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映画『カーズ2』

夏休みの最後に《くんくん》と二人で観てきた。《くんくん》の第一希望は『劇場版ナルト2011』だったのだが、時間があわないことを理由に半ば無理やりこちらに変更させてもらった。

観たのは日本語吹替版である。監督はジョン・ラセターだから、おもしろいに決まっている。

今回はスパイ物だ。007ばりの活劇で幕を開ける。音楽が007ふうなのは当然として、この活劇をクルマにどう演じさせるかというところに、アイディアの投入しがいがあっただろう。むろんここで活躍するクルマは、ボンドカー的にアストン・マーチン(モデルはDB6か?)である。

物語を支える図式は、気のいい米国と一筋縄ではいかない英国との対立と融和、というやつであろう。その意味では、「アメリカ的合理主義にイタリアの職人仕事が負けてたまるか」という旨の台詞を吐く宮崎駿監督の『紅の豚』と対をなしている、といえるかもしれないが、全体としては、まあ、米国から見たときの英国の、近くて遠くて、でもやっぱり近いという微妙な距離感を確認するようなお話だ。

ステレオタイプな思考そのままである。とはいえ、娯楽映画にステレオタイプは不可欠なので、それ自体に文句をつけるのはお門違いだとおもう。むしろステレオタイプをいかに組みあわせて、ある枠組みのなかで独自のおもしろさをつくりだしているかに着目するべきであろう。

物語としては、『トイ・ストーリー3』のような、いわゆる「いい話」ではないので、その手の物語が好みのひとには、深みがないという印象を残すかもしれない。

この作品のばあい、キャラクターがすべて自動車という世界が肝なので、米国対英国という図式は、アメ車対英国(酷)車という図式へと横滑りする。そこが、なかなかおもしろい。

乗り物を擬人化してそれをリアルに表象してみせるという発想それ自体が、どちらかといえば英国的といえるかもしれない(例:『きかんしゃトーマス』)。ある時代までの自動車もまた、それぞれの文化に色濃く染められている。

東京(表記はTowkyo)、イタリア、英国と、F1ばりに転戦してゆく。山場の英国では、女王陛下が登場するが、彼女はもちろんロールスだ。側近はレンジローバー、近衛兵はシリーズII、重要な役まわりのアクセルロッド卿がディスコ2(かな? ただしフロントグリルはジープ調である)と、ランドローバー総出演状態。

そして、英酷車といわれるように、オイルを漏らしたり(あんなふうに漏れたら実際には致命傷だが)、日本車的感覚であれば故障しないはずの箇所が壊れたりするというイメージ(実際そのとおりだが)も、物語上、大きな意味をもつ。英酷車乗りの端くれとして、やや微妙な気分にならないでもない。

まだある。鍵となる要素のなかに、ウィットウォース規格が出てくる。ボルトや工具の、いわゆる英国インチ規格のことだ。British Standard Whitworth、略してBSW。実際、この三文字の記された銘板の映るショットがある。

だいたい、ボルトにメトリックとインチで規格違いがあるなんてことさえ、ふつうのひとは知らないだろうに、ましてやBSWとなれば、クルマ好きでも相当な英酷旧車マニアでないと知らないとおもう。

知らないで観ても話の筋立てはじゅうぶん理解できるが、知っていると思わず唸ってしまう。このあたりの「濃さ」が、『カーズ』が(前作も本作も)いまひとつ日本で大ヒットとなりきれない要因になっている可能性もある。

おそらくラセターは相当のクルマ好きであるにちがいない。かれがただの好事家と決定的に異なるのは、そうした自身の関心を、それとはまったく異なる領域の事物と結びつけ、ひとつの世界をつくりあげてしまうところにある。