ホーム > 考えたこと > クジラとカメラ

クジラとカメラ

NHK「クジラと生きる」をみた。Twitterで「ダーウィンが来た」と番組名を混同したツイートを流したが、あれは勘違い。Nスペでした。

イルカ漁を告発的に描いた映画『ザ・コーヴ』に対抗する意図があったのか、太地町のクジラ漁師たちに寄り添うつくりだった。当然、反捕鯨団体の行状は、そちら側から映しだされる。

団体のひとびとが太地町に常駐している。多くは白人で、英語しか話そうとしない。手にビデオカメラを持ち、漁師たちには理解できない英語で侮蔑の言葉を投げつける。10万円やるからクジラを逃がせと(英語で)漁師に迫ったりする。隠し撮りもする。

ようするに、クジラ漁の「非人間性」を世界に告発するという目的のためならば、挑発や犯罪に近い行為であれ、なんでもする。それが正当化されるのは、じぶんたちが「正義」に従っていることを信じて疑っていないからだ。

かれら(太地町にいる反捕鯨団体の白人たち)がずるいのは、一方で「正義」を掲げながら、その実、じぶんたちはつねに安全地帯に身を置いているからだ。太地町で何がおきようと、かれらには何も失うものがない。かれらはただ「正義」にもとづき「告発」する。じぶんのことを「正義」だと信じる者ほどたちの悪い人間はいない。

で、そんなことを《あ》と話していたら、《みの》(高校生)が介入してきた。そういうことはこの家のなかではもう合意しているのだから、くりかえし話していても仕方ないだろう、捕鯨の立場をもっと理解してもらえるようにアピールする方法を考えたほうが建設的ではないか、というのだ。

もっともな主張である。で、さらに議論になった。

こういう問題は、大きく二つの方向で考えることができる。ひとつは、個別具体的に、捕鯨にかかわる問題として、とくに太地町でおきている衝突をどう考えるかという方向である。《みの》の主張はその線に沿ったものだといえる。

でも、ぼくと《あ》が話していたのは、もうひとつの、より一般的に考える方向性についてであった。じぶんたちに理解のできないものに出会ったときにどうするか、という問いに変換して考えようとしていたのだ。

番組に映しだされる反捕鯨団体のひとびとのふるまい方は、きわめて暴力的だった。異文化に相対するにあたり、じぶんたちの側の態度や考えを変更する用意をまったく持ちあわせていないからである。ある意味では、それは西欧近代を貫く姿勢でもあると(やや皮肉を込めて)いうこともできるが、現実問題として、かれらがそのような姿勢でいる以上、直接的な対話可能性は絶望的に小さいとしか言いようがないだろう。

その一方で、反捕鯨団体のひとびとにたいする日本人的な違和感は、うっかりするとたんなるナショナルな言説に回収されてしまいがちでもある。そうなれば、いたって凡庸な西欧対日本という異文化対立の図式に陥ってしまうだけだ。

そうならないためには、どうする必要があるのか。それは、ぼくたち自身が、反捕鯨団合の白人たちを「理解不能な他者」として表象してしまわないことである。

ドキュメンタリーとは、カメラの政治学である。

反捕鯨団体のひとびとが、カメラをとおして熱心に捉えようとしているのは、「理解不能な他者」としての「クジラ漁」や「漁師たち」である。一方NHKのカメラは、クジラ漁を否定する「他者」という外部からの視線に「仲間」が苦悶するようすであった。NHK的なカメラの視線は、そのネガとして、漁師に苦悶を強いる反捕鯨団体のひとびとを「理解不能な他者」として描くことになる。いずれも、相手側を「理解不能な他者」と描く点に変わりはない。

だからどちらもダメなのだ、というようなことが言いたいのではない。じぶんに理解できないものに出会ったときに、相手を「理解不能な他者」として表象するのは、誰もが圧倒的に選びがちな道筋である。それによって自己を変更しなければならないような事態が避けられる。自己を変更することほど、しんどい作業もないのだから。

そうであったとしても、理解できないものに出会ったときにどうするかを考えることは重要である。それは、太地町のこの事例にかぎらず、ほかならぬぼくたち自身が、さまざまなレベルでしばしば直面する課題でもある。