70年という時間を感じてみる

「戦後70年」という定型句をよく目にする。なにをもって「終戦」とするかには諸説あるようだが、ともあれ戦争終結を告げるいわゆる玉音放送のなされた日から70年が経過したことは事実である。

70年間とは、どのくらいの時間なのだろうか。ぼく自身が直接経験したことのない規模の時間であるため、感覚としては理解しにくい面がある。いくつかの例に照らして考えてみた。

たとえばそれは、その日に誕生した赤ちゃんが、やがて成人し、満70歳を迎えるまでに過ごす時間に等しい。その時間は、ひとりの人生そのものというに、ほとんど近い。

たとえばそれは、ハレー彗星が地球にやってくる周期(約76年)にも近い。ハレー彗星の前回の出現は1986年。ぼくは伊良湖岬まで見物に出かけた記憶がある(でも実際に見えたかどうかはよく覚えていない)。次回は2061年だそうだ。さすがにぼくはもう見られないだろう。

たとえばそれを、戦争というつながりから、旧日本軍の歴史をひとつの尺度として、捉えることもできる。

旧軍の創始を仮に陸軍省・海軍省の設置と考えれば、1872年(明治4年)である。消滅を1945年とすれば(同年11月にそれぞれ第一復員省・第二復員省となった)、その間およそ73年間だ。

明治から大正・昭和前期にかけてのその時期、いわゆる「坂の上の雲」をめざして急速な近代化を急ぐ帝国日本のなかで、旧軍は近代的な国軍として組織され、大きくなり(やがてなりすぎ)、幾度かの対外戦争に挑戦した果てに、敗戦を迎えて消滅した。それら一連の出来事が、この73年という時間に含まれている。

個人的な感覚でいえば、あれだけのいろんな歴史的出来事がたった73年のあいだにすべて生起した、という事実に、あらためて驚かざるをえない。

70年。それは、ひとりの人生と同じだけの時間であり、去っていったハレー彗星がつぎに回帰するまでの時間であり、一国の軍隊が生滅しうる時間でもある。

そして、それとほぼ同じだけの時間を、少なくとも直接には、戦争を経験することなく過ごしてきた(もちろんいろいろあったとはいえ)。それがそのあとのこの国の70年間、すなわち「戦後70年」ということができる。

その時間の重みをあらためて感じ、大切にしたいとおもう。

 *文言若干修正(150816)。

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