石見銀山まで往復2000km

しばらく前のことだが、仕事がひと区切りついたので、石見銀山へ行ってきた。

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ディフェンダーで東京から石見銀山まで片道1000km。往路は8割を下道で、復路は8割を高速で走破した。途中で、大飯、高浜、島根の原発PR施設を再訪してきたのだが、その話は別のところに書く。

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上の写真は、途中、琵琶湖畔のマキノ町にあるメタセコイア並木で撮影したもの。

目的地へ行くことが目的というよりも、とにかく長い距離を延々と運転したかったのだ。往復で2000kmちょっと走ってまずまず満足したのだけれど、もちろんできることならもっと走りたかった。

さて、石見銀山の世界遺産センターでは、たまたま大久保間歩(まぶ)ツアーの催行日だと案内が出ていた。しかも直近の回に空きがあるというので、迷わず参加した。大人3800円。安くはないけど、それだけの価値は十分あった。

専用バスで5分ほど行く。そこから谷を登ってゆく。初めのうちは林道。そのあと山道になる。やがて、大久保間歩の入口に出る。間歩というのは、坑道の意味だそうだ。

入口で、長靴、ヘルメット、懐中電灯を貸してもらい、坑道へ入る。大久保間歩は、ツアー以外は立入禁止である。

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坑道は直径2mほど。むろん照明はない。床には水が流れている。壁をみると、上半分が平滑で、下はごつごつしている。上は江戸時代の坑道であって、職人さんたちが手で掘ったもの。下は明治期に掘ったもので、爆薬を仕掛けて掘った。ところどころに、爆薬を装填した細長い穴の跡が残っていた。

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銀が含まれる地層は帯状になっていた。だから坑道を歩いていくと、両翼をひろげたように、横へ帯状に掘りすすんだ跡がある。銀を採掘した跡なのだ。

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ツアーでは入口から150mくらいのところまで入る。そこに大きな採掘跡がある。高さも深さもあって、ちょっとしたビルが入ってしまうほどだという。

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その大採掘場の写真が上。手前に丸太が2本わたしてあるのが見えるだろうか。これは明治期のものだそうだ。その上方の奧のほうにも丸太が見える。こちらは江戸時代のものだという。こんな湿度の高いところで、よく残っていたものだ。

ちなみに、採掘した岩5-6kgを精錬して採れる銀は2gだったそうだ。2gの銀とは、下の写真くらいの大きさである。

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そのために費やされる労力はすさまじいものだった。坑内は狭く、むろん日もささない。江戸期の坑内は、こんな程度の照明で作業していたという。

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坑内は粉塵に満ちていただろう。手作業だから24時間掘って10cmくらいしか掘りすすむことができなかった。職人さんたちは、30歳まで生きられたら長寿だったという。

大久保間歩を出てから、山道をさらにのぼってゆく。露天の採掘跡に出た。

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最盛期には、この山の上にびっしりと住宅が建ち並び、数千人が暮らしていたという。銀山の引力(アトラクション)もかくやというところか。

この露天採掘場跡は、竹林になっていたのを伐採したところ見つかったのだという。坑道は、地下に縦横に伸びているらしく、その全貌はいまだに完全にはわかっていないのだそうだ。

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ツアーの所要時間は2時間半。今回は「石見銀山ガイドの会」の会長さんが引率し、詳しく案内してくださった。

そのあと、大森代官所跡までバスで行き、江戸時代からつづく街のなかを歩いた。

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世界遺産というものの、喧噪とは対極的な、静かで落ち着いた街並みが印象的だった。

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