『The Big House』を観る

想田和弘さんのドキュメンタリー映画(かれの言い方でいう観察映画)『The Big House』の試写を観た。

想田さんは、昨秋からミシガン大学Center for Japanese Studiesのトヨタ招聘教授として教えておられる。その授業のプロジェクトとして、Markus Nornes教授(ぼくを受け入れてくださった教員でもある)とTerri Sarris教授、それに学生十数名でもって製作したのがこの作品だ。

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The Big Houseとは、ミシガン大学が所有・運営するフットボール場の愛称である。米国の大学スポーツのなかでもフットボールは花形なのだそうだ。収容人数11万人弱は、アナーバー市の人口をほぼまるまる収容可能な規模であり、全米最大らしい。

作品は、このThe Big Houseを舞台に、そこに往来する人びとをていねいに捉えてゆく。そしてまた製作時期がちょうど米国の大統領選挙の時期とも重なっており、それがこの作品の通奏低音ともなっている。

いい作品だ。今回はできたてほやほやの学内・関係者向けのプレビュー。一般公開はこれからだという。だから内容については直接は触れず、ぼくの感想だけ記しておく。

ぼくはメディア論のひとなので、基本的に「媒介」という観点からものごとを観ている。そこからいうと、この映画は三種類のひとを捉えているようにおもわれた。いいかえると、ビッグハウスにかかわるひとびとをざっくり三種類に整理して捉えてなおそうとしている。そこがたいへん興味深かった。

第一のひとびとはビッグハウスの中のひとたちだ。中のひとは、高価なチケットを買って、非日常の娯楽としてフットボールをたのしみにやってきたひとたちである。ミシガン大学の応援の歌が流れると、みんなで手拍子をとったり拳をふりあげたりして盛り上がる。ユナイテッドされた状態に、みずから入り込んでゆく。これが第一のひとびと。

第二のひとびとは、スタジアムの外側にいるひとたちだ。チケットが買えなかったひと、ダフ屋、物売り、パフォーマー、宗教的な主張を訴えるひと、観客の残していった空き缶を拾い集めるひと、フットボールになど関心なさげにただ通り過ぎてゆくひとなど、さまざまだ。いずれの立場にせよ、かれらは(当人にそうしたいという気持ちがあるにせよないにせよ)ゲームを観ることはできないし、中のひとびとのユナイテッドに加わることもない。

基本構造は、この二者の対比にあるが、ここに第三のひとびとがからんでくる。

第三のひとびととは、スタジアムのバックヤードで働くひとたちだ。案内係、厨房、警備スタッフ、救急スタッフ、後片付けの掃除係。かれらは、第一のひとびとの「非日常」を支えるために働いている。かれらにとって、そこは「日常」である。物理的にはスタジアムの内部にいるが、試合を楽しんだりすることは許されていないし、実際そうすることはない。スタジアムの熱狂のさなかで、背後で、あるいは熱狂の通り去った跡地で、かれらは黙々とみずからの仕事を遂行してゆく。

この三種のひとびとのそれぞれのふるまい・実践のありようを、フィルムはじつにこまかくていねいに捉えてゆく。結果的にそれは、一フットボール場をめぐる撮影でありながら、米国という社会の成り立ちを、あるひとつの問題系として提示することにつながっている。それだけでない。それが問題としてかかえる葛藤のただ中に、それを縫合しうる可能性さえも暗黙的に示しているように見えた。その鍵は、上述した第三のひとびとにあるように、ぼくにはおもわれた。その点が、この作品をすぐれたものにしているようにおもう。

こうした視点や示唆は、つくり手があらかじめもっている見通し(イデオロギーといってもいいが)にあわせて映像を構成するような主流のつくり方ではなく、現場へいってカメラをまわし、集まった映像を編集してゆくプロセスのなかから発見していったからこそ、つかみえた何かであっただろうとおもう。

製作した学生さんのひとりからあとで話を聞く機会があったが、あらゆるプロセスでみんなでほんとうによく議論したのだといっていた。

日本でも公開される可能性があるという。そのさいにはぜひごらんください。

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