大飯原発再稼働差し止め訴訟の判決文を読んだ

大飯原発の再稼働をめぐる裁判で、福井地裁から差し止め判決が出た。その判決文を読んだ。判決謄本は、原子力資料情報室のサイトその他からダウンロードできる。

一読した印象は、まっとうな内容である、というものだった。理にかなっており、いたって妥当。ふつうの生活者の視点をけっして手放すことなく、また、そこにおいて感得される違和や不安といったものを切り捨てることもしていない。日常に根ざす感覚を、法律の論理と言葉でもって捉えなおしたような文章であったといってもいい。そうした姿勢の有無が鍵だと、ぼくはおもう。

電気を生みだす一手段としての原発は、ひとびとが豊かに暮らす権利より劣位にあるという表現や、「国富」とはひとびとが豊かな土地に根ざして豊かに暮らすことだという言い方などは、多くのひとびとが漠然といだいていた感覚を的確に言い当てているとおもう。

個人的に、これが法曹的な考え方なのかと勉強になったことのひとつが、技術そのものについてではなく、「技術の実施」の条件について判断すればよいという、問題の切り分け方だった。

ひとたびその切り分けがなされれば、論点は技術そのものの是非ではなくなる。そして社会の成員の誰もが、生活者として、ここに関与せざるをえない主題となる。

生活者の視点に立つかぎり、原発という技術そのものをめぐる論争はあまり重要ではない(じっさいその手の議論はしばしば不毛に陥る)。そうではなく、技術が社会、いいかえるならば生活をより豊かにするために実施されるものであるのだとすれば、その利得とリスクとを秤にかけ、その技術の性質に見あったリスク管理態勢をともなっているかどうかを検討すればよい、ということになる。だから、リスクの大きさ(あるいは小ささ)に見あった安全策が用意され、それが十分に稼動する態勢が整っているのなら、原発を稼動することは、総合的にみて社会の利得といえる。では現状はどうか。そこを見れば、結論はおのずと導きだされる。

各紙の反応を読み比べてみた。日経と読売が、反発する記事を掲載していた。いずれも反射的なもので、ついうっかり地金を出してしまった、という感じであった。この二紙は、いずれも原発再稼働を既定事実として前提にしているようだ。そのためだろう、「反発」ではあっても、「反論」にはほとんどなっていなかった。

日経は、福井地裁判決が、原発再稼働に向けての動きに「波風」をたてると表現していた。政府や経済界(というか日経連)の意向に追従すべきであり、いちいち逆らったりして面倒おこすなよ、ということなのだろうか。

読売は、福井地裁判決が原発に「ゼロリスク」を要求している、科学的根拠に乏しいなどと難じていた。

おそらく、判決文をよく読んでいないか、読解力が不足しているのか、あるいは、あえて話を矮小化しているかのどれかであろう。いうまでもなく判決文は、技術一般について述べているのでない。原発の性質にもとづいて述べている。万が一にも事故があったときには、空間的にも時間的にもとりかえしのきかない規模で深刻な影響が生じるという、他の技術に類を見ない性質である。

読売の近年の立場がどうかは知らないのだが、同社は1950年代に原子力平和利用キャンペーンにおいて、先頭に立って旗を振ってきたという歴史がある。原発推進はいわば社是、ということなのかもしれない。

事業者サイドはつねに「想定内」の話しかしたがらない。その典型がPR館である。あたかも想定の外部など存在しないかのようだ。いっぽう生活者の立場からすれば、むしろ「想定外」が心配であろう。「想定内」だけで事を進めたがるひとは、「想定外」のことを口にする者を「無知」「バカ」「素人」などとして排除しようとする。しかし当然のことながら、そして判決文にもあるとおり、「想定外」だからといって、その事象が発生しないわけではまったくない。いまこの瞬間に起きたとしても、なんら不思議はない。いったん「想定外」の事象が起きてしまったときにどうなるか。事業者サイドはけっして口にしないが、すでにわたしたちはそれをよく知っているはずである。

大方の予想では、福井地裁のこの判断は上級審でくつがえされるだろうという見通しだという。関電が(判決の言い渡しには欠席したらしいにもかかわらず)さっそく控訴したのも、それを見越してのことであろう。

しかしぼくは、福井地裁の判決文が出たあとにおいて、これに論理でもって対抗して論破し、原発推進に合理性をあたえるのは、かなり容易ではないような気がしてもいる。差し戻しなどという形で逃げる、という手もあるかもしれない。それなら先送りに先送りを重ねることになる。

上級審がどんな論理と判断をくりだすのか、ちょっと見物かもしれない。

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