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デジタルストーリーテリング Archive

デジタルストーリーテリング

冬至の昨夕、恒例のデジタルストーリーテリングの発表会をおこなった。例によって2年生の授業で、各自がじぶん自身にとって切実なものを主題に2分ていどの映像作品をつくる。

今年は全体に最後までよく粘って考えた作品が多く、なかなか質が高かった。シリアスな主題ばかりではなく、二十歳の誕生日に初酒を飲んだ顛末やら、バイト先でリストラにあった話やら、SMAPをどれほど愛しているかを切々と訴える作品やら、大笑いさせられる作品も少なくなかった。

毎年これをやっているのだが、年によって学生たちのつくる作品の傾向はずいぶん異なる。生真面目な作品ばかりという年もあれば、今年のようにはちゃめちゃぶりの際だつときもある。ふしぎなものだ。微修正をくわえているとはいえ、同じようなカリキュラムで実施しているのに。

個人的には、ちんまりとまとまった作品を見せられてもあまり愉しくはない。「まとまった」といっても所詮は素人レベルでしかないということもあるが、それはまあ当然のことだ。理由はもっと別なところにある。学生が(勝手に)先まわりしてこしらえた「教師の求めているもの」を「どうです? これで合ってるでしょ」とばかりに確認させられているような気持ちになってしまうからである。現に、そんな態度が習い性になっている学生が少なくない(というより、びっくりするくらい多い)。学生のせいというだけでなく、たぶん学校教育のあり方そのものに何か根本的な問題があるのだろう。

見ていてうれしくなるのは、出来が少々わるかろうと話が破綻してようと、とにかくこれを徹底して表現するのだというガッツのある作品のほうだ。そうした姿勢には、はるかに大きな伸びしろが感じられる。「作品」をつくりたいのならば、その形はどうであれ、こうした姿勢は不可欠である。今年の受講生がそのことに少しでも気づいてくれたのなら、もう十分な成功だとおもう。

野菜と札幌

旅暮らしで困るのが野菜である。摂取の機会がふだんよりずっと減る。基本的に外食ばかりなので、自宅にいるときのような食事内容など望むべくもない。

札幌で泊まっているのはごくベーシックなビジネスホテルだ。朝食も、よくあるビュフェ形式である。ところが、ここは野菜類のおかずが多く出る。ゆでたアスパラガス、ブロッコリー、刻みキャベツ、トマト、ほうれん草のおひたし、おくら、かぼちゃの含め煮、とろろなど。うれしくなって子どもみたいについあれもこれもととってしまい、結果として食べ過ぎて、からだが重くなる始末である。朝から晩まで授業しているといっても、疲労感に釣りあうだけの運動量があるわけではないのだ。

ビジネスホテルとして、ここはちょっと変わっている。ウィークリーマンションみたいなのだ。部屋も設備もやや古びている。ソファには小さな穴があき、ベッドはやたら幅が狭く、バスルームも狭くて、むろんウォシュレットなどついていない。一方で、洗濯機と乾燥機が各部屋に備えつけてあり、無料でいつでもつかえ、ミニキッチンがあって、ヤカンと魔法瓶が常備されている。建売住宅の子ども部屋によくあるような勉強机が据えつけられ、卓上ライトまで備わっている。コンビニやスーパーも至近。すすきのからは離れているが、目の前の駅から地下鉄を利用すればすぐ。その気になれば歩いてだって行けなくもない。でも学生御用達ふうの飲み屋なら、周辺にいくらでもある。

観光客に向くかどうかはわからないが、ぼくはけっこう気分よく過ごしている。北大キャンパスまで歩いて1分だし。──といいつつ、そんな札幌生活も、そろそろ終わりとなる。

方法としてのデジタルストーリーテリング

デジタルストーリーテリングで映像作品をつくります──というと、いろいろな学生があらわれる。

少数ながら毎回混入しているのが、勘違い系とでもいうのだろうか、映像製作という愉しげな言葉だけに釣られてやってくるタイプの学生である。かれらの特徴は、おのれの「感性」とやらを実現したいという欲望にのみ忠実なことだ。たいていのばあい、かれらの語る「感性」とはいたって凡庸なステレオタイプであり、とりたてて独自性の感じられるような類のものではない。ひとりよがり、混乱、じぶんだけが勝手に気持ちのいいマスターベーション。だから他の学生やぼくのコメントやアドバイスにたいして、まるで耳を貸す用意がない。かれらの関心はおのれの欲望を満たすことだけにあるのだから、当然といえば当然だろう。受講態度は、いきおいまじめとはいいにくいものになる。まじめとは、けっして、くそまじめという意味ではない。課題に真摯に取り組む姿勢が欠落しているということだ。

ではまじめな優等生がいいかというと、それもちがう。かれらは答えを先回りして察知する術には長けているが、答えのあらかじめ定まっていない問いに向きあい、じぶんの知力をふりしぼって、粘り強くものを考えることには慣れていない。「答え」は教員が隠しもっているという発想のなかに棲みついている。相談と称して「答え」を探りにやってくる。ぼくのアドバイスを聞いたあとの決まり文句は「××すればいいんですか」「△△すれば大丈夫ですか」である。

むろんかれらとて、じぶん自身の語るべきテーマはもっているにちがいない。だがそれは分厚い皮膜に覆われ、ふだんは本人ですら触れられない深みに格納されている。かれらがまずしなければならないことは、その皮膜を一枚ずつ引きはがし、じぶん自身を掘ってゆくことだ。

他方で、課題を説明した段階で、すでに語るべきテーマを見つけだしている学生もいる。えてして優等生でも目端の利くタイプでもなく、どちらかといえば一見冴えないほうかもしれない。かれらに共通しているのは、じぶん自身ではどうにもできないような、少なくとも当人にはそう感じられて閉塞してしまうような状況を経験してきたことである。

今回の函館のばあい、小中高といじめにあっていたという男子学生が、その典型だった。高校までのいじめの経験もあって、生来の引っ込み思案に拍車がかかり、ひととどう距離をとっていいかわからず、じぶんの殻に閉じこもっていた。大学に入学しバス通学の道すがら車窓を眺めているうちに、それが毎日変化していることに気づいた。そのことから、まわりのことをあれこれ言うよりも先に、じぶん自身を変えなければならないと気づく。そこで勇気をだしてじぶんから同級生に話しかけてみる、というお話である。

かれのようなケースでは、ぼくにはもうほとんど何も言う必要がない。むしろ過剰に介入して邪魔をしないよう気をつけるべきである。いつものごとく途中何人もの学生が受講からフェードアウトしてゆくなかで、かれは粛々とじぶんのするべき作業をすすめた。できあがった作品は、期待に違わず力のこもったよい作品だった。同時にかれのチームはひとりの脱落者をだすこともなく、全員がさいごまで走りきった。

映像制作といえば、昨今あちこちの大学で流行っているようだが、その大半は既存マスメディアの物まねをさせて学生をよろこばせるか、ノウハウの習得か、でなければ「情報伝達」という側面ばかりを無邪気に強調したものだ。そこで忘れられているもののひとつが、作品性である。

乱暴を承知でいえば、ぼくにとっていまや「情報」などどうでもいい。大事なのは「人間」であり「作品」であり、そして人間が作品をつくり、流通させ、それに接するという事実のほうだ。作品は、才能とテクニックとによって捏ねあげられるものではなく、ひとりの人間としての存在になんらかの形で触れることで成立する。作品が根本においてもつ批評性とは、そこにかかわっている。そのことをこの授業のどこかで実感してもらえば、ぼくとしては十分だ。

ただもう一方で、ぼくのデジタルストーリーテリングのこうしたやり方は危うさをはらんでもいる。一歩まちがえば批評性が骨抜きにされ、容易に自己啓発セミナーやセラピー的なノウハウへと転落してゆきかねないからだ。むろん制作という実践からそのような陥穽を完全に排除することは、原理的にできない。仮にできたと主張するものがあったのなら、そうした安全安心な過程が生産するのはたんなる製品でしかあるまい。個人的には、すでにワークショップという手法自体が、そのような道筋をたどって骨抜きにされつつあるように感じている。

これまでのところ、そこへ滑落せずになんとか踏みとどまっていられる最大の理由は、その怖さをつねに意識するようにじぶん自身を仕向けているからだ(もうひとつの土台は、編集者時代に蓄積された経験である)。

ぼくのこのやり方は骨の髄まで文脈に依存したものである。学生がどんなアイディアをもってくるかは、やってみなければわからない。経験や予想では対処しきれない事態が表出しても、その場でただちにもっとも適切な対応を選択しなければならない。ぼくが頼りにできるものといえば、わずかばかりの知識や、これまでの経験とそこで培われた感覚だけだ。それらを総動員して授業にのぞむのだが、そこまでしたところで、つねにうまくゆく保証などどこにもない。こんな方法をマニュアル化してユニヴァーサルに適用しようとするのなら、そのとたん、そこには転落への道が巨大な口を開けて待っているにちがいなかろう。

いま北大で実施している集中講義でも、理学系の修士院生を対象にデジタルストーリーテリングをおこなっている。おどろくべきことに、2名の先生が院生にまじって受講されている。その姿勢にはほんとうに頭が下がる。ぼくの授業にそれだけの価値があるかどうかはともかく、かれらがぼくのやり方から何らかの霊感を得てくださり、デジタルストーリーテリングが日本でもさまざまな形でひろまってゆくとしたら、うれしいことである。

ただ上述のとおり、ぼくの方法は根本的なところでぼくの個性に依拠している。デジタルストーリーテリングといっても、べつにがっちり固まった方法論が存在するわけではない。いろんな方法がある。先行事例を参照しつつ、各自がそれぞれの個性や目的や文脈にかなったやり方を、試行錯誤をとおして編みだしてゆく。それがけっきょく、最善の道だろう。ぼく自身もそうしてきたのだし、いまもそうやって実践から多くを学び、貴重な霊感を得ている。だからこそ、細々とではあれ、実践を重ねつづけられているのだとおもう。

函館

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今年もまた函館に来ている。集中講義は三日目が終わった。デジタルストーリーテリング作品の制作で、学生たちの多くはいまもおそらく作業中だろう。明日はいよいよ発表である。

国際デジタルストーリーテリング会議

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いまリスボンにいる。乾期のはずなのだが、外は季節はずれの雨が降っている。リスボンへ戻ってきたのは昨日だ。それまでは、オビドスという街に滞在し、国際デジタルストーリーテリング会議という集まりに、友人と参加していた。西欧圏以外からの参加者は、ぼくたち二人だけだった。

オビドスは、城壁に囲まれた古い街だ。予備知識は『地球の歩き方』程度しかもっていなかった。行ってみておどろいた。じつにうつくしい街である。むろん観光地化してはいる。だが、俗っぽくはない。赤い瓦に白く塗られた壁。はっきりした色の花が咲く。迷路のような市街を抜けると、教会があり、地元の子どもたちが先生から何か講義をうけいたりする。

子どもたちがこの街を題材にしたデジタルストーリーテリング作品をつくるプロジェクトもあったようだ。会議の終盤、どやどやと大勢の子どもたちが会場へやってきたとおもったら、優秀作品の表彰がはじまった。名前をよばれた子どもたちは壇上へあがり、賞品の入った紙袋をもらうと、30年前のフリオ・イグレシアスみたいな若い市長から祝福をうける。子どもたちにとって、市長のキスはあまり歓迎すべきことではないようで、身をよじって困惑しているのが、おかしかった。

かえりがけ、サッカーボールをかかえた少年が、茶とらの猫にボールをぶつけようと試みていた。猫はわが身の危険を察知し、これ以上はありえないほどの瞬発力で猛然とダッシュして逃げる。少年はそれを追う。ぼくたちに向かって、こっち? という顔をして訊く。みつかったと悟ると、猫はまた逃げる。あんなに必死に走る猫をみるのは初めてだ、と友人は笑っていた。

函館

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今年も集中講義で函館に来ている。昨日は最高気温28.9度。それで「この夏いちばんの暑さ」だったらしい。今日は朝から雨だったのに、夕方突如として雲が切れ、陽が差してきた。授業でデジタル・ストーリーテリングの作品を必死で制作している学生たちは急に色めき立った。「撮影いってきていいですか」というが早いか、カメラをもって教室をとびだしていった。

学生制作の映像作品、配信開始

昨年度(2007年度)後期の授業で、デジタル・ストーリーテリングによる2分間の映像作品を制作した。前にもチラと触れたとおりである(過去記事)。受講した学生は、ひとり1作品ずつ制作した。その全作品(70本以上ある)の配信を、明学の文学部芸術学科のウェブサイト上にて開始した(こちらからどうぞ)。

ごらんになれば一目瞭然だが、制作技法の面でもテーマ把握の面においても、率直にいって稚拙の域を出るものではない。そのようなご批判は、むろん正当なものである。ただ、理解してもらいたい。この授業の主眼は、そもそも「上手」な映像作品をつくることにはないのである。

今日、大学の授業で映像作品を制作することなど、けっして珍しいことではない。だがそのさい、学生も指導する教員も、ともすれば作品をいかにプロのそれに近づけるかということだけに関心が集中してゆく傾向がある。そこではいきおい、技法の習得が主眼となってしまいがちだ。映像制作の職業的専門家の養成をめざすのなら、それでもいいのかもしれないが、じっさいには「プロごっこ」に終始してしまっているケースも少なくないのではあるまいか。

作品の技法的クオリティを確保することは、むろん重要だ。しかし、わが芸術学科は美大や専門学校のような実務家養成機関ではない。今回デジタル・ストーリーテリングによる作品制作においてもっとも優先されるのは、技法の習得や、プロの作品の上手な模倣ではないはずだ。そうではなく、ここでの制作は、あくまで「メディアを学ぶ方法」と位置づけられなければなるまい。そのとき最大の主眼は、制作の過程で学生自身がさまざまなことに気づいていくことにおかれるだろう。

ぼくが学生に要求したのは、ひとつだけ。どんなテーマでもかまわないが、いまじぶんが切実に言いたいことをとりあげよう、ということだ。そして、その点だけを企画段階から一貫して厳しくチェックした。学生の大半は初めての映像作品制作であり、経験者はごく少数だった。けれども、いずれの学生にとっても、こんな要求をされた経験はこれまでになかったらしい。

学生ひとりひとりからアイディアを聞く。じぶんの「切実なテーマ」にたどりつくまでがひとつの山だが、そう容易に掘り当てられない。そんなこと、学生が──いや、なにも学生でなくても──ふだんから強烈に意識しなどいないのが、ふつうだからだ。当然ぼくは幾度となく駄目だししなければならない。それは学生との真剣勝負である。適当なところで妥協すれば、学生たちはすぐにこちらの底を見透かしただろう。

学生たちの多くは、おそらく初めて真剣にじぶんの内側から表現しなくてはならない状況に直面した。今回の授業のなかで、そのなかでかれらが見出したものにこそ最大の意義があるとおもう。この4月からの授業で会ってみると、かれらの顔つきは確実に変わっていた。その変化=成長に、この授業が、たとえ小さくても、なんらかのきっかけを与えることができたのであれば、うれしくおもう。

そんなことを、作品をごらんいただくさいの裏話としてご承知いただければさいわいである。なお、公開する作品の著作権は制作者である各学生に、頒布権は明治学院大学文学部芸術学科に、それぞれ帰属していることをお断りしておく。

デジタル・ストーリーテリング@函館

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函館にいる。集中講義のためだ。今年もまたデジタル・ストーリーテリングの手法でもって、30-120秒ほどの映像作品制作をおこなっている。制作そのものが目的ではない。制作の過程をとおして、メディアリテラシーを養うことに主眼がある。

昨年はグループ単位での制作だった。今回は、より正調だ。グループで話しあいながら進めるものの、作品はひとりずつ制作する。3月のウェールズ視察での収穫をもとに、さっそく実践してみたというわけである。

観光目線ではなく、じっさいに生活する大学生の視点からみた函館の街を描く。今日で三日目、いよいよパソコンでの編集作業の段階に差しかかった。波瀾万丈が常であるぼくの授業としては、信じられないほど順調である。どういうこと?

モンティ・パイソンからウェールズへ

コペンハーゲンからロンドンに到着した。整然として落ち着いたコペンとは打ってかわったヒースロー空港の雑然たるようすは、むしろぼくには身の丈にあっている。BBC でヒアリングを済ませたあと市中へ出、調査チーム全員で、やたらに混雑するチャリング・クロスの雑踏を歩いた。立派なファサードをもつパレス劇場の前にさしかかると、モンティ・パイソンがかかっていた。今回の調査目的は英国ミュージカル喜劇事情ではないから、観劇へと暴走せぬよう自制するつもりでいた。が、やっぱり観たい。ボックスオフィスで訊ねると座席はまだあるという。

だが同行者たちにとってはいい迷惑だろう。なにしろモンティ・パイソンだ。誰もがたのしめるものかと訊かれると躊躇する。ひとりだけでこっそり観ようかな……などと口ごもっていたら、一緒にいた古川さんに叱られた。そういう問題じゃないでしょ! おっしゃるとおり。じゃあ、いいんですね、と念をおして、この芝居を観ることにした。調査チームのうち小川さんと松井さんも同行することになった。

それからの 2 時間半、久しぶりにロンドンのミュージカルを堪能した。演目は “Monty Python’s SPAMALOT” 、1975 年の映画『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』(テリー・ギリアム、テリー・ジョーンズ監督)をミュージカル舞台化したものである。原作映画の題名から一目瞭然でわかるように、アーサー王と円卓の騎士団の物語だ。日本でいえば忠臣蔵とかヤマトタケルみたいな誰もがお馴染みのお話だし、オリジナルの映画も再映やテレビなどでよく観られているのだろう。観客は中高年の男女がいい塩梅で混じっており、下は中学生みたいな子も少しいたが、みんなじつによく笑っていた。残念ながらぼくには、バーバル・ギャグなどよくわからないところも多かったけど。

モンティ・パイソンと謳われてはいるものの、オリジナル・メンバーからは脚本と楽曲にエリック・アイドルが参加しているだけである。演出はマイク・ニコルズだ。とりわけ第一幕でミュージカル場面の演出にアイディアが豊富で密度が濃く、キャストの練度も高くて飽きさせない。セットは大がかりではあるが使いまわしにこれもアイディアがある。アーサー王役のサイモン・ラッセル・ビール(シェイクスピア劇の俳優)のボケ具合もなかなかよいし、湖の女神役のハンナ・ウェディンガムの芸達者ぶりも圧巻だ。全般にアメリカナイズされており、カネがかけられている分に足るスペクタクルな面白さは満喫できる。ただしその分、英国流の毒気は薄い。

この作品、現在ロンドン以外に、ブロードウェイ、全米ツアー、ラスヴェガスと都合 4 チーム併行で公演しているのだそうだ。米英双方からの出資で走っているのだろう。これぞショービズ。

ところで、アーサー王伝説といえばウェールズだ。だから翌日から調査チームが向かったのがウェールズの首都カーディフだったのも、もしかしたら偶然ではないのかもしれない。この地ではここ数年、デジタルストリーテリングという試みが展開されている。ふつうのひとびとがじぶんや家族や地域の歴史を題材に、4 日間のワークショップをとおして約 2 分間の映像作品を協働的に制作するというものだ。その関係者から直接お話をうかがうのが、今回の調査の大きな目的のひとつだった。2 年前にアスケ・ダムさんと一緒にここを訪問し調査をされた小川さんがコーディネートしてくださった。英国でのデジタルストーリーテリングの展開にかんしては、『社会情報学研究』誌 9 巻 1 号での小川さんの論文「可能態としてのCATV、そしてパブリック・アクセス──送り手調査をもとに」や『放送レポート』誌(2005)の論考「BBCが探る新たな公共放送像」に詳しい。ぼくの直接のフィールドは放送ではないが、メディア実践とコミュニティという観点から見て、大きな示唆をうけた。いずれなにかの形で触れることになるかもしれない。

函館集中講義

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函館の集中講義が終わった。ふつうなら半期かけておこなう15時限分を、四日間で一気に実施する。函館に暮らす学生が、自分たちにとっての函館を描く映像作品を制作した。といってもムービーではなく、スチール写真を組みあわせてつくる。BBCが展開しているCapture Walesにならったやり方だ。

学生たちにすれば、ふだんから住んでいる街は、あまりに自明である。だから「函館」といわれると、最初はついつい「夜景」とか「五稜郭」とか「イカ」といった紋切り型のイメージに頼ってしまう。函館の住人でありながら、じぶんの街のイメージを、東京発信型のステレオタイプに依存して形成しなければならない状況にあるわけだ。そこから脱し、じぶんたちのあたりまえの毎日の生活(それこそ函館という街で営まれている)のなかにこそ、かれらでしか描けないテーマがあることに気づくことができれば、あとはなんとかなる。しかし、それはいうほど容易くはない。みな四苦八苦である。学生たちの多くは議論の仕方もわからないので、最初はまず停止したクルマを後ろから押してあげるようなしかけも必要だ。そうしてようやく議論がまわりはじめる。だが議論を重ねても重ねても、なかなかテーマやストーリーが見えてこない。ぼくも夜の7時8時までは付きあったが、学生たちのなかには夜どおし粘った者も少なくなかったようだ。そこまでしても、テーマ・ストーリーを固めるのが最終日前夜にまでずれこんだチームもあった。かれらは朝までかかって撮影・編集して最終日の上映会にのぞんだ。拙速を覚悟したらしい。「成長」をテーマにしたそのチームの作品は、ところが最終的に受講生の人気投票で第一位に選ばれた。

受講人数の関係で、チームは11できた。したがって、できあがった作品も11あった。「もやし」「寄り道」「母への手紙」「節約」「気づき」「買い物」など、どれもが制作者自身の内側を見つめたなかから生まれてきたという意味で、着眼点も表現方法もユニークだった。そこにはたしかに、かれらの函館がリアルに、そしてユーモラスに描かれていた。そのリアルにたどり着くことがどれほど大変か、かれらは痛感したはずだ。そのようにして手にしたリアルだからこそ見る者の心を打つのだということも。であれば、そこに成長の鍵があるはずである。

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