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映画『アバター』

ジェームズ・キャメロン監督12年ぶりの新作。全体に『ターミネーター1/2』のころに戻ったかのようなSFアクション仕立てである。鮮明な3Dかつ全篇CGつかいまくりであるうえ、物語も細部にまで神経がゆきわたっており、じつによくできた娯楽大作だ。2時間半以上の上映時間を十分に愉しむことができる。ただし、そうでありながらも、そこはキャメロン作品。思わせぶりでありながら底の浅さが見えてしまい、どこか釈然としない居心地わるさが残る。

その要因は主として、物語の背後に見え隠れする認識や考え方にある。

物語の構築については、定型的でシンプルなプロットに厚みのあるエピソード記述をかぶせるという正攻法的手法が採用されており、その点では見事である。

設定や主題は『風の谷のナウシカ』(映画版のほう)のキャメロン流解釈という感じだ。破壊し尽くされた地球から溢れでた人類と、かれらによって侵略されつつある惑星パンドラの原住民ナヴィ族とがあわせ鏡という関係にある。両者は今日のわたしたち人類の善良さと悪徳という二つの側面をあらわしている。前者が環境を破壊し他者を侵略してその持ち物を略奪するのにたいして、後者は一見原始的にみえながらそのじつ自然と調和一体化した理念的存在である。

そして、ともあれパンドラの中核は人類の侵略から防衛されることになり、もともとは人類の側の周縁的な立場にいながらナヴィの側に立つことになった主人公のアバターが、最終的にナヴィそのものへと転生してゆく。これは、人類の再生というモティーフだと指摘することもでき、その意味ではいちおう文明批評を匂わせつつも肯定的なニュアンスをともないながら物語を収めようとしていると理解できるだろう。

さて、本作品が根本において孕む限界とは、こうした現代の神話ともいえるような主題を提示してみせる態度が、けっきょくはただの格好つけでしかないことにある。キャメロンがこの主題について、さほど真剣に考えているわけではないとうけとらざるをえない箇所が散見されてしまうのである。

プロット上の主軸は、主人公たちの達成感が、そのままパンドラを守り通した安堵感へ横滑りさせるところにある。しかしそれは詐術だ。かれらが排撃したのは、たんに出先の一部隊でしかない。かれらの「活躍」が人類の側に何かを気づかせたような形跡もない。つまり事態はなんら根本的な解決を見ていないのだ。ということは、人類にとってパンドラは略奪されるのを待っている宝物殿であるという認識に変更はなく、かれらが万端の準備を整えたうえで再攻略に到来する日はそう遠くはないだろう。近代的な武力においてナヴィは人類に対抗できない以上、パンドラの破滅はたんに先送りされただけにすぎない。こうした設定は、あるいは続編製作を見込んでのものかと勘ぐりたくもなる。

細かい設定や描写のレベルでも同様だ。人類のあり方の理想像を投影されているナヴィの主要人物は、あらかじめ英語を解する(いちおうそれを妥当化するための状況説明がなされはする)。ナヴィの自然との一体化という「理想」のイメージも底が知れている。動物やら植物やらといった環境は、けっきょくは人間(ナヴィとは理念的な人間である)の能力をより強力に拡張するための諸資源としてしかとらえられず、その能力を徹底的に動員され、人間の思いどおりに操られる道具として描かれている。

自己の文化に都合のよい形でしか他者を想像・表象できない。にもかかわらず、これを押し隠して恰好をつける。これがキャメロン的なものの限界である。キャメロンだけに固有の問題ではあるまい。