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困った「正義」

東京都青少年健全育成条例改正案が都議会で可決された。もう莫迦ばかしいとしかいいようがない。

条例の趣旨や具体的な内容は、改正案の以前と以後とで大差ない。いずれにせよ、知事や都議たちに、文脈を踏まえたうえで実状を把握しているようすは見られないし、そのような姿勢を持ちあわせているようにも見えない。ただ、みずからの「道徳」観に照らして「不愉快」だという気分によって駆動されている。かれらの価値観にフィットしないものに適当な大義名分をつけて排除してしまおうとするわけで、その意味ではひどく素朴で乱暴な、それゆえに凡庸な話である。

こういうやり方で「道徳」を守ろうという発想そのものが、端的にいって前時代的だろう。いまどき「国益」を守るためにわざわざ外洋海軍を建造し、他国との摩擦もかえりみず西太平洋に進出しようと本気で目論むのと同じくらい、ズレている。

けれども、この手の発想は、たちが悪いのだ。じぶんこそが「正義」だと信じて疑わないからだ。

NHK教育で放送されていた『ハーバード白熱教室』では、社会的に何が正義といえるか、という命題をめぐって討議がおこなわれていた。だが、こちらの「正義」は、あれとはだいぶ違う。もう何をいっても聞く耳をもたない、というタイプの「正義」なのだ。なにせ「正義」なのだから。とうぜん「議論」など成り立つ余地がない。

故山本夏彦は、左翼がダメなのは、じぶんたちの見解を「正義」と主張するからだと述べたことがある。たしかに、そうだ。けれども「正義」の御旗をたてたがるのは、べつに特定の政治的立場にのみ顕在する現象ではない。それは、物事の見方や考え方にかかわる問題なのだ。げんに日常のそこここで、表面上の物腰はどうあれ、その実じぶんが正しいことを前提とするようなタイプの言説がいっそう繁茂するばかりである。

それを、その個人の属性としてとらえるならば、「職場にいる「困ったひと」にどう対処するか」みたいなビジネス書的世界観に陥ってしまう。

いっぽう、これを社会的諸関係のなかで(ベイトソンふうにいえば「コンテクスト」において)とらえてゆく方途もあるだろう。そこでは今日の社会とは、多くのひとびとがみずからの「正義」を唱えずにはいられない社会と映る。そのことは逆に、多くのひとびとにとって、そうせざるをえないほど「自己」が肯定されず、周囲からの承認がいつ取り消されるかわからないような「不安」に絶えずさらされており、きわめて不安定で流動的な状態にあることを示しているということができるだろう。

「正義」は、せいぜいテレビや映画のお話のなかにだけ棲息してくれればいい。むしろそちらのほうが、みずからの「正義」に疑問をもつようになって久しいのだけれど。