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映画『バッタ君町に行く』

アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。

まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代(1941年公開)の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている(日本の「アニメ」の大半は(全部ではない)、もうこのことを忘れてしまっている)。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。

動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。

物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。

したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。

その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。

ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。

今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。

なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。