数民族という図式を知らず知らずに強調することになる。背景事情を詳しく把握していないので、的外れかもしれないが、おそらくは少数民族側とて一枚岩であるのではなく、いくつもの切断線が走り、相互に思惑が錯綜しているにちがいなかろう。であるのなら本作品は、貴重な報告であることをじゅうぶん認めたうえで、同時に作品として見るならば、全体に少々図式的で平板なのが残念だといわねばなるまい。