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ジョンソン・タウン──アメリカ的サイタマ、サイタマ的アメリカ 2/2

ジョンソン・タウンは、ディズニーリゾートと同類でありながら、大きく異なる点がある。そのひとつが境界管理の仕方である。

ディズニーリゾートは、どこまでも「夢の国」を徹底するために、その領域は明確な境界によってがっちり囲い込まれ、内部からの視線が外部へ漏れ出さないように遮断されている。「現実」である「トウキョウ」(じつはウラヤスなのだが)やら「ニッポン」やらから完全に分離されるよう、慎重に管理されている。

これにたいしてジョンソン・タウンでは、境界管理は、ゆるゆるである。狭い路地を一本へだてるだけで、そこはふつうのサイタマによって埋め尽くされた空間であり、サイタマ的日常が営まれている。そしてそれらは、近接して棲み分けているというよりも、ぐちゃぐちゃと浸潤しあっている。

いいかえれば、ジョンソン・タウンでは、「古き良き米国の郊外住宅地イメージ」という観念は、どうしようもない東京郊外的サイタマという現実と相互に浸透しあい、モザイク状となって、入り乱れているのである。

相互浸透の一方において、ジョンソン・タウンの観念は、その敷地から隣接地へと滲みだしている。伝染しているといってもいい。

歩いていると突然、サイディング貼りのアパートがあらわれる(タウンの外に出たのだろう)。どう見てもそこらにいくらでも建っていそうな、高級とかオシャレとか米国ふうの街並みなどという言葉からは遙か彼方にありそうな、ふつうのアパートだ。にもかかわらず、その看板は誇らしげに「ジミーハイツ」と名乗らずにはいられない。ジミーですか、そうですか、である。

その横をバイクが駆け抜けていく。ハーレーではなくスーパーカブ。またがっているのは、ジェームズ・ディーンではなく、夕刊を配達するおじさんだった。

ジョンソン・タウンの伝染力は、幹線道路をはさんだ対岸にある(敷地外の)お店にもおよんでいる。写真の2軒はどちらも、もともとは看板建築ふうの建売の店舗付き住宅として、同時期に建てられたものであっただろう。ところが左側の床屋だけが、米国っぽさを演出しようとしたのだろうか、西部劇ふうのファサードに改装されている。明らかに対岸のジョンソン・タウンを意識した帰結だろう。

相互浸透のもう一方において、ジョンソン・タウンは、かれらを包囲する現実であるサイタマによって浸潤されてしまっている。

英語で記された標識にならんで、日本語の標識がたつ。速度制限なら英語でそれらしい雰囲気も演出できようものだが(マイル表示であればより米国っぽさが強調されただろう)、同時にそれはまったく実際的な有用性を欠いている。サイタマのひとびとが日常生活のなかで英語を常用しているわけではないからだ。

したがって、駐車場の利用方法という実際上の重要事項になればなるほど、その指示は日本語で書かれなければならない。こうして、せっかく米国的イメージを演出しようとしてこしらえられた英語の標識の隣にもう一本、日本語の標識がたてられれることになる。しかも「とうふ坊」だ。

まだある。小洒落た米軍住宅は平屋であるため、視界の上方はどうしても開けてしまう。その広い空間に鎮座して視線をふさぐのは、ひとつは蜘蛛の巣のように縦横に走る電線であり、もうひとつは、これまた悲しいくらいに凡庸な、典型的な郊外型マンションである。

これらの典型的なポストモダン・ジャパン的アイテムは、米国ふうの街並みのそこここにおいて、そうした「空気」をまるっきり読むことなく目に飛び込んできて、視覚と認識とのあいだにコンフリクトを引きおこす。

きわめつけは、赤ちょうちんだ。ジョンソン・タウンの中心となる小さな広場に立つと、建ち並ぶ米軍住宅の白い壁と壁のあいだにつくられた駐車スペースの向こう側に、隣接してたつ居酒屋の赤ちょうちんが見えてしまうのだ。店の名は「浦島」。出来すぎている。

ジョンソン・タウンに米国ふう住宅地のイメージを見たいひとたちにとって、これらは視界に入っていながら、意識から排除されており、視覚が捉えていながら、存在しないことにされているのかもしれない。

そうであったとしても、わたしたちは誰もそれを嗤うことはできないだろう。程度の差こそあれ、それは今日の日本のあらゆる「郊外」に共通する性質であるのだから。この街は、それをより極端な形でわかりやすく示してくれている。だから、ぼくにとってはなんとも居心地が悪く、それゆえまことに興味深く、好ましい街である。

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