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「正しい知識」だけでなく、見通しの提供を

大気中の放射線量から、野菜や土壌、ついには水道水まで、福島原発事故の影響で、東日本の住民は誰もが敏感になっている。テレビや新聞では専門家が「ただちに健康に影響がでるものではない」をくりかえし、「正しい知識をもって冷静な行動を」と呼びかけている。

正論である。原子力や放射線の専門家ではない一般の市民の多くも、きっとそう思っているだろう。しかし同時にその反面、「それはそれでわかるのだが、でも……」と言いたい気持ちもあるのではないか。それを「無知」に起因しているとおもうのなら、まちがっている。そこにあるのは齟齬であり、それが生みだす小さな不信感だ。それはおそらく、専門家が述べていることと、一般の市民がもっとも知りたいことのあいだに乖離があるからであろう。

専門家ではない一般の市民がもっとも知りたいのは、個々の食材が規制値をどのくらい越えているか、それらが個別に健康にどんな影響があるかといった、個別のことがらでは必ずしもないだろう。いや、もちろん個別のことがらも大いに気にはなるのだが、本当に知りたいのは「で、けっきょくわたしたちは大丈夫なのか」「この先、どうすればいいのか」「いつまでこれを続ければいいのか」といった不安にたいする総合的な判断なのではないだろうか。

「生活」というのは総合的なものである。特定のほうれん草を一回だけたべても大丈夫ですよという言い方は、表現としてはわかりやすいのかもしれないが、生活の実態からかけ離れている。生活のなかでは、さまざまな食材を口にし、飲用や調理や入浴やお手洗いなどさまざまな場面で水道水を利用し、その間ずっと呼吸をしつづけなければならない。仕事や通学や所用など戸外に出ないでいることはほとんど不可能だ。

生活とは特定の空間のなかで、一定の幅をもった時間のなかで継続的に営まれるものである。そのような総合的な営みとしてのいまの状況下で生活が、どれほど安全なのか、もしくはそうでないのか。多くのひとびとにとって知りたいこととは、煎じ詰めれば、そのような判断ではないだろうか。

いっぽう、専門家にはそれぞれの専門分野がある。誠実な専門家であればあるほど、じぶんが専門とする分野の範囲を越えたことがらにかんしては、発言に慎重になるだろう。あるいは、データの分析を示すことはできても、それをどう解釈し判断するかという部分については、専門家のするべきことではないと考えるケースもあるかもしれない。そして結果として、そのつど立ちあらわれる個々別々の事象にたいして、「ただちに健康に影響がでるものではない」をくりかえす。

個別のケースという範囲のなかでは、事実として規制値に達していなければ、その言明は嘘ではない。しかし、一般の市民にしてみれば、そうした姿勢がかえって場当たり的で、本当に知りたいことを教えてくれていないように見えてしまうことがあるのではないだろうか。そしてまた、そのようにして、つぎつぎと起こる事象に振りまわされ、いっこうに全体像が把握できないまま、疲弊していくのである。

一般市民の欲していることがらと、専門家の提供する個別事象にかんする専門的知識(「正しい知識」)とのあいだとは、橋渡しが必要だ。橋渡しをするものとは、複数の「正しい知識」を統合して生活者にたいして一定の見通しをあたえるような枠組みである。

人間、何がつらいといって、先の見通しがたたないことほどつらいことはない。さらにまた、個々別々のことがらの意味を理解するためには、それが全体像のなかに位置づけられなければならないという認識の仕方のうえでの問題もある。だからこそ、ひとびとの生活に見通しを与えるような枠組みが必要なのだとおもう。

たとえばそれは、今後わたしたちの生活がどのようになりうるかという、おこりうる複数の可能的なシナリオの提示であろう。具体的には、食物や水などの汚染がどのように拡がりうるのかというシミュレーションであり、そのばあい何に気をつけ、どう振る舞えばいいのかというモデルの提示である。このような状況がどのくらいの期間でどう進展・収束しうるかという時間的な見通しも重要だろう。

もちろん、官房長官が会見で述べていたように、原発事故の対策について、具体的な期限を明示することは、現状ではむずかしいかもしれない。下手なことを公言して、必死で努力している現場に余計なプレッシャーをかけてはまずいという判断も当然ありうる。それならそれで、時間的な見通しについては、具体的には示さなければよい。できないことは、こういう理由でいまはできないと説明すればいいのだ。けれどもそれ以外の事柄については、できるかぎりさまざまなシミュレーションを具体的に示すことが必要なのではないだろうか。

同じことは、各被災地で避難生活を強いられているひとたちにもいえる。

現状そのような総合的な見通しを示すことができるセクターは、国や政府しかありえないだろう。もはや責任といったほうがいいかもしれない。