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花火

木曜金曜と集中講義で、週末をはさんで月曜まで続く。「講義」といっているが、実質はワークショップだ。芸術メディア系列の教員3名が総出で三日間びっちり張りつく。

学生に与えられるテーマは「なぜ働くのか」。チームごとに議論をして、じぶんたちの考えを上演形式(なるべく柔軟に考えてよい)で発表する。望ましい「正しい結論」などない。まずは学生たちの頭が社会に流通する俗っぽい通念で固められ、そのじつじぶん自身ではほとんど考えていない現実に気づくことから始まる。学生たちにとって、それはしんどい作業である。

子どものころにはプロ野球選手やサッカー選手やアイドル歌手にあこがれた。あの気持ちは、無知な子どもの無邪気な、しかし実現不能な夢というものではなく、その年代なりにリアリティをもって考えた「働くこと」「仕事」のイメージだった。いつごろからかそれは失われ、「働くこと」の中身が消えて、「生活」だけが前景化してゆく。だから、かれらのイメージする「働くこと」には、「つらい」「たいへん」「お金さえあれば働きたくない」というネガティヴな言葉がつきまとう。そこには、「働くこと」こそが、社会のなかで相互に承認されることをとおしてみずからを成長させてゆくこと、いいかえれば生きることそのものに直結しているのだという認識は微塵もない。まずは議論と発表をくりかえすなかで、そのことにみずから気づいてゆかねばならない。

この過程に付きあうのだから、教員のほうにも強い気持ちが要求される。学生たちの議論をファシリテートすることは、なによりじぶん自身に「おまえ自身、本気でそう言えるのか」と突きつけられることを意味しているからだ。ワークショップとしては金曜が山、学生たちは週末に課題をしあげて、月曜に発表をむかえる。

土曜日は横浜キャンパスでオープンキャンパス。ぼくは芸術学科ガイダンスと模擬授業を担当した。これで二度目。芸術学科の学生たちは、個性的でモチベーションが高いと話す。模擬授業ではテレビコマーシャルの分析を、ほんのさわりだけだけれど、実践してみた。前のほうに座った女子高生たちの感覚が鋭くて、とてもよかった。

帰りの総武快速が江戸川にさしかかる。視界にとびこんできたのは異様な光景だった。両岸ともびっちりとひとで埋め尽くされているのだ。江戸川の花火大会の見学者だ。市川駅構内も、昔、上野動物園にパンダがやってきたときのような、えらい人出である。週末はうちに逼塞しているのが常なので、こんな状態に巻き込まれるのは初めてだ。

自宅にたどり着くと、花火の打上が始まった。ロフトのデッキにあがる。子どもたちもぞろぞろと這いのぼってくる。市川・小岩の花火は、すぐそこで爆弾が爆発しているのではないかというほどの音響で轟く。たまたま、うちと花火のあいだにそびえる巨樹によって花火そのものは遮られ、上空が色とりどりに光るさまをながめることができるばかりである。

反対側に目をやると、遠くの林の上に小さく打上花火の炸裂が見える。同日開催の松戸の花火だ。日の暮れたデッキで、電線にとまったスズメの一家のように鈴なりにとまり、遠くにあがる花火をながめては、しばしびゅうびゅうと風に吹かれたのだった。