ホーム > 映画を観る > 映画『トイ・ストーリー3』

映画『トイ・ストーリー3』

「トイ・ストーリー」シリーズの最終回(?)の主題は、成長と別離だ。

子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離はアメリカの現代文学がくりかえし描いてきた主題であり、ハリウッドでも若者向け作品を中心にやはり同様に反復されてきた。この主題にピクサーがどう挑戦するかが、本作品の見どころである。

結論を喩えていえば、一勝一敗といったところか。まず一勝のほうから。

主人公の人形は、大学入学を控えるまでに成長した持主の少年と、いよいよ別離を覚悟しなければならない時期をむかえることになった、という設定から物語が始まる。わかれたくない、一緒にいたい、という気持ちと、しかしそこにはじぶんたちの居場所はないという現実とのあいだで、少年も、おもちゃたちも、それぞれが烈しく揺れ動く。おもちゃと子どもとは、もとより棲む世界が異なっている。おもちゃはいつまでもおもちゃであるが、子どもはやがて大人になる。両者の蜜月はいつか終わる。それをそれぞれの仕方で受け容れることが、つぎのステップへつながる。

その意味でこの作品は、ウィニー・ザ・プーの変奏、もしくはリベンジである。

1977年のディズニー長編アニメーション映画『くまのプーさん』(より正しくいえば、短編もしくは中編のプログラムピクチャー数編を再編集してつくられた長編)では、クリストファーとプーたちとを、成長や別離とは無縁の、いつまでも誰もがずっと同じ状態でいつづけられるおとぎの世界に幽閉している。

このときすでにウォルト・ディズニーは亡くなっていたが、大人になることを根本から拒絶した「ネバーランド」的世界にとどまる志向性は、まさにかれの精神そのものだといえる。

ディズニーにとって、大人になることは汚れて駄目になることであり、子どもは純粋で無垢の存在だ。だから誰もがいつまでも子どものままでいられる世界を、アニメーションや、その三次元的展開であるテーマパークに実現しようとした。クリストファーとプーの物語もまちがいなくその精神によって構築されている。そのことは、その後にディズニーが山ほど製作したテレビアニメ版や人形劇版でも、そうした物語や設定をけっして持ち込まないことでも確認できる。むろんプーの名を冠せられたディズニーランドのアトラクションも同様だ。

別言すれば、ディズニーはクリストファーとプーの物語を直視することに堪えられなかった、ということもできるかもしれない。

というのは、これとは似て非なる思想にあるのがミルンの原作だからだ(以前に学生に訊いたら大半が原作を読んでいなかった)。『プー横町にたった家』の、あのすばらしいエンディングから感得されるのは、成長と別離にかかわる、苦みの利いた甘さ、もしくは甘さの利いた苦みにほかならない。そこにあるのは、別離のつらさを回避することではなく、ぼくたちにできることは、つらさとともに別離を受け容れるしか道はないのだと知ることであり、それと引き換えることによってのみ、ぼくたちはつぎの段階へと歩を進めることができるのだという覚悟である。

だからミルンにおいて、プーやコブタの棲む百町森は、子どもの世界のなかにのみ存在することで、大人たちの土台となるべきものであり、それを読書という形をとおして受け継がれるものと意識されている。これにたいしてディズニーは、それをフィルムのなかに凝結して閉じ込めてしまい、さらにそれに厭きたらずディズニーランドにも幽閉し、ひたすらに反復可能な状態におく。別離という現実を排除することで、いつまでも砂糖菓子のような世界にとどまることを強引に実現するのである。

しかし成長と別離とは、誰であれ必ず経験されなければならない課題である。

したがって今回の作品は、いまやディズニーの中核となったピクサーが、かつてディズニーがけっして目を向けようとしなかった「現実」に、あらためて挑戦しようとしたと理解することもできる。その姿勢そのものが、ひとつの成長を示しているということができるだろう。

さて、つぎは一敗だ。

それは、あまりにも単純な物語構造にある。楽園であるべき場所を牢獄に変えてしまっている「悪」を、けっきょくは一個の邪悪な精神に還元してしまっている。悪は悪として描かれるだけで、それを悪とみなす視点はまったく射程に入っていない。

もちろんその主要因は、この作品が、つねに確実なヒットを要請されているという米国的アニメーション映画の宿命にあるのだということはわかる。だがこの作品は、みずからの成長を示す契機なのだとすれば、みずからを縛っている枠組みそのものにもどこかで挑戦する必要があるだろう。それを回避するのなら、けっきょくは枠組みの再生産とその強化でしかない。

そしてそのような姿勢こそが、主たる観客である子どもたちの理解力を根本において信用していないことを意味してしまっていると気づくべきだろう。かれらの成長に賭けるという姿勢を物語構造そのものに持たせることができていたなら、ディズニー/ピクサーの成長がほんとうに実現できていたかもしれない。

なお本編に先だって上映される短編 “Day and Night” は、すばらしいアイディア。技術と表現と精神とが不可分であることを、あらためて教えてくれる。