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執筆の余白 Archive

書きかけの論文を再開する

書きかけのまま、しばらく放置していた論文のファイルを開いた。

記録によれば、このファイルを前に開いたのは5月8日だ。2カ月半ちかく、この論文に取り組むことができていなかったということだ。

もちろんこの間なにも書かなかったわけではない。短い原稿や書評といったような仕事はしてきた。それらも大切な仕事である。けれども、書きかけのこの論文は、ぼくにとってひじょうに重要で、もっとも力を入れて取り組まなければならないものである。

そして、そういう類の仕事は、しばしばそうであるように、ついつい先延ばしされてしまう。とくに今年度のように、不測の事態が生じたり、授業期間が変則となったりすると、なおさらだ。この2カ月半、学務やら学会やら頼まれ仕事やらに追い回されているうちに、例年以上の速度で、みるみる時間が過ぎていってしまったような気がする。

しかし、メインの論文からしばらく離れていた最大の理由は、多忙にあるのではない。じぶん自身で、そのことをはっきりと自覚している。

それは「余裕」とか「平静さ」みたいなものである。きちんと論文に取り組むためには、それに向けて気持ちや意識を整理しておく必要がある。そうした精神の冗長性みたいな部分が、この間ともすると見失われがちだった。

まだ春学期授業が終わったわけではない。今日もこのあと横浜キャンパスへ行かなければならない。もろもろの仕事が完了し、執筆に専念できる時間が到来するのは、まだ一カ月以上先のことである。

ぼちぼち気持ちを引き締めて、論文に取り組む態勢を呼び戻したい。


驟雨

さる出版社の方が、わざわざ市川まで打合せに来てくださった。

執筆の話やら悪巧みの相談やら、二時間ほど愉しく話をした。これから都内へ戻られるという編集の方を見送ったあと、書店に寄ってから外へ出た。雲行きが怪しい。

歩いて帰るつもりだったが、バスに乗ることにした。

つぎのバス停で降車、というところで、路面に黒い滲みがひろがりはじめた。ポツ、ポツ、ダダダ……というテンポで、滲みの数は一気に増えてゆく。あいにく傘はもってきていない。

バスから降りた。大粒の雨が矢のように降り注いでいる。そのなかを小走りに抜けた。並木まで来ると、雨脚は弱くなった。その隙に自宅まで急いだ。頭上で一度、雷鳴が轟いた。

うちに駆け込み、すぐに濡れたシャツを脱いだ。朝、干してあった洗濯物は、半分乾いたところで、また濡れてしまっていた。

こんなふうに雨に濡れるのは、いつ以来だろう。以前であれば、こうした予期せぬ出来事に遭遇するのはけっして嫌いではなかった。

しかし、首都圏もまた放射能に汚染されているらしい今日では、もはや驟雨に濡れるというシチュエーションを愉しむような余地はあまり残されていないのだった。


論文執筆中

世間はゴールデンウィークである。例によって、ぼくにはほとんど縁がない。あいかわらず部屋にこもって論文を書いている。それ以外のことまで、なかなか手がまわらない。

いま取り組んでいるのは、メディア論において〈実践〉とは何か、というような主題だ。

これもここ7-8年、何度もチャレンジしながら、なかなかちゃんと書けなかった難物である。〈実践〉といえば、なにしろ古代ギリシア以来、広範な領域で蓄積がある。正面から向かっていっても、とうていぼくのかなう相手ではない。あくまで「メディア」という観点に沿って論じようとしている。

文献をこつこつ読み、考えを練ってまとめていくという地味な作業をつづけているわけだが、テクストはどれもこれも難しく、一度読んだくらいではよくわからない。書けば書いたで、ますます勉強不足が露呈し、前に読んだはずの文献を読みなおしたりしなければならず、ますます停滞する。完全にデフレ・スパイラルに陥っている。

そんなことくらいもっと早い段階で気づいておけよと自分ツッコミを入れたくもなる。しかし、わからない点や足りない点に気がつくのは、やはり書いたからだ。ただ頭のなかだけでいろいろ考えているだけでは、ある一定のレベルから先にはなかなか思考が深まっていってくれない。モーツァルトのような天才ならいざ知らず、ふつうの人間にとっては、とにかくまず書いてみるということが大切なのだということを、あらためて思う。

ところで、こんなふうに書くと、いかにも折り目正しい文系の研究者みたいに見えるかもしれないが、それはポーズである。実際の研究者的出自はまるで折り目正しくない。きちんとした体系をきちんと勉強してきちんと解説するというような、折り目正しい「キチンと系」にはあまり向いていない。

むしろ、関心や疑問がまずあって、そこに問いをたてて取り組むために、手当たりしだいにいろんなものにぶつかっていくというタイプである。これまでの仕事もそうだし、いま取り組んでいることもそうだ。まあ、そういう文科系の研究者が隅っこのほうにいてもいいのではないか、と開きなおることにしている。

先週は、ゼミの卒業生の個展を見にいってきた。子どものときから絵を描いてきた、描くのは「嘔吐」なのだと、サルトルみたいなことをいう(元)学生である(たぶん当人はサルトルを読んでいないと思うけど)。卒業したあともやはり絵を描きたいといって、絵画教室の手伝いやアルバイトをしながら、こつこつと描きつづけている。こう表現すると「信じた道を突き進む」といった剛直さが想像されるかもしれないが、それとは対極的である。いろいろと悩み、ダッチロールをくりかえしながら、それでも描きたいというのである。ぼくはそれも立派な姿勢だとおもう。

ぼくもまた、とにかく論文を書きつづけていきたい。──そんな話をときどき、ちらっと「散歩の思考」やツイートで触れるのは、そうすることで、じぶん自身に言い聞かせているのです。もちろん今回も。

まずは当面の難物をなんとかしてしまいたい。


忙・閑

2月は忙しい。入試が終われば、確定申告である。

たいした額ではないとはいえ、書類を整理したり計算したりで、それなりに手間はかかる。足りない書類があれば送ってもらう必要もある。先方の編集者には余計な面倒をかけることになる。まことに心苦しい。

ようやく準備が終わって税務署に行き、係のひとたちの指導のもとにパソコンで申告書を作成する。そうして提出するわけだが、とにかく複雑怪奇としかいいようがなく、いまだにその作業でじぶんが何をどうしているのか、よくわかっていない。

会場にいる係員たちは、こちらが質問すれば、その場で瞬時にあのややこしい書類と規則とを理解して、どうすればいいかを教えてくれる。ほとんど想像の範疇を越えた技としかいいようがない。こちらとしては、とにかく、ぶじに書類を受けつけてもらえれば、一安心である。

そんなわけで、2月にふりかかってくるこの種のお仕事を片づけたら、ようやく、書きかけのまま先月末から放置してあった論文に戻ることができる。──はずなのだが、そう甘くはなさそうだ。この先3月まで、まとまった時間を確保するのは、ちょっとむずかしいかもしれない。


口頭試問終了

卒論の口頭試問が終わった。ゼミ生たちはそれぞれ力のこもった論文を書きあげてくれた。

指導教員としては、たんに「参加賞」としてではなく、できるだけしっかり取り組んでほしいとおもっている。そうすれば、結果として、それなりの水準のものを書ける。本人たちがどう自覚しているかは知らないが、それだけの力は十分持っている。でも、そこに到達するためには、それなりに努力しなければならない。

春先からこちら、迷走したり苦しかったりしたこともあっただろうが、最後まで諦めたり投げ出したりせずに取り組むことができた。とくに夏前くらいからは、じぶんたちでどんどんアイディアを出したり議論をしたりして物事を進めてゆくことができるようになり、安心して見ていられるようになった。この一年で、ずいぶん成長してくれたとおもう。

そのあとの数日、ネットのつかえないところへ出かけ、ほとんど籠もりきりで、論文を書いてきた。ほかからの連絡は来ないし、ぼくも気が散らないので集中して仕事できるのはいいのだが、腰が痛くなってしまった。

今朝、東京へ戻ってきた。これから会議である。


いつ休むんですか

今年も集中講義が終わった。「講義」と名前はついているが実質はワークショップだ。土日をはさんだ五日間でひとつのテーマについて討論し、演劇とデジタル表現を組みあわせたパフォーマンスに表現して発表するというもの(2008年度の記録2009年度の記録)。今年のテーマは「なぜ学ぶのか」。最終日の発表を終えたあとは、受講した三年生とサポートした四年生で五反田へ出て打ち上げ大会となった。卒業生もあらわれて、たのしい時間となった。

さて、これでようやく夏休みである。「休み」という名前ではあるが、世間でいう「休暇」とはちがう。まとまって時間がとれるほぼ唯一の期間であり、それは執筆にあてられることになる。すでにこの夏に書くべきものは予定されている。

学生たちはそのあたりの事情をうすうす察知しているのか、よく「いつ休むんですか」と訊かれる。どう答えればいいのやら。

たしかに、夏期休業中も、ふだんの授業期間中も、ふつうの意味でいう「休み」はない。だからといって、のべつまくなし仕事に追いまくられているワーカホリックをイメージされると、それもちょっとちがう。けっきょく、ものを考えるのも、あれこれ資料を探して調べるのも、文章を書くのも、学生とえんえんと話をしているのも、どれもそれぞれ異なる意味で「愉しい」のだ。だから強いていうのなら、「いつ休むんですか」というような問いが成立しにくいようなところで暮らしているということになるのかもしれない。

ただし「愉しい」といっても、単純に面白おかしいのとはちがう。局面だけみればしんどいことの連続である。たとえば、書くことは好きだが、同時にそれはこれ以上なく辛い作業でもある。天才的な批評家はいざしらず、ぼくのような人間のばあい、執筆とは思考を写しとるような作業なのではなく、かなりの精度と密度で思考してゆくことだからだ。それは誰にとっても、楽な仕事ではないだろう。だからついつい、書きはじめるのを先延ばしがちなのだ。

そういうとき、こうやってブログの原稿を書いたりする。これを助走路にして本来書くべき原稿にとりかかれればうれしいわけだが、ブログをアップしたところでくたびれて終わりということも、しばしばある。そうしてじぶんの駄目さ加減を目の当たりにして、ますます落ち込むのである。


アトラクションの日常

ここ数カ月、ほぼかかりきりで執筆していた原稿が、ようやくできあがった。月曜日の朝のことだ。メールに添付して編集の方に提出すると、晴れ晴れとした気持ちになった。

執筆の途上で二度ばかり「あ、これだ」と壁を突き抜けるみたいな感覚を感じた。最後のほうでは、ほとんど何にも遠慮しないで集中し、なんだか覚悟がさだまってきた。良くも悪くも、現時点でぼくのもっているものをすべて投入して書きあげたものだ。

もっとも、そんなエラソーに書いていられるのもいまのうち。あとでぜんぶ錯覚だったと落ち込むのが関の山かもしれないのだけど。

順調にいけば、夏の初めに出版予定。『アトラクションの日常』(仮題、河出書房新社)という。


トロリー・ソング

先週来、ぎっくり腰である。

2月の中旬は毎年必ず体調を崩すのだが、今年は大丈夫そうだ、と油断したのがいけなかったのかもしれない。ある日どうも椅子の姿勢があわないなとおもっていたら、翌朝には腰が伸びなくなっていた。

さいわい今回はさほど深刻ではなく、とりあえず立つことはできた。ただ、痛くて直立できず、進化に失敗した類人猿のような恰好でしか歩けない。だいぶよくなったものの、それでも外へ出るのはまだ厳しい。だから日がな自宅で執筆している。もちろん、遅々として進まない。

執筆のために、ここ数日でジュディ・ガーランドの「トロリー・ソング」の場面ばかり何十回も観た。映画『若草の頃』(1944年)のなかのシーンである。トロリーの吹きさらしの二階でガーランドがうたうのだが、トロリーの速度や揺れと相まって、じつに示唆的であり、ミュージカル映画史上に残る名場面だ。授業で学生に見せたりしつつ、いつかこの場面について書きたいとおもっていた。

あれこれ調べているあいだは夢中だが、椅子から立ちあがろうとすると、じぶんが病人である現実に引き戻される。


夏の終わり

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例によって今年もお盆のあいだに夏風邪をひいた。

最初は扁桃腺が腫れる。つぎに腫れが気管支にさがって、ゴムホースを呑みこんだみたいに痛みはじめる。呼吸をすれども空気が入ってこないから頭が痛み、これに背中と腰の痛みがくわわる。大人になってからは喘息の発作とも無縁となったが、ちょっと体調を崩しはじめると痛みは弱いところから出るようだ。

夏風邪をひいた理由は簡単。就寝中にエアコンの冷気が身体にあたったからだ。こうなると、寝るのがつらい。いっそ冷房など一切不要という体質ならよかったとおもうのだが、そういうわけにはいかない。暑さ、とくに蒸し暑いのは苦手といういたって凡庸な体質だから、この時期、就寝時にエアコンをつけずにはいられない。しかし、つけたらつけたで呼吸が苦しくなる。どちらを選べばいいというのか。

さいわい三日ばかり気温の低めの日が続き、この隙に薬を飲んで睡眠をたくさんとり、だいぶ持ちなおしてきた。この間、ゲラの校正をひとつ済ませ、手強い論文にもとりかかった。

いつのまにか日の暮れが早くなり、夕べともなれば虫の鳴き声が聞こえだす。山下達郎の名曲「夏の終りに」が、また聴きたくなる。


なぜ書くのか

たったいま原稿を一本しあげたところだ。ちょっと特殊な性質の雑誌から依頼されたもの。一般の書店店頭に陳列される類のものではない。とりたてて長くはないこの原稿、おもいのほか執筆が難航した。授業期間が終わってもまとまって時間がとれず忙しかったという事情はたしかにあった。でも本質的な理由は、そういうことではない。

依頼されたテーマは、口幅ったい言い方になるが、たしかにぼくにしか書けないであろう題材だった。ぼく自身、そのテーマについて言うべきことは山ほどあり、長年内側にかかえてきた。けれどもこれまで書くことを避けてきたし、書くつもりもなかった。今回の依頼がなければ、おそらくこの先ずっと書くことはなかっただろう。

依頼していただけるというのはありがたいことだ。いつもならよろこんでお引きうけする。だが今回はテーマを聞いて少しとまどった。でも、けっきょく引きうけることにした。ほかのひとにいい加減なことを書かれるのも困るといういささか消極的な理由がなかったかといえば、嘘になる。

長年あれこれ考えてきたことだから、書ける。断片的なことはいくらでも書ける。だが、書けども書けども原稿が立ちあがってこない。一向に組立工程に入ることができず、部品ばかりが山積みになっていく困った工場みたいな惨状である。

直接的な原因ははっきりしている。書き出しが見つからないからだ。これはぼくの執筆上の癖なのだ。どんなに部品を書き連ねても、じぶんなりに「これだ」とおもえる書き出しが見つからないかぎり、まとまったものにならない。べつに傍目にもすばらしい名文である必要はない。じぶんなりにこの原稿の書き出しにふさわしいと腑に落ちる書き出し、が大事なのである。

しかし、それだけではない。物事には背景というものがある。行き詰まりは、もっと深刻な理由につながっている。この原稿が世に出たとき付随して生ずるであろう諸々が先取りしてぼくの頭に侵入し、それらを勘案しなければという気持ちを生みだしていた。たぶんこのテーマがある時期のぼくに近すぎたことが関係しているのだろう。そしてこんな状態になることは、じつはずっと前からうすうすわかっていた。だからこれまで書こうとしなかったのである。

人間が何かを創作する瞬間に、こうした迷いは邪念でしかない。じぶんをがんじがらめに自縛し、みずから身動きできなくすることになる。こんなことを書いてもきっと誰も読んでくれないだろうという気持ちさえ生じつつあった。ぼくにはこの原稿が収まるべき「かたち」が見出せなくなっていた。

その状況はちょうどオートバイで転倒したときと似ている。ぼくがすべきことは、じぶんとバイクがどんなダメージを負っているかを点検し、復旧への道筋を敷きなおすことだ。

あらためて順をおって考えなおしてみる。テーマについて言うべきことをいまのぼくがかかえているのは、たしかなことであるようにおもわれた。それは、他人がどれほどの価値を見出すかはともかく、誰がなんといおうと、ぼくでなければ言うことのできない性質のものであるだろう。けれども、「言うべきこと」がけっきょく何なのかは、事前にどれだけ思考したとしてもやはりぼんやりとしており、最終的に原稿として書きあげてみるまでは絶対にクリアにはわからない。だからぼくは、誰に遠慮することも阿ることもなく、じぶんの言うべきことを言うべきかたちで書くよう、持てる力をすべて注ぎこんで執筆にとりくまなければならない。それは、「読むひとのことを考えて書きましょう」という水準とはちょっと別の話だ。もしじぶんの言うべきことを言うべきかたちで書くことを避けてしまえば、当然の報いとして、いずれ何も書けなくなってしまうだろう。

そう考えたら、あとは早かった。よけいなことは忘れて、書くべきことにストレートに向きあえばいい。二日で書きあげることができた。一晩寝かしてから修正して脱稿。その雑誌には少々不釣りあいな密度の文章かもしれないが、それはもうぼくの案じることではない。

なぜ書くのか。それは誰よりもまずじぶん自身のためである。じぶんが思考し書くべきことが何なのか、それを精確に見きわめるために、できるかぎりの創意をこらし、魂をこめて文章をつむぎだす。それがぼくにとって「書く」ことだ。どんなにささやかな文章であっても、それをつうじて世界を変えるのだという気持ちを失うことなく、書く(むろん何も変わりはしないのだが)。それが結果として、読んでくださった誰かにとってほんのわずかであっても意味あるものとしてうけとられることにつながるのなら、もう言うことはない。だがそれはあくまで結果にすぎず、ぼく自身が制御できる範疇を越えた事象である。だから、そんなことは先取りしない。いまのぼくが書くべきことを、ひたすら必死で書く。

たとえナイーヴといわれようと、こうした姿勢が根本になければ、じぶんなりに納得がいき、また人様に読んでもらえるようなものは書けない。少なくともぼくのばあい、それは真理だと信じている。この原稿を書いてよかった。


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