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	<title>散歩の思考 : SwingBooks.jp &#187; 相米慎二のすべて 1980-2001 | 散歩の思考 : SwingBooks.jp</title>
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	<description>明治学院大学文学部芸術学科准教授、長谷川一のブログ。</description>
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		<title>相米慎二のすべて 1980-2001</title>
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		<pubDate>Fri, 25 Nov 2011 11:24:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
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		<description><![CDATA[東京フィルメックスの一環としておこなわれていた『相米慎二のすべて 1980-2001 全作品上映』に行ってきた。相米慎二監督の没後十年ということで、作品13本すべてを上映するというもの。すばらしい企画だとおもう。 貴重な [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>東京フィルメックスの一環としておこなわれていた『<a href="http://filmex.net/2011/sp2.html">相米慎二のすべて 1980-2001 全作品上映</a>』に行ってきた。相米慎二監督の没後十年ということで、作品13本すべてを上映するというもの。すばらしい企画だとおもう。</p>
<p>貴重な機会なので、全作品をスクリーンで再見したかった。けれども時間の都合で、観ることができたのは三作品だけ。昨日上映された『光る女』と、今日の最終日上映『東京上空いらっしゃいませ』『風花』。それでも、行ってよかった。</p>
<p>とくに『東京上空いらっしゃいませ』は大好きな作品である。もう、すべてがすばらしい。ぼくにとっては、相米ベスト1であるだけでなく、好きな日本映画ベスト5に入れてもいいくらいである。今回あらためて観て、ますます惚れ込んだ。</p>
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		<title>映画『ステキな金縛り』</title>
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		<pubDate>Mon, 21 Nov 2011 02:00:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
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		<category><![CDATA[フランク・キャプラ]]></category>
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		<description><![CDATA[映画『ステキな金縛り』を観た。大ヒット中ということらしいが、三谷幸喜作品としては中程度の出来である。 作中でフランク・キャプラ監督の名前とともに、かれの代表作『スミス都へ行く』（DVDパッケージが映る）と『素晴らしき哉、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>映画『ステキな金縛り』を観た。大ヒット中ということらしいが、三谷幸喜作品としては中程度の出来である。</p>
<p>作中でフランク・キャプラ監督の名前とともに、かれの代表作『スミス都へ行く』（DVDパッケージが映る）と『素晴らしき哉、人生！』（言及だけ）が参照される。じっさい、この2作品にコロンボと『羅生門』を足して水割りにしたような内容だ。</p>
<p>全体としては、喜劇性よりも人間ドラマに軸足がおかれている。三谷作品がしばしば陥るケースである。だからこそ広い客層にウケるのかもしれないが、切れ味抜群のシチュエーション・コメディを期待していくと、まず落胆するだろう。</p>
<p>設定はまずまず面白いが、あまり発展してくれない。個々の要素的エピソードが弱く、全体の組立もかなり乱暴だ。</p>
<p>阿部寛など、ジェームズ・スチュワートになりうる予感が感じられなくもないのに、終盤を迎えると急に妙な扱いをうけることになってしまう。もったいないことである。最後のほうの、裁判が終わったあとのエピソードは、説明的だし長すぎる。なくてもいいくらいである。</p>
<p>芝居は、あえて、なのだろうが、えらく大仰な小芝居が散見される。その「あえて」がどこに向けられた狙いなのかが、いまひとつよくわからず、全体に学芸会や隠し芸大会のような印象ばかりが残る。年配の俳優が演じてしかるべき役柄を、妙につるつるした若い役者に振っていることも、それに拍車をかけている。</p>
<p>ソール・バスふうのオープニングはよかった。最大の収穫は、コメディエンヌとしての深津絵里が確認できたことであろうか。</p>
<p>このひとは、もっと面白いシチュエーション・コメディを撮ることができるはずだ。晩年のキャプラのような自己の再生産モードに入るには、まだ早すぎる。次作に期待したい。</p>
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		<title>映画『カーズ2』</title>
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		<pubDate>Sat, 03 Sep 2011 01:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
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		<description><![CDATA[夏休みの最後に《くんくん》と二人で観てきた。《くんくん》の第一希望は『劇場版ナルト2011』だったのだが、時間があわないことを理由に半ば無理やりこちらに変更させてもらった。 観たのは日本語吹替版である。監督はジョン・ラセ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>夏休みの最後に《くんくん》と二人で観てきた。《くんくん》の第一希望は『劇場版ナルト2011』だったのだが、時間があわないことを理由に半ば無理やりこちらに変更させてもらった。</p>
<p>観たのは日本語吹替版である。監督はジョン・ラセターだから、おもしろいに決まっている。</p>
<p>今回はスパイ物だ。007ばりの活劇で幕を開ける。音楽が007ふうなのは当然として、この活劇をクルマにどう演じさせるかというところに、アイディアの投入しがいがあっただろう。むろんここで活躍するクルマは、ボンドカー的にアストン・マーチン（モデルはDB6か？）である。</p>
<p>物語を支える図式は、気のいい米国と一筋縄ではいかない英国との対立と融和、というやつであろう。その意味では、「アメリカ的合理主義にイタリアの職人仕事が負けてたまるか」という旨の台詞を吐く宮崎駿監督の『紅の豚』と対をなしている、といえるかもしれないが、全体としては、まあ、米国から見たときの英国の、近くて遠くて、でもやっぱり近いという微妙な距離感を確認するようなお話だ。</p>
<p>ステレオタイプな思考そのままである。とはいえ、娯楽映画にステレオタイプは不可欠なので、それ自体に文句をつけるのはお門違いだとおもう。むしろステレオタイプをいかに組みあわせて、ある枠組みのなかで独自のおもしろさをつくりだしているかに着目するべきであろう。</p>
<p>物語としては、『トイ・ストーリー3』のような、いわゆる「いい話」ではないので、その手の物語が好みのひとには、深みがないという印象を残すかもしれない。</p>
<p>この作品のばあい、キャラクターがすべて自動車という世界が肝なので、米国対英国という図式は、アメ車対英国（酷）車という図式へと横滑りする。そこが、なかなかおもしろい。</p>
<p></p>
<p>乗り物を擬人化してそれをリアルに表象してみせるという発想それ自体が、どちらかといえば英国的といえるかもしれない（例：『きかんしゃトーマス』）。ある時代までの自動車もまた、それぞれの文化に色濃く染められている。</p>
<p>東京（表記はTowkyo）、イタリア、英国と、F1ばりに転戦してゆく。山場の英国では、女王陛下が登場するが、彼女はもちろんロールスだ。側近はレンジローバー、近衛兵はシリーズII、重要な役まわりのアクセルロッド卿がディスコ2（かな？　ただしフロントグリルはジープ調である）と、ランドローバー総出演状態。</p>
<p>そして、英酷車といわれるように、オイルを漏らしたり（あんなふうに漏れたら実際には致命傷だが）、日本車的感覚であれば故障しないはずの箇所が壊れたりするというイメージ（実際そのとおりだが）も、物語上、大きな意味をもつ。英酷車乗りの端くれとして、やや微妙な気分にならないでもない。</p>
<p>まだある。鍵となる要素のなかに、ウィットウォース規格が出てくる。ボルトや工具の、いわゆる英国インチ規格のことだ。British Standard Whitworth、略してBSW。実際、この三文字の記された銘板の映るショットがある。</p>
<p>だいたい、ボルトにメトリックとインチで規格違いがあるなんてことさえ、ふつうのひとは知らないだろうに、ましてやBSWとなれば、クルマ好きでも相当な英酷旧車マニアでないと知らないとおもう。</p>
<p>知らないで観ても話の筋立てはじゅうぶん理解できるが、知っていると思わず唸ってしまう。このあたりの「濃さ」が、『カーズ』が（前作も本作も）いまひとつ日本で大ヒットとなりきれない要因になっている可能性もある。</p>
<p>おそらくラセターは相当のクルマ好きであるにちがいない。かれがただの好事家と決定的に異なるのは、そうした自身の関心を、それとはまったく異なる領域の事物と結びつけ、ひとつの世界をつくりあげてしまうところにある。</p>
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		<title>映画『ウォール・ストリート』</title>
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		<pubDate>Thu, 10 Feb 2011 00:00:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アメリカン・プレジデント]]></category>
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		<description><![CDATA[オリバー・ストーン監督の『ウォール街』（1987年）の続編。2008年のサブプライム危機が舞台である。 原題には「マネーは眠らない」と副題がついている。ところが、凄んでみせるわりには、えらく拍子抜けである。 サブプライム [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>オリバー・ストーン監督の『ウォール街』（1987年）の続編。2008年のサブプライム危機が舞台である。</p>
<p>原題には「マネーは眠らない」と副題がついている。ところが、凄んでみせるわりには、えらく拍子抜けである。</p>
<p>サブプライム危機がデジタルネットワークと欲望が結託したグローバル資本主義のひとつの帰結だったというような認識は微塵も描かれていない。グローバルな金融市場の悪魔的なありようにたいする批判的意識は、ただ個人の倫理の問題だけに回収されることで、体よく隠蔽されている。</p>
<p>話はひたすら、「いいもの」と「わるもの」の二分法というハリウッド的常套手段で進められ、後者が血祭りにあげられる一方で、やたらに「金以上の何か」を強調することで、何かが解決したかのようなお話を語る。なんだか80年代以上に牧歌的である。</p>
<p>全体に、マイケル・ダグラスをかっこよく見せることに腐心しており、その点で『アメリカン・プレジデント』に似た印象を与える。プロモーション・フィルムを見せられているみたいなのだ。</p>
<p>シャイア・ブラーフの主人公は、いちおう悩んだり、失敗したりはするが、物語をとおしてあまり成長（＝変化）しないのは、脚本がよくないとおもう。同じことは、「ゲッコーの娘」を演じるキャリー・マリガンにもいえる。とってもうまいし、かわいいけど。</p>
<p>21世紀の世界が、こんな甘くて微温くて、いいのだろうか？　かえって心配になってくる。</p>
<p>余談ながら、チラリと登場するチャーリー・シーンの様相が一変しているのには、戦慄させられる。</p>
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		<title>映画『バンド・ワゴン』</title>
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		<pubDate>Tue, 08 Feb 2011 00:00:02 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミュージカルという問題]]></category>
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		<description><![CDATA[市川のTOHOシネマズで上映、というので出かけていった。DVDなら自宅で何度でも観られるけれど、大きなスクリーンで観られる機会は、この先何回あるかわからないし。 作品については、もうあれこれ言うまでもない。名作である。そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>市川のTOHOシネマズで上映、というので出かけていった。DVDなら自宅で何度でも観られるけれど、大きなスクリーンで観られる機会は、この先何回あるかわからないし。</p>
<p>作品については、もうあれこれ言うまでもない。名作である。そうに決まっている。</p>
<p>前年に製作された『雨に唄えば』と並んで、ハリウッド・ミュージカル映画の最高峰である。トーキーの幕開け時代を舞台にした『雨に唄えば』がより明朗で若々しいのだとしたら、こちらは、30年代に始まるミュージカル映画の全盛期を括弧でくくった設定で、ぐっと渋い。</p>
<p>ぼくが最初にこの作品を観たのは高校生か浪人のころだったとおもうが、すでに知識としては、そうしたことを知っていた。知ってはいたが、当時はまだ古い作品を気軽に観られる状況になかったので、なかなか実作品に触れられずにいた。たまたまリバイバルブームが到来し、上映されると知ったときは、うれしかったものである。</p>
<p>ところが、じっさいに作品を観ると、とまどってしまった。たしかにすばらしいとはおもうものの、いまひとつピンとこなかった。いま思えば、まだ尻の青いガキだったのだ。このフィルムは、人生の山も谷も味わい、かつ残された時間に限りがあることを知っている大人の作品なのである。ちなみに、アステアはこのとき54歳である。</p>
<p>ハリウッドのミュージカル映画を考えるときにこの作品が重要なのは、これが名作であり最高峰であるという理由だけに拠るのではない。これを境に、ミュージカル映画というジャンルは凋落し、大きく変質して、ついにはジャンルそのものがほぼ消滅する。その分水嶺に、この作品は位置づけられるからである。</p>
<p>いいかえれば、「1953年のトニー・ハンター」を演じることで、アステアはみずから築いた黄金時代をみずから幕引きするのである。フィルムの隅々に、なんともいえない寂しさが漂っている。</p>
<p>細かいことをいくつか。今回の上映はニュープリントだという。音声の細かいところがよく再生されていて、いままで気づかなかった息づかいや、背後のほうで小さく響く声や音楽などがよく聞こえた。ジャック・ブキャナンのズレ方がいい感じである。とくに前半はこのひとでもっているところがある。</p>
<p>東宝にかぎらず、名画座的な上映をもっと拡げてもらえるとうれしい。</p>
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		<title>映画『イン・ザ・ネイビー』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2011/01/15/1996down_periscope/</link>
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		<pubDate>Sat, 15 Jan 2011 07:52:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
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		<description><![CDATA[潜水艦もののコメディ。掘りだしものである。 当ブログ「散歩の思考」では、映画は映画館で観た作品だけをとりあげることを原則としているが、今回紹介する作品は例外だ。劇場未見、DVDで初めて観た。製作は1996年、日本でも公開 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>潜水艦もののコメディ。掘りだしものである。</p>
<p>当ブログ「散歩の思考」では、映画は映画館で観た作品だけをとりあげることを原則としているが、今回紹介する作品は例外だ。劇場未見、DVDで初めて観た。製作は1996年、日本でも公開されたらしいが、ほぼ地方での二本立て添え物扱いだったようだ。</p>
<p>そのときの邦題が『潜望鏡を上げろ』。原題は &#8220;Down Periscope&#8221; だから、本来は「さげろ」であろう。じつは1959年に同じ『潜望鏡を上げろ』（ゴードン・ダグラス監督）という作品があり、こちらの原題が &#8220;Up Periscope&#8221;。そのもじりである。</p>
<p>監督は『メジャーリーグ』のデイヴィッド・ウォード。主演はケルシー・グラマー。後頭部の地肌がのぞき、でっぷりお腹のつきだした、でっかい中年のおっさんである。テレビで活躍しているコメディアンで、映画はこれが初主演作らしい。</p>
<p>で、このグラマー演じるのが万年少佐ドッジである。有能さは海軍全体が認めるものの、変人奇人ぶりがたたって出世コースからはずれている。そのドッジが、突如として艦長に任命される。喜んだのも束の間、それは40年も前の旧式ディーゼル潜水艦スティングレイ号だった。上司にあたる二人の提督（それぞれ味方と敵方）がドッジに演習へ出よと命じる。旧式潜水艦で最新鋭のロサンゼルス級原潜をかわして米海軍軍港を攻略せよ。成功すれば、原潜艦長にしてやる、というのだ。</p>
<p>しかし集められた乗組員たちは、海軍の厄介者ばかり。どういうわけか若くてグラマラスな女性士官までいて、男ばかりの艦内はたちまち怪しくなる。ドッジ艦長は有象無象の曲者どもを掌握しつつ、旧式潜の特徴を逆手にとった奇抜な戦法で、追っ手の原潜を巧みにかわし、軍港へと迫る。──という、まあウォード監督の前作『メジャーリーグ』などでもおなじみの設定・プロットである。</p>
<p></p>
<p>潜水艦戦ではドッジ艦長の編みだす計略が炸裂し、危機を乗り越えるたびに、落ちこぼれ乗組員たちはしだいに結束してゆく。プロットはよく練られている。もちろん、どれもが類型的な「お約束」パターンなのだが、類型的なのが悪いわけではなく、その取捨選択と組み立て方、描き方がポイントだ。その点、本作品は手堅い。要所要所に過去の潜水艦もののパロディが配されていて笑わせられるが（副長や機関長、ソナー手、烹炊員あたりを注目するといい）、元ネタを知らなくても十分おもしろい。</p>
<p>なにより驚かされるのが、潜水艦の描写である。喜劇だからと舐めてはいけない。潤沢な予算を投入したはずの大作（にして大味な）『クリムゾン・タイド』あたりより、よっぽどしっかりしている。旧式潜スティングレイは、サンフランシスコに保存されている<a href="http://www.maritime.org/pamphome.htm" target="_blank">退役潜水艦パンパニート</a>をつかっているそうだが、その使い方や見せ方もうまい。艦内はほぼセットだとおもわれるが、ディーゼル駆動の旧式潜と最新鋭の原潜との違いが鮮明に対比づけられる。水中の潜水艦の動きを見せるVFXの出来もよい。</p>
<p>物語設定上では、「ウォーゲーム」という枠組みが重要だ。台詞でも「ウォーゲーム」という言葉がつかわれているが、これは軍事用語でいう「演習」だけでなく、「戦争ごっこ」という意味もかけてあるだろう。「ごっこ」なのだから、誰も死んだり傷ついたりはしない。あくまで「ゲーム」なのだ。それがあらかじめ保証されているから、観客は安心したうえで、物語の展開に一喜一憂しつつ、笑って観ていられる。コメディというと軽くみられがちだが、それを支える構造はなかなか複雑である。</p>
<p>こうした作品が成り立ってしまうのも、たとえば『ペティコート作戦』や『底抜け艦隊』みたいに、ハリウッド映画のなかに軍隊コメディという系譜があるからだろう。高邁な思想を主張するようなタイプの作品ではないが、下手な大言壮語や、騎士道精神のようなロマン主義的妄想を見せられるよりも、よほど清々しい。でも日本じゃむずかしいだろうなあ。</p>
<p>しいて難点をあげれば、人物の描き方が弱いことだろう。奇人であるはずのドッジ少佐など、物語中盤以降はいたって有能な艦長になってしまう。曲者ぞろいの乗組員たちを見事に掌握してゆくし、艦が危機に直面すれば沈着冷静な対処を見せ、女性士官への気配りも忘れない。そして敵役の提督（ブルース・ダーンが愉しそうに演じている）には、ここぞという場面で啖呵を切る。あまりに立派すぎ。これじゃあ、よくあるただのアメリカン・ヒーローである。</p>
<p>ただし、<a href="http://movie.goo.ne.jp/movies/p10484/story.html" target="_blank">ネットで見つけた粗筋</a>と比べると、ぼくの観たDVDではいくつかのシークエンスが削られているようでもあり、その影響もあるのかもしれない。</p>
<p>なおビデオ化にあたって改題された邦題が示すように、クロージングには懐かしのヴィレッジ・ピープルが登場して「イン・ザ・ネイビー」をうたう。作中にあからさまにホモセクシャル的な場面はないけれど、そういえば軍隊、とりわけ潜水艦のような、長期間にわたる閉鎖空間にして文字どおり男ばかりの運命共同体は、少なくともホモソーシャルの温床ではある。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>映画『Space Battleship ヤマト』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2010/12/06/2010yamato/</link>
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		<pubDate>Mon, 06 Dec 2010 01:00:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[ALWAYS 三丁目の夕日]]></category>
		<category><![CDATA[Space Battleship]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
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		<category><![CDATA[予科練]]></category>
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		<category><![CDATA[戦争映画]]></category>
		<category><![CDATA[特撮]]></category>

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		<description><![CDATA[太平洋戦争に敗けてから65年。この間日本ではおびただしい数の特撮やアニメ作品がつくられてきた。そのかなりの割合を、なんらかの形で「戦争」を描く作品が占めている。この事実は何をあらわしているのか。 考えようによっては、戦後 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>太平洋戦争に敗けてから65年。この間日本ではおびただしい数の特撮やアニメ作品がつくられてきた。そのかなりの割合を、なんらかの形で「戦争」を描く作品が占めている。この事実は何をあらわしているのか。</p>
<p>考えようによっては、戦後の日本社会は、65年前のあの敗戦をそのまま事実として淡々と受け入れることができず、特撮やアニメ作品という形を借りて、あの戦争を意味づけようとするシミュレーションを重ねてきたのだともいえる。</p>
<p>その代表的な作品のひとつにあげられるのが『宇宙戦艦ヤマト』だ。</p>
<p>アニメ番組・映画の実写版ということで話題らしい。だが見どころは、木村拓哉や黒木メイサや実写のヤマトだけではない。</p>
<p>もともとこの作品は、70年代の世界認識をもとにつくられている。もとのテレビ版には、1945年4月、旧海軍の戦艦大和が沖縄特攻に出かけ、坊の岬沖で米艦載機の攻撃によって撃沈される場面が描かれていた。22世紀末を舞台にした『宇宙戦艦ヤマト』とは、あのとき沈んだ大和、そして敗戦した日本にたいし、あらためて「意味ある生（と死）」を付与しようとした語りだったのだといえる。</p>
<p>そのような「往年の名作」は、21世紀において、どのように解釈されうるのか。あれから40年が経過し、その間に世界はすっかり異なる様相を見せるようになってしまった。そうである以上、これもまた重要な見どころであるはずだ。</p>
<p>そして皮肉なことにこの作品『Space Battleship ヤマト』は、70年代ナショナリズム的な語りを21世紀のグローバル時代にそのまま持ち込むと、テロの論理になってしまうということを、図らずも実践してみせることになってしまった。</p>
<p></p>
<p>地球に攻撃をしかけるガミラス星は、圧倒的に強大な力をもって極悪非道の限りを尽くす絶対的な悪として描かれる。げんにガミラスの宇宙船は不定形というか、それ自体が怪獣のようであり、あらわれる兵士たちも個性をもつ者としては描かれない。のみならず、明確な姿形も与えられておらず、それは「異形のもの」、われわれとは徹底的に異なる他者として表象される。</p>
<p>もちろん異者をこのような形で「他者」と表象することは、じぶんたちのことを「被害者」としてのみ捉えようとする視線と表裏一体である。</p>
<p>したがって、地球の「平和」をとりもどすためには、絶対悪であるガミラスにたいしてなら何をしてもいい。地球の者から見れば、われわれはガミラスに一方的な暴力を受けている被害者なのであり、それに対抗することは明白な「正義」なのだから。地球を「守る」ためには、ガミラスは最後のひとりまで抹殺したところで、かまわない。そして実際、ガミラス星ではその中枢を徹底的に破壊する。ここでは、近年のこの種の戦争映画はしばしば同じような役まわりを担う柳葉敏郎が、みずからの命を賭して、その任務を遂行する。</p>
<p>そして最後は「特攻」である。「特攻」とは、いうまでもなく太平洋戦争末期に旧日本軍がとった、もはや正規軍とはいいがたい、戦術ともよべない戦術を淵源とした言葉であるが、ここでは、圧倒的な「敵」を前にして、みずからの生命と引き換えに「敵」の抹殺を目論む行為のことをさしている。</p>
<p>そのような「特攻」という行為を、「愛する者を守る」という大義名分にもとづく「自己犠牲」として語ろうというのは、前回の投稿「<a href="http://swingbooks.jp/2010/12/04/yokaren">予科練平和記念館</a>」でも述べたとおり、国民国家による国民国家のための典型的な言説パターンである。それがここでも反復される。むろん劇場版の第2作（という扱いでいいのかな）『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』（1978）の踏襲であろう。</p>
<p>そして本作品での「特攻」もまた、主人公・古代進の「自己犠牲」ぶりが礼賛されるように描かれるわけであるが、同時にそれは、かれらによって母星が破壊されたあと、流浪するほかなくなったガミラス星の最後のひとりまでをも抹殺するための破壊行為でもある。いいかえれば、ここにおいて「民族浄化」を貫徹してしまうのである。</p>
<p>こうして、古代による長々とした演説が主張するドメスティックな「愛」と「自己犠牲」の論理は、自爆テロのそれと何も変わらないことになってしまう（ちなみに太平洋戦争の旧日本軍によるいわゆる「特攻」は、国民国家間の戦争でのことであり、近年の自爆テロと同列に語ることはできないはずだ）。</p>
<p>以下、具体的な指摘をいくつか。</p>
<p>作劇について、基本的な姿勢は支持したい。もとの作品の基本的な設定・ストーリーを踏襲する姿勢は評価されるべきだ。往年の特撮やアニメの名作をリメイクする試みは近年いくつかあったが、多くが設定やストーリーを大幅に変更してしまい、結果としてつまらない作品になってしまうケースが少なくなかった。本作品では、もとの作品にたいして十分な敬意が払われており、いわゆる名台詞や名場面もきちんと実写でやってみせている。</p>
<p>とはいえ、いくつか変更を施している箇所もあり、それらはいずれも作品の要となっている。最大のものは物語の設定上の変更点にある。つまり、なぜヤマトはイスカンダル星をめざすのかという、旅の「目的」である。これについては、もしかすると賛否が分かれるところかもしれないが、ぼくはなかなか興味深く、評価すべきポイントであるようにおもう（ただし、もっとうまく展開できたはずだが）。人物設定のうち、何人かが女性に変更されているが、これもおおむね成功といっていいのではないか。明らかな失敗は、高島礼子の佐渡先生だけだ。</p>
<p>しかし難点は演出である。ドラマを構築できているとはいいがたい。ひとつのシークエンスにひとつの意味を貼りつけるばかりなので、ひどく記号的である。まるで漫画をひとコマずつ見ているみたいで、シークエンス間のつなぎから流れが失われてしまっている。それに歩をあわせるようにして、演技も全体に大芝居である。艦橋など室内の場面が多く、演出の力量がむしろ露わになってしまった感がある。</p>
<p>脚本は説明が多すぎ。プロット構築において、いちおう伏線は定石どおりに張っているのだが、いずれもちょっと弱い。ストーリーの進め方にもメリハリがない。ヤマト発進の場面などきわめて大事なカタルシスを演出してもらいたいのだが、なんだか、あれよあれよというまに出発してしまう。</p>
<p>というわけで、作品の出来については、案の定というべきか、疑問符がつきまくる結果であった。それでも、まあ、アニメの名作を正面からリメイクに挑戦すること自体は、けっして悪いことではない。こうなったらもう、つぎは『機動戦士ガンダム』の実写版しかあるまい。</p>
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		<title>映画『借りぐらしのアリエッティ』</title>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 01:00:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[ジブリ]]></category>
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		<category><![CDATA[床下の小人たち]]></category>
		<category><![CDATA[米林宏昌]]></category>

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		<description><![CDATA[ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。 ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。</p>
<p>ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意見である。</p>
<p>正直にいって特別な新味があるわけではない。ないのではあるが、昨今の多くの子ども向け作品のように安易に「魔法」に頼ったりすることなく、とにかく実直に登場人物の心情を表現することに心を砕いていた。心情を描くうえでは、たとえば人物の表情やしぐさだけではなく、草花や雨や物音など、映画的なさまざまな表象の描き方を駆使する必要があるし、ショットとショットのつなぎ方にも、工夫が必要だ。こうした点にかんしては、どれも類型的な描き方であるとはいえ、まずまず成功していたといえる。</p>
<p></p>
<p>しかし物語の語り方がぎこちない。前半はひじょうにまどろっこしい。ディテールを見せたいのはわかるが、話のほうがなかなか見えてこない。中盤以降は一転して話を急ぎすぎる。展開を語るのに忙しく、また場面の描写が不足するぶんを台詞で補うので、芝居というより説明がちになってしまう。アリエッティの母やスピラーなどは、ほとんど話を展開させる都合上登場したとしかおもえない扱われ方だ。結果として、少年にせよアリエッティにせよ、かれらがなぜ成長するのか、その内面の変化のポイントがよくわからない。</p>
<p>いろいろと見せてくれる凝ったディテールを、もっと物語にからめて活かしたほうが、物語がくっきりと立ったのではないか。たとえば髪をとめるクリップやまち針などは、重要なアイテムなのだから、やはりきちんと伏線を張るべきだとおもう。</p>
<p>原作『床下の小人たち』については、ぼくは未読だが、《あ》は子ども時代からの筋金入りの愛読者。彼女の感想は、いまひとつのれなかった、というものだった。原作でおもしろかったのは小人たちの生活のディテールだった。たしかに映画でもそこを重点的に描いているのだが、ディテールを扱うスタンスがちがい、ただの舞台設定に退いていた。そこが駄目だったという。なかなか手厳しい。</p>
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		<title>映画『樺太1945年夏 氷雪の門』</title>
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		<pubDate>Sun, 01 Aug 2010 02:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
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		<category><![CDATA[真岡郵便電信局事件]]></category>
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		<description><![CDATA[太平洋戦争の末期、というより、日本のポツダム宣言受諾後も継続した日ソ戦の主戦場のひとつ、樺太のたたかい。8月15日をすぎてもソ連軍は南下をつづけた。樺太南部西海岸にあった真岡では、ソ連艦隊による艦砲射撃がくわえられ、さら [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>太平洋戦争の末期、というより、日本のポツダム宣言受諾後も継続した日ソ戦の主戦場のひとつ、樺太のたたかい。8月15日をすぎてもソ連軍は南下をつづけた。樺太南部西海岸にあった真岡では、ソ連艦隊による艦砲射撃がくわえられ、さらにソ連軍が上陸し、町中が混乱に陥った。真岡郵便電信局で電話交換業務をおこなっていた女性（10代から20代）9名は逃げ場をなくし、捕虜となることを怖れ、ついには自決を余儀なくされた。その史実を題材に撮られた作品だ。1974年に完成しながら、当時のソ連の圧力によってお蔵入りになっていたという。</p>
<p>物語は、いってみれば「ひめゆりの塔」の北方版である。</p>
<p>沖縄戦を舞台にした「ひめゆりの塔」の史実は（善し悪しはともかく）戦後民主主義的な「反戦」の象徴としての物語と位置づけられ、くりかえし映画化されてきた。対照的に、おなじくうら若い「乙女」たちが無情にも戦火のなかでみずから命を絶たざるをえなかった真岡郵便電信局事件のほうは、必ずしもひろく知られてはこなかった。それを踏まえたうえで、もうひとつの「ひめゆりの塔」として受容されることを期待したつくりが、本作品には与えられている。</p>
<p></p>
<p>したがって、物語構造としては典型的な悲劇の戦争メロドラマだ。</p>
<p>「ひめゆりの塔」がそうであるように、戦争を庶民の──つまり一見戦争に直接の責任をもたない民衆の視点から描く。そこでは戦争は、突如上から降ってきて一方的に庶民の生活を破壊するものと描かれる。この作品でもソ連軍は、つねに戦闘機や軍艦や戦車といった巨大な戦争機械として表象されている（この映画に登場する戦車部隊はなぜか歩兵を一切随伴していない）。上陸してきたソ連兵は、日本人と見るや戦闘員非戦闘員・女子どもであろうが見境なし問答無用に機関銃をぶっぱなし、日本人を皆殺しにするような存在である。それは、昔のSF映画に登場する地球を侵略する謎の宇宙人や、あるいは「鬼」と同じように、徹底した他者として描かれる。</p>
<p>もちろん、現実のソ連の対日戦において、当時のソ連軍が戦時国際法に照らして明らかに非合理的な行動をとったことは史実であるらしい。当時も、そしてこの映画が製作された冷戦体制下においても、ソ連はたんなる敵というだけではなく、理解不能な野蛮という他者として疎遠な存在に感じられていただろう。</p>
<p>物語では、苛酷な運命のなかでも職務に忠実でありつづけた「乙女」たちが、みずからの前途への望みを諦めたわけではないにもかかわらず、それでも死を選ばざるをえなかった無念さが強調される。戦争の悲劇性を訴えようという意図があらわしているつもりだろう。</p>
<p>だが同時にその視点は、日本人をあくまで被害者としてのみとらえようとする。しかし戦争の被害者であったのは、ひとり日本人だけではない。そこにいたるけっして短くはない歳月のあいだ、アジアから太平洋にいたる各所において、日本軍の侵攻が、さまざまな社会において無数の「悲劇の乙女」たちをうんでいたであろうこともまた、わたしたちは知っておくべきだろう。その点においてこの作品は、戦後日本の戦争映画の典型的な枠組みの範疇をでるものとはいいにくい。</p>
<p>なお、本作品では電話交換という仕事の重要さがひとつの鍵となる。ケータイの発達した現代からは想像しにくいかもしれないが、当時電話をかけるためにはまず交換手につなぎ、相手を呼びだしてつないでもらう必要があった。イーストウッドの『チェンジリング』にも電話交換の仕事場が登場するが、本作品でもその装置や業務の具体がかなりていねいに再現されている。</p>
<p>また、「乙女」たちが電話交換業務の専門家である点も重要だ。作中で彼女たちが緊急疎開を拒む理由のひとつに、専門家としての矜持があることが示される。当時電話交換手は女性が就くことの許された数少ない専門職のひとつだった。</p>
<p>数年前に発見されたフィルムを、当時助監督だった新城卓氏が中心となってデジタル修復して公開にこぎ着けたそうだ。色はところどころ退色し、ディテールがつぶれてしまっている箇所もあるが、それはやむをえまい。上映もデジタル。冒頭に書いたような事情による当初予定から36年ぶりの劇場公開であり、主要スタッフは軒並み物故者となっている。その事実にも慄然とさせられる。</p>
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		<title>映画『トイ・ストーリー3』</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 02:49:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
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		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[クマのプーさん]]></category>
		<category><![CDATA[ディズニー]]></category>
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		<category><![CDATA[ミルン]]></category>
		<category><![CDATA[映画]]></category>
		<category><![CDATA[石井桃子]]></category>

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		<description><![CDATA[「トイ・ストーリー」シリーズの最終回（？）の主題は、成長と別離だ。 子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「トイ・ストーリー」シリーズの最終回（？）の主題は、成長と別離だ。</p>
<p>子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離はアメリカの現代文学がくりかえし描いてきた主題であり、ハリウッドでも若者向け作品を中心にやはり同様に反復されてきた。この主題にピクサーがどう挑戦するかが、本作品の見どころである。</p>
<p>結論を喩えていえば、一勝一敗といったところか。まず一勝のほうから。</p>
<p>主人公の人形は、大学入学を控えるまでに成長した持主の少年と、いよいよ別離を覚悟しなければならない時期をむかえることになった、という設定から物語が始まる。わかれたくない、一緒にいたい、という気持ちと、しかしそこにはじぶんたちの居場所はないという現実とのあいだで、少年も、おもちゃたちも、それぞれが烈しく揺れ動く。おもちゃと子どもとは、もとより棲む世界が異なっている。おもちゃはいつまでもおもちゃであるが、子どもはやがて大人になる。両者の蜜月はいつか終わる。それをそれぞれの仕方で受け容れることが、つぎのステップへつながる。</p>
<p>その意味でこの作品は、ウィニー・ザ・プーの変奏、もしくはリベンジである。</p>
<p></p>
<p>1977年のディズニー長編アニメーション映画『くまのプーさん』（より正しくいえば、短編もしくは中編のプログラムピクチャー数編を再編集してつくられた長編）では、クリストファーとプーたちとを、成長や別離とは無縁の、いつまでも誰もがずっと同じ状態でいつづけられるおとぎの世界に幽閉している。</p>
<p>このときすでにウォルト・ディズニーは亡くなっていたが、大人になることを根本から拒絶した「ネバーランド」的世界にとどまる志向性は、まさにかれの精神そのものだといえる。</p>
<p>ディズニーにとって、大人になることは汚れて駄目になることであり、子どもは純粋で無垢の存在だ。だから誰もがいつまでも子どものままでいられる世界を、アニメーションや、その三次元的展開であるテーマパークに実現しようとした。クリストファーとプーの物語もまちがいなくその精神によって構築されている。そのことは、その後にディズニーが山ほど製作したテレビアニメ版や人形劇版でも、そうした物語や設定をけっして持ち込まないことでも確認できる。むろんプーの名を冠せられたディズニーランドのアトラクションも同様だ。</p>
<p>別言すれば、ディズニーはクリストファーとプーの物語を直視することに堪えられなかった、ということもできるかもしれない。</p>
<p>というのは、これとは似て非なる思想にあるのがミルンの原作だからだ（以前に学生に訊いたら大半が原作を読んでいなかった）。『プー横町にたった家』の、あのすばらしいエンディングから感得されるのは、成長と別離にかかわる、苦みの利いた甘さ、もしくは甘さの利いた苦みにほかならない。そこにあるのは、別離のつらさを回避することではなく、ぼくたちにできることは、つらさとともに別離を受け容れるしか道はないのだと知ることであり、それと引き換えることによってのみ、ぼくたちはつぎの段階へと歩を進めることができるのだという覚悟である。</p>
<p>だからミルンにおいて、プーやコブタの棲む百町森は、子どもの世界のなかにのみ存在することで、大人たちの土台となるべきものであり、それを読書という形をとおして受け継がれるものと意識されている。これにたいしてディズニーは、それをフィルムのなかに凝結して閉じ込めてしまい、さらにそれに厭きたらずディズニーランドにも幽閉し、ひたすらに反復可能な状態におく。別離という現実を排除することで、いつまでも砂糖菓子のような世界にとどまることを強引に実現するのである。</p>
<p>しかし成長と別離とは、誰であれ必ず経験されなければならない課題である。</p>
<p>したがって今回の作品は、いまやディズニーの中核となったピクサーが、かつてディズニーがけっして目を向けようとしなかった「現実」に、あらためて挑戦しようとしたと理解することもできる。その姿勢そのものが、ひとつの成長を示しているということができるだろう。</p>
<p>さて、つぎは一敗だ。</p>
<p>それは、あまりにも単純な物語構造にある。楽園であるべき場所を牢獄に変えてしまっている「悪」を、けっきょくは一個の邪悪な精神に還元してしまっている。悪は悪として描かれるだけで、それを悪とみなす視点はまったく射程に入っていない。</p>
<p>もちろんその主要因は、この作品が、つねに確実なヒットを要請されているという米国的アニメーション映画の宿命にあるのだということはわかる。だがこの作品は、みずからの成長を示す契機なのだとすれば、みずからを縛っている枠組みそのものにもどこかで挑戦する必要があるだろう。それを回避するのなら、けっきょくは枠組みの再生産とその強化でしかない。</p>
<p>そしてそのような姿勢こそが、主たる観客である子どもたちの理解力を根本において信用していないことを意味してしまっていると気づくべきだろう。かれらの成長に賭けるという姿勢を物語構造そのものに持たせることができていたなら、ディズニー／ピクサーの成長がほんとうに実現できていたかもしれない。</p>
<p>なお本編に先だって上映される短編 &#8220;Day and Night&#8221; は、すばらしいアイディア。技術と表現と精神とが不可分であることを、あらためて教えてくれる。</p>
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