ベンヤミンの「友の足音」

ベンヤミンのよく知られた言葉のなかに、つぎような一文がある。

夜のなかを歩みとおすときに助けになるのは橋でも翼でもなく、友の足音だ。

この言葉に、先日まったく思いがけない場所で出会った。ある新聞のコラムである。

一読して、とても場違いに感じられた。というのも、当該コラムは、安倍内閣による集団的自衛権容認の閣議決定を強く擁護するという、威勢のいい内容だったからだ。

当該コラムにおいては、ベンヤミンの「夜」や「友の足音」という言葉に、きわめて特異な解釈が施されていた。おおよそ、つぎようなぐあいである。

「夜」とは、夜盗のようなさまざまな敵が跋扈し、いつ襲われるかわからないような秩序不安のことである。そして、そのようなときにいつでも「夜」のなかを駆けつけてくれる「友の足音」こそが「助け」になるのだと説く。つまり、この「友」とは同盟国のことであり、「足音」とは、やや古風な比喩表現をすれば「軍靴の響き」、端的に軍事力のことだと述べているのだ。

しかしながら、あいにくぼくの乏しい読解力では、なぜこのような文脈でベンヤミンが援用されなければならないのか、うまく理解できなかった。どこをどういじくれば、集団的自衛権容認とベンヤミンを相互補強的につなげるような「魔術」が可能になるというのだろうか。

ベンヤミンのこの言葉は、ベンヤミニアンにとってはよく知られたものだ。それはヘルベルト・ベルモーレという友人にあてた手紙に記された文章であり、日本語では、晶文社版のベンヤミン著作集14巻『書簡I』に、野村修先生の訳で収録されたものを読むことができる。同訳書から、当該の文章を含む段落をまるごと引用してみる(pp. 76-77)。

 夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて(トーマス・マンが、あの下劣な「戦時下の思想」を公表していたしね)、そおときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも(傍点ルビ三文字)発光させなくてはならぬ。全身的なこの巨大な努力のなかでは、ことばはひとつの段階にすぎず、そしてそれが最初の段階であるようでは、けっして最終の段階にはなりえない。

この手紙が発信されたのは、『書簡I』によれば、1916年の末のことだ。第一次世界大戦下であり、まだ二十代だった若きベンヤミンのまわりでは、ナショナリズムと戦争への熱狂が渦巻いていた。訳者の野村先生は、その著書『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー)のなかで、この手紙のこの言葉に触れながら、つぎのように記している(p. 277)。

同じ手紙でかれは、トーマス・マンの例の「戦時下の思想」を「下劣」と言い棄てている。ベンヤミンの親しい友人の幾人かは、暗鬱な状況のもとで、自殺を選びとっていた。そういうときの、これはことばだった。

「そういうときの、これはことばだった」。野村先生のこの解説にしたがうならば、「夜」や「友」やその「足音」が意味するものは、当該コラムの示すような解釈とは、まったく結びつかない。むしろ両者は対照的ともいえるような間柄にあるはずだ。そうであるにもかかわらず、文脈を無視し、文言だけを適当に切り貼りすることで、無理やり自説に引きつけている。そのような態度は、たんに「ベンヤミン」という権威を利用したかっただけ、であるようにも見える。

さらに不思議なのは、当該コラムが、このベンヤミンの言葉を、著作集からではなく、まさに上述した野村先生の『ベンヤミンの生涯』から孫引きしているらしいことである。あの本を全部読んだうえで、それでもなお、このような仕方で引用してしまえるというのが、わからない。いずれにせよ、テクストへの敬意を著しく欠いているといわねばなるまい。

あるいは、当該コラムの執筆者は、つぎのように反論したくなるかもしれない。ベンヤミンはたしかに戦争や暴力に反対していた。だから当該コラムもその立場を尊重しているのだ。集団的自衛権とは、自国にたいして敵対的な他国の軍事的脅威を抑止する効果があるのだから、やはり平和を希求するものなのだ、などというように。

国際政治の力学的にいえば、そういう考え方もありうるのかもしれない。だが、ぼくの理解するかぎり、少なくともベンヤミンの思想は、そのような考え方には与しないとおもう。

なぜと問われたなら、まず『暴力批判論』を読みましたかと問いかえしたい。先述の手紙から4-5年後、第一次大戦でドイツが敗北したのちに書かれたこの論文のなかで、ベンヤミンは、いかにもかれらしい仕方で、「暴力」の根本的な批判への道筋を示している。

ベンヤミンのいう「暴力」への批判は、「暴力」の「外部」として「平和」を対置させ、そこから「暴力」を批判してみせるような、いわゆる平和主義とはちがう。そのような、「暴力」の抑止をめざす「暴力」も含め、あらゆる世俗的な「暴力」をその内側から、根源から批判し、解体するための「神的暴力」の導入というのが、かれの示すヴィジョンなのだから。

さて、ところで、先に引用した野村先生の著書の文章は、さらにつぎのように続けられている。

ポル・ボウでの夜に、かれは四分の一世紀まえのじぶんのことばを想起したろうか? どのような友の足音も、もうかれを支えなかったのだろうか?

ボルボウとは、スペインの東のはずれ、ピレネー山脈の地中海に没する南端をはさんでフランスと接する国境のちいさな町の名だ。1940年9月、亡命者となったベンヤミンが最期をむかえた地でもある。

ナチスに追われ、フランスからスペインへ非合法的に脱出しようとした。心臓に病をかかえながら、ピレネー山中を歩きとおして国境を越え、スペイン側のポルボウまでたどり着いたものの、入国を拒否された。いかなる意味でも行き場を失ったかれは、けっきょく、そこで自死を選んだ。

その地を、ぼくも訪れてみようとおもっている。

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