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トランスカルチュラル花笠音頭

運動会ネタもうひとつ。

小学校の運動会では学年ごとに競技と演技がある。《くんくん》の学年の演技は花笠音頭だった。毎年おなじみのレパートリーなのだ。そして毎年これを見るたびに疑問におもう。そもそも千葉の小学生がなぜ運動会で山形の民謡を踊らねばならないのか。

考えられるひとつの説明は、千葉には地域を象徴する民謡も踊りもないから、というものだ。たしかに、にわかにそう問われても、何も思い浮かばない。しいていえば、「菜の花体操」という名の、体操というか踊りというか、そんなようなものがあるくらいだろう。菜の花体操は県内の小学校でも教えたりしているらしい。だが、あれが千葉県という地域を象徴しているのかといわれれば、誰であれ首肯しにくいはずだ。だいいち市川のわが小学校ではこれを教えていない(見識だとおもう)。ということは、やはり千葉には千葉らしさを象徴する民謡や踊りは見あたらないのである。

なにもないということは、なんでもありということでもある。だから目についたものをいくつか適当に選んで恣意的に結びつけ、「文化」や「伝統」っぽい装いをでっち上げるのかもしれない。だとすれば、今日の小学校運動会もまた立派にポストモダン社会の一翼を担っているというべきだろう。

そう考えると、合点がいかなくもない。他の学年では琉球のエイサーを踊る。今年は演目に入っていなかったが、よさこいソーラン節を演じた年もある。エイサーについては、まあともかく、よさこいソーラン節にいたっては伝統文化でもなんでもない。たんなる北海道の地域興しイベントにすぎないのだ。そんなものであっても、とにかく文脈を無視して取りこんでしまうのである。

では、なぜそうまでして各地の民謡を取りこもうとするのだろうか。それは「伝統的な文化」の装いを運動会に施したいからだろう。教育的な意味あいもあるだろうし、地域性という観点も含まれているかもしれない。運動会は代理店的イベントではないし、そうなってはいけない、という気持ちが基盤にあるはずである。

しかし、いくつかの知見が明らかにしているように、じつは民謡の多くは必ずしも「伝統的な文化」とはいえないのだ。たとえば、民謡としての花笠音頭が成立するのは大正末期から昭和初期であり、歌謡曲の一種なのだという。つまり「和」とか「日本の伝統」として継承されてきた芸能というよりも、モダニズムの時代の「流行」として発明されたものなのである。その「流行」は、ラジオやレコードといったマスメディアの普及を背景にしている。したがって、花笠音頭が装う「伝統」らしさとは、文字どおりの伝統というよりも、いたって近代的な意識と感覚の上に成立したものなのである。

そのことは、今年の花笠音頭が例年とはひと味ちがっていた事実によって裏打ちされるだろう。どういうわけか坂本龍馬が登場するのだ。龍馬が袴姿でやってきて刀をふりまわし、マイクに向かって「きょうは花笠音頭を見物にきたぜよ」と叫ぶ。それを合図に花笠音頭が始まるのである。

山形の民謡である花笠音頭に、土佐の坂本龍馬が出てきて、千葉の小学生が踊る。この取りあわせを必然とする説明の成り立つ余地は、ほぼ皆無である。唯一可能な説明は「今年の大河ドラマが『竜馬伝』だから」であろう。きっと先生のなかに福山雅治のファンがいたとか、そんなところにちがいない。

そんなこんなで、とにかく結果として実現してしまった花笠音頭は、落ち着いて眺めてみれば奇妙奇天烈なシロモノなのであり、しかも誰もそれを奇妙だとおもっていないという光景が、いっそう奇妙であるといわねばなるまい。

そして、トランスカルチュラルな現象とは、たぶんそうしたものなのだ。なにもジャパニメーションやらオタク文化やらの海外進出といったコンテンツ・ナショナリズム的な、つまらない話ばかりがトランスカルチャーなのではない。