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清水幾太郎「テレビジョン時代」

いま3年生の講読の授業で清水幾太郎「テレビジョン時代」を読んでいる。初出は1957年。『思想』11月号の特集「マス・メディアとしてのテレビジョン」の巻頭論文として発表された。

一般にこの論文は、テレビ黎明期において当時の最新メディアであったテレビの可能性について論じた先駆的論文と位置づけられている。ぼくもそのように教わったし、そう教えてくださったひとりである吉見俊哉先生も、2003年の『思想』12月号に再録するにあたって、そのような位置づけの解題を書いている。

発想の中心にあるのは、テレビジョン技術が実現する、イメージの直接的な現前性である。発想としては一種の技術中心主義であり、テレビ以後の展開を知っている今日の目からみれば古くさいと感じられるところも少なくない。それでも、いまなお、やはりひじょうに重要な論文のひとつであることはまちがいない。ぼくはこの論文を何度も読んだ。

しかし、読めば読むほど、ここで中心に論じられているのは、テレビジョンではないようにおもわれてならない。清水さんのまなざしは、テレビを経由したうえで、書物へ向かっている。テレビの圧倒的に直接的な現前性のリアリティのまえに、わざわざ読書などという七面倒な努力を要請する書物がいかにも「無精」で「骨の折れる」メディアだと感じられるようになってゆく。

テレビジョンという新しいメディアの登場によって、芯から書物のひとである清水さんは、あらためて書物について突き詰めて考えざるをえないところへ追い込まれた。かれ自身も、そして当時の「気分」としても、テレビ登場のインパクトは圧倒的であり、書物がそれまで把持していた絶対的なポジションは急速に色あせていった。その焦燥感というか緊迫感は、清水さん自身が知の巨人──ただし昨今のようなデフレ化された意味ではまったくない──であったがゆえに、並の知識人の比ではなかっただろう。

だから「テレビジョン時代」というこの論文タイトルに言葉を補うとしたら、「テレビジョン時代における書物のあり方について」ということになるだろう。

「電子書籍元年」などと新旧の産業の思惑が入り乱れて巷はにぎやかだが、あれから半世紀以上がすぎ、いまや書物のアクチュアリティについてここまで真摯にまともに考察するひとは、ほとんど見あたらなくなってしまった。

のみならず、半世紀以上前には最先端だったテレビでさえ、いまや古いメディアに分類されるようになった。そのテレビも、数多の言説にまみれながらも、その様相を的確にとらえようとしたものは、必ずしも多いとはいえない。

清水さんは、思想的立場の変転の影響もあってか、いまやほぼ忘れられた思想家である。最近では小熊英二さんらが一刀両断にした小さな評伝が目にとまるくらいだ。

清水さんは、ぼくの師匠である水越伸先生の、その師匠(嶋田厚先生)の、そのまた師匠にあたるひとであり、ということは、系譜としてはぼくは清水さんの曾孫弟子ということになる(情けないことに、曾孫レベルまでくると、すっかり「ただのひと」になってしまっているわけだが)。だから、というわけではないけれども、かれのメディア論的思考は、いまこそあらためて読み直されるべきだとおもっている。