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方法としてのデジタルストーリーテリング

デジタルストーリーテリングで映像作品をつくります──というと、いろいろな学生があらわれる。

少数ながら毎回混入しているのが、勘違い系とでもいうのだろうか、映像製作という愉しげな言葉だけに釣られてやってくるタイプの学生である。かれらの特徴は、おのれの「感性」とやらを実現したいという欲望にのみ忠実なことだ。たいていのばあい、かれらの語る「感性」とはいたって凡庸なステレオタイプであり、とりたてて独自性の感じられるような類のものではない。ひとりよがり、混乱、じぶんだけが勝手に気持ちのいいマスターベーション。だから他の学生やぼくのコメントやアドバイスにたいして、まるで耳を貸す用意がない。かれらの関心はおのれの欲望を満たすことだけにあるのだから、当然といえば当然だろう。受講態度は、いきおいまじめとはいいにくいものになる。まじめとは、けっして、くそまじめという意味ではない。課題に真摯に取り組む姿勢が欠落しているということだ。

ではまじめな優等生がいいかというと、それもちがう。かれらは答えを先回りして察知する術には長けているが、答えのあらかじめ定まっていない問いに向きあい、じぶんの知力をふりしぼって、粘り強くものを考えることには慣れていない。「答え」は教員が隠しもっているという発想のなかに棲みついている。相談と称して「答え」を探りにやってくる。ぼくのアドバイスを聞いたあとの決まり文句は「××すればいいんですか」「△△すれば大丈夫ですか」である。

むろんかれらとて、じぶん自身の語るべきテーマはもっているにちがいない。だがそれは分厚い皮膜に覆われ、ふだんは本人ですら触れられない深みに格納されている。かれらがまずしなければならないことは、その皮膜を一枚ずつ引きはがし、じぶん自身を掘ってゆくことだ。

他方で、課題を説明した段階で、すでに語るべきテーマを見つけだしている学生もいる。えてして優等生でも目端の利くタイプでもなく、どちらかといえば一見冴えないほうかもしれない。かれらに共通しているのは、じぶん自身ではどうにもできないような、少なくとも当人にはそう感じられて閉塞してしまうような状況を経験してきたことである。

今回の函館のばあい、小中高といじめにあっていたという男子学生が、その典型だった。高校までのいじめの経験もあって、生来の引っ込み思案に拍車がかかり、ひととどう距離をとっていいかわからず、じぶんの殻に閉じこもっていた。大学に入学しバス通学の道すがら車窓を眺めているうちに、それが毎日変化していることに気づいた。そのことから、まわりのことをあれこれ言うよりも先に、じぶん自身を変えなければならないと気づく。そこで勇気をだしてじぶんから同級生に話しかけてみる、というお話である。

かれのようなケースでは、ぼくにはもうほとんど何も言う必要がない。むしろ過剰に介入して邪魔をしないよう気をつけるべきである。いつものごとく途中何人もの学生が受講からフェードアウトしてゆくなかで、かれは粛々とじぶんのするべき作業をすすめた。できあがった作品は、期待に違わず力のこもったよい作品だった。同時にかれのチームはひとりの脱落者をだすこともなく、全員がさいごまで走りきった。

映像制作といえば、昨今あちこちの大学で流行っているようだが、その大半は既存マスメディアの物まねをさせて学生をよろこばせるか、ノウハウの習得か、でなければ「情報伝達」という側面ばかりを無邪気に強調したものだ。そこで忘れられているもののひとつが、作品性である。

乱暴を承知でいえば、ぼくにとっていまや「情報」などどうでもいい。大事なのは「人間」であり「作品」であり、そして人間が作品をつくり、流通させ、それに接するという事実のほうだ。作品は、才能とテクニックとによって捏ねあげられるものではなく、ひとりの人間としての存在になんらかの形で触れることで成立する。作品が根本においてもつ批評性とは、そこにかかわっている。そのことをこの授業のどこかで実感してもらえば、ぼくとしては十分だ。

ただもう一方で、ぼくのデジタルストーリーテリングのこうしたやり方は危うさをはらんでもいる。一歩まちがえば批評性が骨抜きにされ、容易に自己啓発セミナーやセラピー的なノウハウへと転落してゆきかねないからだ。むろん制作という実践からそのような陥穽を完全に排除することは、原理的にできない。仮にできたと主張するものがあったのなら、そうした安全安心な過程が生産するのはたんなる製品でしかあるまい。個人的には、すでにワークショップという手法自体が、そのような道筋をたどって骨抜きにされつつあるように感じている。

これまでのところ、そこへ滑落せずになんとか踏みとどまっていられる最大の理由は、その怖さをつねに意識するようにじぶん自身を仕向けているからだ(もうひとつの土台は、編集者時代に蓄積された経験である)。

ぼくのこのやり方は骨の髄まで文脈に依存したものである。学生がどんなアイディアをもってくるかは、やってみなければわからない。経験や予想では対処しきれない事態が表出しても、その場でただちにもっとも適切な対応を選択しなければならない。ぼくが頼りにできるものといえば、わずかばかりの知識や、これまでの経験とそこで培われた感覚だけだ。それらを総動員して授業にのぞむのだが、そこまでしたところで、つねにうまくゆく保証などどこにもない。こんな方法をマニュアル化してユニヴァーサルに適用しようとするのなら、そのとたん、そこには転落への道が巨大な口を開けて待っているにちがいなかろう。

いま北大で実施している集中講義でも、理学系の修士院生を対象にデジタルストーリーテリングをおこなっている。おどろくべきことに、2名の先生が院生にまじって受講されている。その姿勢にはほんとうに頭が下がる。ぼくの授業にそれだけの価値があるかどうかはともかく、かれらがぼくのやり方から何らかの霊感を得てくださり、デジタルストーリーテリングが日本でもさまざまな形でひろまってゆくとしたら、うれしいことである。

ただ上述のとおり、ぼくの方法は根本的なところでぼくの個性に依拠している。デジタルストーリーテリングといっても、べつにがっちり固まった方法論が存在するわけではない。いろんな方法がある。先行事例を参照しつつ、各自がそれぞれの個性や目的や文脈にかなったやり方を、試行錯誤をとおして編みだしてゆく。それがけっきょく、最善の道だろう。ぼく自身もそうしてきたのだし、いまもそうやって実践から多くを学び、貴重な霊感を得ている。だからこそ、細々とではあれ、実践を重ねつづけられているのだとおもう。