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間宮林蔵記念館

12月は暇を見つけて、ちょこちょこ近場に出かけた。ディフェンダーの慣熟のためである。

地図を見ていたら、利根川を渡ってすぐのところに間宮林蔵記念館と記されているのが目に留まった。茨城のひとだったとは知らなかった。そこで、前から計画していた関宿の鈴木貫太郎記念館見学のあと、利根川を北へわたることにした。

間宮林蔵記念館は、一面に拡がる田んぼのただなかに建っていた。公立らしいのだが、子孫の住宅と地続きのようだった。

展示物は複製が多い。中心は、間宮林蔵が作成した地図である。伊能忠敬の大日本沿海輿地全図のうち、北海道以北の大部分については、実際には間宮林蔵が測量したのだという。

樺太探検をして、これが半島ではなく島であることを確認したという業績は知っていたが、アムール河を遡って、当時の清政府の出張所にまでいっていることは、吉村昭『間宮林蔵』で知った。そのときにつかっていたという布が展示してある。ほんとうに200年前に間宮林蔵が極寒の樺太で身にまとっていたものかどうかはわからない。なんにせよ、ここにこうして解説とともに展示されていなければ、ただのボロ布にしか見えないものが、ひとたび解説とともにこうして展示されれば特別な意味をまとうというのが、ミュージアムという仕掛けの興味深いところである。

小学生のころ、たしか「道徳」の時間だったとおもう。ビデオの教材で「はやい暗算」というような題名の作品を見せられた。それは子ども時代の間宮林蔵の話で、暗算が速くて正確にできたがゆえに、農民のせがれにすぎなかったかれが幕吏にとりたてられたというような内容だった。なぜかそのことをよく覚えていたが、展示内容にはとくにそんな話はなかった。ただ、子どものころに小貝川の治水工事に関与したのが出世への第一歩だったということは事実らしい。

近所に墓があると教えてもらった。記念館前の道を歩いて5分もかからない。行き止まりにお寺があり、山門を入ってすぐ左手にある。明治期にたてられた立派な顕彰碑が、黒光りするモノリスのように屹立していた。

「顕彰」というのが現代の感覚からするとよくわからないが、どうやら間宮林蔵は、明治期になって再評価されたらしい。かれの地理学上の業績は、ナショナリズムの勃興する帝国主義の時代のおいて、国境の確定という文脈で読み直されることになったのだ。

巨大な顕彰碑の陰にひっそりと隠れるようにして、かれの墓はあった。膝下くらいの高さの、簡素なものだった。墓石に刻まれた文字は、もうほとんど判読できなかった。隣に同じような墓が並んでおり、そちらは両親のものだという。数十年前までは20mほど南側にあったそうだ。そこは、いまは近代的な堤防になっている。

土手の草原を踏み、堤防の上にあがってみた。小貝川の川面には鴨が幾羽もいて浮かんでいた。対岸には何か工場のような巨大な建物が建っていた。反対側をみると、田んぼのかなたに筑波山が薄ぼんやりと浮かんでいた。