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ナショナルメディアとしてのテレビ

サッカー・ワールドカップ日本代表はとうとう16強に進出した。カメルーン戦での勝利以来、オランダ戦の健闘をへて、デンマーク戦は守備のみならず攻撃も積極的で、圧倒的にたたかっていた。

そうした姿をみるべく多くのひとたちがテレビに、あるいはパブリックビューイングのスクリーンに向かい、同じ時間に同じ試合中継番組を視聴し、その経過に一喜一憂して、勝利という結果と、それによって達成されたアウェーで初の16強進出という快挙をよろこぶ。

そうした様子をみるにつけ、あらためておもう。テレビはナショナルなメディアなのだと。

もちろんテレビに限らず、ラジオにせよ新聞にせよ広告にせよ、マスメディアとはおしなべてナショナルなものだ。ではあるものの、とりわけテレビにおいて、その性質は強調されているようにおもう。

テレビ受像器の画面にうつしだされるひとびとは口々に「同じ日本国民として誇りに思う」「勇気をもらった」などという言葉を口にしてはばからない。文筆でたべている新聞記者やサッカー・ジャーナリストでさえ、種々の記事に「日本人に生まれて良かった」と書いていたりする。

かれらの反応に通有されるキーワードは「国」「国民」「日本人」など。前提にあるのはナショナリズムである。ただし、政治的な立場はどうであれ、「ナショナリズム」という言葉だけに過敏に反応していてはいけない。

先述した「ナショナルなメディア」とは、国民文化の形成維持発展に深く根ざしている媒体というほどの意味だ。国民国家を運営してゆく上で国民文化は不可欠であり、近代社会のさまざまな制度はそのための装置という側面をもっている。とりわけ20世紀の後半以降の日本では、「国民」はテレビによって媒介されることで成立してきた。しかしそのフォーメーションは、1980年代に頂点を迎えたあとは相対的に内側から崩れてきており、現在ではテレビはもはや絶対的な地位を占めてはいない。その過程は、まさに国民国家のそれと軌を一にしている。グローバル化したポストモダン社会において、どちらもやや時代遅れとなりかけている。そんなふうに見られている。

このような見方は、たしかにそう間違ってはいない。しかし一面的ではあるかもしれない。

リーマン・ショックのさい、ジジェクだったかが、こんな意味の発言をしていた。グローバル資本主義の進展のなかで国民国家の影響力は相対的に低下しているといわれてきた。だがリーマン・ショックのような事態が明らかにしたのは、グローバル企業が国民国家にとって替わる能力があるわけではないという事実だ。つまり、グローバル資本主義の時代においても、国民国家はそれ固有の役割を見出しうるのだということである。たとえば、グローバル企業やグローバル化した市場を監視し、その暴走にたいする抑止力を発揮しうるのは、国民国家にしかできない機能なのかもしれない。

もしこのようなジジェク的見方が正しいのだとすれば、いまや地盤沈下著しいテレビのような20世紀的マスメディアもまた、21世紀的デジタルフォーメーションのなかにおいて、マスメディア固有の役割があるといえるのではないだろうか。それは、ジジェクのいうような意味における新しい国民国家を機能させるためのナショナルなメディアとはどのようなものであり、それはどのようにして可能かという問いに変換して理解することもできるだろう。

現在のマスメディア産業の内部者のなかで、そうした問いの意味を理解しうる人材がどれほどいるのかはわからない。批評家もまた、現在のテレビ産業という枠組みの内側に安住しているか、でなければむやみやたらと非難するかの両極端ばかりが目についてしまう。いまのマスメディア産業にとって重要なことは、しかしマスメディア産業がどうダメなのかと言いつのるばかりではなく、それをどう建て直してゆくかを射程に入れておく必要があるのではないだろうか。

テレビを視聴しワールドカップに昂奮するひとびとはきっと、本人たちの意識せざる水準において、そのためのヒントを、受け入れようとするひとびとの目には届くような形で、身をもって示しているのである。