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映画の荒野を走れ

なかなかに痛快な書である。『映画の荒野を走れ──プロデューサー始末半世紀』(上野昂志・木村建哉編)。映画プロデューサー伊地智啓へのインタビューがまとめられている。書名はいうまでもなく『濡れた荒野を走れ』(澤田幸弘監督、1973年)のもじりだろう。この作品も、伊地智のプロデュースである。

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伊地智といえば、相米慎二のプロデューサーとして知られている。以前に出版された『甦る相米慎二』のなかでも、相米作品とのかかわりについてインタビューが収められていた。しかし、伊地智のキャリアはその前後に数倍の規模で蓄積されている。それに比例して、インタビューも膨大なものになっていたようだ。だから本書では、伊地智プロデューサーが、自身のキャリアをふりかえって語ることで、その全体像が詳らかにされている。

伊地智は日本映画黄金期のちょうどピークに日活に入社した。その後急速に市場が萎み、日活はロマンポルノへ路線変更をはかる。そのタイミングで、助監督からプロデューサーに転じた。そのときの経緯や心持ちについては、あまりはっきりとは語られていないが、もちろんいろいろ考えるところがあったのだろう。以降は日活で、そして退社後はキティやセントラル・アーツを拠点に、もうめったやたらな勢いで、つぎつぎと映画をつくってゆく。

そもそも映画プロデューサーの仕事とは具体的にどんなものか、なににどのように目配りしなければならないか、そしてそれでもしばしば(というか始終)おきる予想外の事態にどう対処してゆくのか。

ひとつひとつのディテールがていねいに語られる。端々で映画プロデューサーとしての矜持が啖呵を切るように語られたりもする。なんとも興味深い。

長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』の現場のエピソードなど、何度読んでもやっぱり壮絶としか言いようがない。その混乱というか崩壊が相米慎二の登場につながるというが、また奇妙というか、必然というか。

語られる時期の大半は、撮影所というシステムが機能不全となり、今日のようなテレビ局を中心とした製作委員会方式が成立する以前の時期にあたる。伊地智は、撮影所システムに根ざした「日本映画」の枠組みがグダグダになってしまったあとの「荒野」のただ中で、とにかく自己の才覚だけを頼りに、道らしきものを必死で探りあてようともがいてきたのだともいえる。

その足跡は、やや大げさな言い方をすれば、崩れてしまった「日本映画」のつくり方を、もう一度普請し直すプロセスだったといってよいのかもしれない。

そしてその時期、伊地智だけでなく、ほかにも何人かの映画プロデューサーが、やはり同じ「荒野」をそれぞれの仕方で走り抜けようとしていただろう。いずれ、そうしたひとびとの仕事についても、こんなふうに聞き書きがつくられるなら、うれしい。

なお、渋谷のシネマヴェーラでは、本書の刊行にあわせて、伊地智啓のかかわった主要作品が上映中(6/5まで)。