映画『イングロリアス・バスターズ』

クエンティン・タランティーノ監督の新作。任侠+冒険活劇+戦争映画といった趣である。

主役はブラッド・ピットということになっているが、実際にはストーリーラインは三本が併走しており、ピットはそのうちの一本の中心人物という役まわり。残りの二本は、メラニー・ロラン演じるユダヤ人の娘と、クリストフ・ヴァルツ演じるナチのSS大佐(ユダヤ人ハンターの異名をとる)。ピットはむやみにすごむばかりであまり動かないが、あとの二人はたいへんすばらしい。

戦争映画ではナチス側が高慢・粗野・無教養・暴力的と相場が決まっているが、本作品では裏返しに描かれる。ヴァルツの、紳士的な物腰でありながら、真綿で首を絞めるようにして相手を追い詰めてゆくさまはじつに見ごたえがある。いっぽうピット演じる米軍中尉は、ナチス・バスターズの頭目としてむやみやたらと殺戮をくりかえし、殺したナチの頭の皮を、まるで武士の月代のような形に剥ぐ。

これら三本のラインは終盤にパリの映画館でややこしく合流することになる。ただし、ロランとヴァルツの線が冒頭から終始絡みあいつづけるのにたいして、ピットの線は最後までほぼ併走しっぱなしで、物語をうまく膨らませるのにいまひとつ寄与しきれていない。かなり大胆な歴史解釈(といえるかどうかはともかく)があって、観る者を驚愕させはする。

そこで大きな役割をはたすのは、映画自身である。いろんな映画のオマージュやらコラージュやらというような意味ではなく(そういう話も好むひとは好むだろう)、物語上はっきりと、映画によって世界が破滅から救われるのだ。

多くのシネフィルにとって、ここが最大のツボだ。もうたまらない。劇場で売られているパンフレットに掲載されているドイツ映画研究家の瀬川裕司さんの解説でも(これは勉強になります)、朝日新聞紙上の北小路隆志さんの評でも、異口同音に、これは映画の勝利であるという趣旨のことを述べておられる。まったくそのとおりだと、ぼくもおもう。

ところが、そうであるにもかかわらず、後味はあまりよいとはいえない。冒険活劇ではあるかもしれないが、そうしたタイプの作品が約束してくれる、観終わってスカッと解放されるようなカタルシスとは無縁である。むしろ反対に、なんともいえず陰鬱な気持ちにさせられる。物事は根本的には何も解決せず、せいぜい抗ってみせた痕跡が残されるだけ、なのだ。

それをタランティーノの失敗というような水準で語るのは必ずしも適切ではあるまい。活劇をとことん志向しながら、結果としてカタルシスに到達しえないことにこそ、今日的なリアリティがあると考えるべきなのかもしれない。カタルシスとは、いってみれば一種の安全弁でしかないのだから。

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