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映画『真夏のオリオン』

冒頭のシークエンスから、やってくれるではないか。脚本も役者も演出も構図も、何もかもが絶望的である。これを観て頭をかかえずに済むのなら、かなりの強者だといわねばなるまい。

それにもかかわらず、二度観た。たぶん何をいってもよい資格があるはずだ。むろん失敗作であろう。全体としては、福井敏晴のかかわる前二作『ローレライ』『亡国のイージス』と比べると(『戦国自衛隊1549』もそうか)、後者はもう論外なので措くとして、前者よりはいくぶんマシといったところだ。

福井関係映画に共通する最大の欠陥は、作品の要素として、イデオロギーとオタク的なディテールの二つしか含まれない点である。ディテールのほうは、まあともかく、イデオロギーのほうは、お世辞にも深みや拡がりの感じられるものとはいいがたい。型どおりの空疎なイデオロギーの代理としてつくられた作品が、映画として娯楽として、いかに惨めなものか。そのことを、この作品は教えてくれる(なるべく教えてほしくないのだが)。

こうした性質をもつ作品の通例として、物語と人物は不在である。ごくごく常識的な作劇の基本さえ踏まえていない。あえて踏まえぬ道を選んだというわけでもなかろう。なぜなら、のちに戦死する運命にある者は、それに先だつシークエンスで必ず家族の写真をながめるというワンパターンが、本作品でも単純に反復されているからだ。作劇の方法論がよくわかっていない、ということなのだろうか。このあたり、原作と位置づけられる池上司の『雷撃深度一九・五』が冒険小説の基本的枠組に忠実だったことに比べると、だいぶ崩れてしまっているといわねばなるまい。

主人公が危機的状況に直面し、その困難を乗り越えることで変化する。それが成長だ。その葛藤や摩擦がドラマの肝をなすのだが、この作品では(他の福井関係作品と同様)、その過程が欠落している。当然お話は平板なまま、いつまでたってもまったく立ちあがってこない。玉木宏演じる主人公の艦長は最初から最後まで万能なスーパーマンである。もちろん、策士策に溺れる的な堂珍艦長が早々に撃沈されたり、長時間浮上できない事態に直面したりはするのだが、それとて玉木艦長にはひとつのエピソードにすぎない。主人公の人間的な変容を迫るものではないからだ。

潜水艦のセットは邦画史上もっともよくできている。だが、見せ方が下手。潜水艦映画の傑作『Uボート』の、あの緊迫した閉塞感をよく見習うべきである。

プロットのほうは、もう一本の潜水艦ものの傑作『眼下の敵』ほぼそのまんま。しかしプロットの踏襲を優先したためなのか、本作品で描かれる潜水艦戦は、かなり説得力に乏しい。あの時期にあの海域で駆逐艦が単艦で長時間行動するのは、かなり無理があろう。米軍の航空機は晴天の昼間であろうとまったくあらわれず、また玉木艦長も対空警戒に心を配っているそぶりは露ほども見せない。イー77潜の艦橋にも電探らしき装備は認められない。モデルになったイー58潜の橋本以保艦長の本『イー58潜帰投せり』を読むと、大戦末期かれの注意はほぼすべて対空警戒装備のことに向けられており、じっさい当時最新の電探をなかば無理やりに確保して自艦に装備したことが、イー58潜の長命につながったのだとはっきり書かれている。

作品中の玉木艦長は、回天の特攻使用を認めない。それは『雷撃深度一九・五』でも同様だ。イー58潜の橋本艦長も、重巡洋艦インディアナポリス撃沈時には回天戦をしかけていない(他の作戦時は回天を出撃させている)。だが、それらにはそれぞれの──前者には冒険小説的な、後者には当時の戦術的な──必然性があるのだが、本作品ではただのステレオタイプな今様のヒューマニズムに還元されてしまっている。それがかえって、ひとの命を薄っぺらなものにしてしまっているようにおもわれる。