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「偏っていない意見」など存在しない

他人の意見や発言のことを「偏っている」として攻撃・排斥する現象をしばしば目にする。実社会でもネットでも。いまの政権や与党なんかも、自己の政策や立場と異なる意見にたいして「誤解」「偏っている」などと主張するのが好きみたいだ。ジャーナリズムにたいしてむやみやたらに「中立」を押しつけようとする言説もここに含めてよいかもしれない。

しかしながら、それらは「中立」からもっとも遠い態度だといえる。なぜなら、この世の中にそれ自体が「中立」な意見など、そもそもひとつもないからだ。

すべての認識はすべからく主体が拠ってたつ枠組みに依存している。ぼくたちは枠組みなしに世界を認識することはできない。枠組みはつねに限界を孕むものであり、ゆえにすべての認識はあらかじめなんらかの形で「偏っている」。だからこの世の中に「偏っていない」意見や見方は存在しないのだ。

それでも、自己の意見に「偏り」が含まれておらず「正しい」と主張することはできるし、そう信じることもできる。しかしそれは信念の域を出るものではなく、その正当性を客観的に担保するものはない。一片の偏りもない見方だとか一切の偏りを含まない完全に中立な意見だとかは、少女マンガの星キラキラ瞳と同じくらいファンタスティックなものなのだ。

もし仮に「偏っていない」という状態がありうるのだとしたら、それは、さまざまに「偏った」見方や意見が相互にやりとりをしてゆくなかでつくりだされるある種の拮抗的な均衡状態において、あるいは異なるものどうしが衝突して弁証法的に昇華してゆく刹那において現出する何かと関係しているだろう。しかしそれとてあくまで「より妥当」という以上のものではなく、けっして「どこからどう見ても偏っておらず中立」といえる類のものではない。

より大事なのは、偏っているかいないかを騒ぎ立てることではなく、多様な意見をぶつけあい、そのなかでより妥当性の高い見方を生みだしてゆくプロセスである。そうしたプロセスにおいて、自己と異なる立場・見方・認識・意見を「偏っている」と封殺するような態度は、障害以外の何物でもない。

ただし注意しておきたい。述べてきたような「偏っていない」見方など存在せず、いかなる意見であれ「偏り」と無縁ではいられないという事実は、そこに開き直って「どのみちみんな偏っているんだから何を言ったってかまわない」こととは違うからだ。

話はむしろ逆である。そのことは、特定の社会的属性をもつ集団を差別したり排斥したりすることと比較してみればわかりやすいとおもう。両者は時として混同されがちだが、実際にはまったく別物なのだ。

両者を見分けるのは簡単である。差別や排斥をもたらすような見方や意見に特徴的なのは、たんに知識不足というだけでなく、自己に閉じていることであり、自己の意見を修正する用意が見られないからである。自己の意見は「正義」であるという考えが前提されているうえに、信念と事実を区別しないから、それと異なる意見や見方にたいしてはつねに「偏っている」か「まちがっている」か「バカ」だと平気で断罪できる。他者に何かを与えようとすることは稀であり、また求めることも多くはない。せいぜい同調か賞賛、あるいはその両方くらいである。期待どおりの反応を示さない相手にたいしては、切り捨てたり貶めるたり無視したりする。そのような態度が行き着く先は、いずれにせよ破壊的なものであるだろう。

これにたいして、ぼくたちが誰であれ否応なしにとらわれている「偏り」は、そうであるがゆえに他者との関わり(なんなら「コミュニケーション」といってもいいけれど)にひらかれている。ぼくたちはみなそれぞれに「偏っている」。だからこそ、絶え間ない学習と他者との関わりが必要にして不可欠なのである。それらのプロセスこそが自己を更新してゆく可能性と結びついているのだから。