「じぶんの頭」で考える

今年度の卒論ゼミの最初の発表を実施した。まるまる二日がかり。ぼくのところでは、テーマに限定を設けていない。条件はただひとつ、当人にとって切実なものをテーマに据えることだけである。いまの時期は、じぶんのテーマを徹底的に模索してもらわねばならない。──はずなのだが、現実は厳しい。もしかしたら壊滅的な結果を迎えることになるかもしれない。

発表のなかで、たとえばこんな場面があった。

漫画で卒論を書くと決めて入学しました、と話す学生がいた。それはわかる。そのこと自体にはなんの問題もない。しかしもう4年生の5月末だ。卒論のテーマにするのなら、漫画をどのように主題にとして取りあげたいのか、という方向で考えなければならない。入学以来3年以上の時間があり、それなりのカリキュラムも整っているわけだから、いくらでも勉強したり考えたり取り組んだりする機会はあったはずだ。それについて訊ねるのだが、何も話してくれない。ほかの学生たちがあれこれ水を向けても、それはじぶんの興味とは違うとはねつけるばかり。

ひとりの学生が質問した。
「長男ですか?」
発表者の学生が答える。「そうです」
「弟さんですか? 妹さんですか?」
「弟です」
「弟さんと漫画の貸し借りとかしますか?」
「あ、しますね」
「ほう」。質問者の学生は、そう言うと発言を終えた。

ぼくは椅子から転げ落ちそうになった。向こうのほうに坐っていた大学院生の《やだ》は「だから、なんなんだよ!?」と叫んで額を机に打ちつけていた。

かれらは、考えがまとまらなくて言葉にできない、のではない。じぶんの頭でものを考えることをしていないのだ。「アドバイスお願いします」という言葉を述べはする。しかしそれは謙虚が言わせているのではない。ただ「丸投げ」しているだけなのである。

さらに興味深いのは、けっして手抜きでそうしているのではないことだ。手抜きとは、本来やるべき事柄が見えていながらそれを回避しようとすることだから、物事の把握はそれなりにできている。かれらはそうではない。そもそも行為のレパートリーのなかから「じぶんの頭でものを考える」という項目が欠落しているかのように振る舞うのだ。かれらの中にあるさまざまなものは個々バラバラにあるだけで、相互に結びつけようとする発想がまったく生起しない。少なくとも、そのように見えてしまう。

ふしぎなもので、学年ごとの単位でみるとき、年度によって雰囲気はそれぞれ異なっている。今年度の学生たちは、ある時期までは比較的評判がよかった。言われたことをちゃんと守る、真面目である、といったように。しかし3年次ごろから課題が浮かびあがってきた。言われたことはやるが、同時にそれしかやろうとしない。与えられた課題をただ「こなす」。じぶんで頭をつかったり動こうとしたりしない。当然そこに「成長」はなく、いつまでたっても印象が変わらない。現在ぼくの卒論ゼミ生たちがかかえる課題そのものである。

こんなぐあいだから、危機感からもっとも縁遠いところにいるのは当人たちである。じぶん自身の姿とその置かれている状況とが、おそらくはまったく見えていない。かれらがまずするべきことは、そういうじぶんの姿に気づくことであろう。もうひとりのじぶんの目から観察するようにして。これまでのカリキュラムをつうじて、それを可能にするだけの蓄積をもたらしうる機会は提供してきたつもりだ。あとは当人しだいである。「気づく」とはその定義上、外部から教えられることではなく、内発的なものしかありえない。

卒論提出まで実質7カ月。一日でも早く、かれらに覚醒する日が訪れてくれることを願っている。

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