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映画『アリス・イン・ワンダーランド』

109分間、存分に味わうことができる。焼け跡を眺めているような気分を。

スクリーンを徘徊するのは、高度な映像技術ばかり。アリスの物語のwonderな部分をとことん陳腐に解釈し、よくある魔法世界の冒険活劇に矮小化しただけだ。アリスであることの必然性などどこにもない。派手なVFXとは裏腹に、設定も人物も物語も手垢まみれだ。

「実在」にたいするおどろくほどナイーヴな世界観が、この物語の脆弱な土台をなしている。アリスの「成長」とは、彼女にとってなんら必然性のみえない者を、正義の名の下に殺すことだ。その手の構図は、もうすっかり乗り越えられたのだとばかり思っていたのだけどねえ。剣を手にした瞬間に彼女の唇にうかぶ笑みは、もう立派な殺戮者のそれである。

アリスの「優秀さ」を示すものとして描かれるエピソードも、ナイーヴさの度合いにおいては負けていない。たんなる帝国主義の尖兵でしかないからだ。その彼女が次に搾取におもむこうとする先は、どこあろう中国である。

むしろ21世紀におけるウォルト・ディズニー・カンパニーの欲望がもっとも端的かつナイーヴに表現された作品というべきであろう。


映画『インビクタス/負けざる者たち』

2月は税金の季節。確定申告の終わった足で映画館へ向かった。2月半ばというのに、なんと年が明けて初めての映画館だ。観たのはクリント・イーストウッド監督の新作『インビクタス』。けっこうお客さんあり。

国民統合のためにスポーツ(このばあいはラグビー)とメディア(おもに新聞とテレビ中継)が最大限に活用される過程が描かれる。メディアイベント論の教科書のような作品である。

一般的な映画通的見方としては、イーストウッドの一連の作品と関連づけ、その政治的主張を深読みするかもしれない。対立、戦争の告発から、自己犠牲、そして異なる文化どうしの和解、そのために寛容な心をもつこと、などというように。スポーツはそのためのメディアである。スポーツは戦争と似ているが、違いもある。どれだけたたかっても、スポーツではふつう死者は出ない。SAAのジャンボ機のエピソードは、むろん9.11を連想させるわけだが、ここでも破滅をちらつかせつつ、そこへは足を踏み入れない分別をみせる。

演出はいつものように淡々とし、地に足ついて手堅い。しかし、一度どん底に落ちたチームに新しいコーチがやってきたあと、かれらがチームを立て直す過程がまったく描かれない。そのためモーガン・フリーマン演じるマンデラ大統領の万能感がやたらに際だってしまう。実際のマンデラは立派なひとなのだろうが、作品としては全体に英雄譚の色彩が濃く、やや白け気味ではある。英雄を演じるフリーマン自身は、もう気合い入りまくり。もともとフリーマンが持ち込んだ企画らしいから、むべなるかな。マット・デイモンも好演。

このお話は15年前に南アフリカでおこなわれたラグビーのワールドカップ大会での実話がベースになっているらしい。いうまでもなく今年はサッカーのワールドカップ・イヤー。同じ南アでひらかれる。当然それを意識した企画であろう。

それにつけても、この邦題はなんとかならないものか。


映画『よなよなペンギン』

マッドハウス製作、りんたろう監督の新作。製作費15億というから日本映画としては大作だが、作品の柄としては小品である。

テレビ番組の劇場版でもう一儲けという企画だらけの日本のアニメーション映画界にあって、マッドハウスはときおりオリジナル企画をぶつけてくる(ただし作品の質はさまざま)。この姿勢はもっと評価されるべきである。

本作品はフルCGの意欲作だ。主人公はじめキャラクターのデザインがかわいらしく、設定などにも工夫が見られるが、全体としてはいまひとつ膨らんでいかないまま終わってしまう。前半は部分的にすばらしいシークエンスもあるとはいえ全体としては退屈であり、後半の活劇にいたってはかなり萎む。

なによりも問題なのは、主題と物語が凡庸であることだ。プロットが類型的でシンプルなのはかまわないが、それを厚くふくらませることができていない。

登場人物の動きぶりやカメラの動きは、いかにもCGがんばってますといった趣である。しかしそうした運動はただそれだけにとどまり、物語に絡むことはほとんどない。いたってまっとうな──逆にいえば意外性に乏しい──ピクサーのCG作品のショット構成とは異なり、ロングショットが多い。ちょっと人形アニメーションふうの味わいだ。それを活かす術があれば、なおよかったのだけれど。

エンディングはタイトルバックも音楽も工夫があって愉しい。前の座席にいた小学生くらいの姉妹が踊りだし、「アミーゴ!」と叫んだ。


映画『アバター』

ジェームズ・キャメロン監督12年ぶりの新作。全体に『ターミネーター1/2』のころに戻ったかのようなSFアクション仕立てである。鮮明な3Dかつ全篇CGつかいまくりであるうえ、物語も細部にまで神経がゆきわたっており、じつによくできた娯楽大作だ。2時間半以上の上映時間を十分に愉しむことができる。ただし、そうでありながらも、そこはキャメロン作品。思わせぶりでありながら底の浅さが見えてしまい、どこか釈然としない居心地わるさが残る。

その要因は主として、物語の背後に見え隠れする認識や考え方にある。

物語の構築については、定型的でシンプルなプロットに厚みのあるエピソード記述をかぶせるという正攻法的手法が採用されており、その点では見事である。

設定や主題は『風の谷のナウシカ』(映画版のほう)のキャメロン流解釈という感じだ。破壊し尽くされた地球から溢れでた人類と、かれらによって侵略されつつある惑星パンドラの原住民ナヴィ族とがあわせ鏡という関係にある。両者は今日のわたしたち人類の善良さと悪徳という二つの側面をあらわしている。前者が環境を破壊し他者を侵略してその持ち物を略奪するのにたいして、後者は一見原始的にみえながらそのじつ自然と調和一体化した理念的存在である。

そして、ともあれパンドラの中核は人類の侵略から防衛されることになり、もともとは人類の側の周縁的な立場にいながらナヴィの側に立つことになった主人公のアバターが、最終的にナヴィそのものへと転生してゆく。これは、人類の再生というモティーフだと指摘することもでき、その意味ではいちおう文明批評を匂わせつつも肯定的なニュアンスをともないながら物語を収めようとしていると理解できるだろう。

さて、本作品が根本において孕む限界とは、こうした現代の神話ともいえるような主題を提示してみせる態度が、けっきょくはただの格好つけでしかないことにある。キャメロンがこの主題について、さほど真剣に考えているわけではないとうけとらざるをえない箇所が散見されてしまうのである。

プロット上の主軸は、主人公たちの達成感が、そのままパンドラを守り通した安堵感へ横滑りさせるところにある。しかしそれは詐術だ。かれらが排撃したのは、たんに出先の一部隊でしかない。かれらの「活躍」が人類の側に何かを気づかせたような形跡もない。つまり事態はなんら根本的な解決を見ていないのだ。ということは、人類にとってパンドラは略奪されるのを待っている宝物殿であるという認識に変更はなく、かれらが万端の準備を整えたうえで再攻略に到来する日はそう遠くはないだろう。近代的な武力においてナヴィは人類に対抗できない以上、パンドラの破滅はたんに先送りされただけにすぎない。こうした設定は、あるいは続編製作を見込んでのものかと勘ぐりたくもなる。

細かい設定や描写のレベルでも同様だ。人類のあり方の理想像を投影されているナヴィの主要人物は、あらかじめ英語を解する(いちおうそれを妥当化するための状況説明がなされはする)。ナヴィの自然との一体化という「理想」のイメージも底が知れている。動物やら植物やらといった環境は、けっきょくは人間(ナヴィとは理念的な人間である)の能力をより強力に拡張するための諸資源としてしかとらえられず、その能力を徹底的に動員され、人間の思いどおりに操られる道具として描かれている。

自己の文化に都合のよい形でしか他者を想像・表象できない。にもかかわらず、これを押し隠して恰好をつける。これがキャメロン的なものの限界である。キャメロンだけに固有の問題ではあるまい。


映画『バッタ君町に行く』

アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。

まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代(1941年公開)の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている(日本の「アニメ」の大半は(全部ではない)、もうこのことを忘れてしまっている)。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。

動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。

物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。

したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。

その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。

ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。

今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。

なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。


映画『キャピタリズム マネーは踊る』

マイケル・ムーア監督が資本主義の本丸に乗り込む! というような勇ましいコピーに「踊らされ」日比谷まで足を運んだ。観客の多くは中高年男性であった。だがぼくとしては、とりあえず大学生こそぜひ鑑賞したほうがいいようにおもう。かれらがこの先剥きだしでさらされつつ生き延びてゆかねばならない社会とは、つまりはこういう社会なのだから。

「本丸」というのは米国のグリードたち、つまりウォール街を牛耳る大手のグローバル金融機関である。強欲に強欲を重ねるかれらは、市井の、相対的に立場の弱いひとたちを徹底的に絞りあげ、当事者にも仕組みが説明できないほどすばらしくややこしい金融商品を開発してはリスクを先送りにし、本来は社会的に分配されるはずの富を独占してゆく。じぶんのカネだけでなく、ひとのカネをも愛そうとしている。それが資本主義暴走の源だ、という明快な主張が貫かれる。

その論拠としてさまざまな実例が示される。銀行に担保としてさしだしたため自宅を出なければならないひと。武装した保安官が明け渡しの執行にやって来る。玄関をあけなければ斧で叩きあけられ、戸外へ出るよう促される。ある日突然解雇を申しわたされるホームセンターの社員たちの姿も映される。かれらは相応の補償を求めて店に立てこもり始める。パイロットの年収が1-2万ドルにすぎないという事実にもおどろかされる。もともと周縁的な立場の者がさらに追いやられているだけでなく、中間層がやせ細っているのだ。じつは、すべてを独占する富裕層は米国社会全体の1%でしかないという。かれらは自身のことを21世紀社会に生まれた新貴族と見なしたがってさえいるという。

では搾取されつづける99%のひとびとは、1%の富の独占者たちに、なぜ不満をぶつけないのか。それは、努力を続けてさえいればいつかその1%の仲間に入れるかもしれないという淡い期待があるからだという考えが示される。いわゆる「アメリカン・ドリーム」というやつだ。もちろんそのようなことは事実上ありえない空手形にすぎない。1%は誰にでも開かれているという建前になっているが、機会の平等が保証されているわけではないからだ。だからアメリカン・ドリームは、99%にとってドリームであると同時に、そこに到達できなかった者として無能の烙印を押す閻魔大王のようなものである。アメリカン・ドリームなどただの夢幻でしかない。だから、新貴族がもっとも怖れているのは、民主主義の発動である。99%だろうが1%だろうが、そこでは同じ1票を行使する権利を有しているのだから。

作品は例によってムーア監督自身のナレーションに沿って展開してゆく。あたかもムーア自身の調査や思考の過程を一緒に追体験しているかのような気持ちにさせられる。ムーアの主張は明快でそれが隠されることもない。こうしたスタンスは、ムーア作品に共通するものであり、作品にわかりやすさを与えることに貢献している。と同時に、物事をともすれば実体以上に簡単な構図に落とし込むという面があることも否定できない。

たとえば、ムーアが提示するオルタナティヴだ。それは穏健な資本主義の実現であり、それを基盤とした市民社会である。その考え方は、作品中にも予防線が張られているように、それは米国社会がほとんど反射的に嫌悪する社会主義に近い。度をこした資本主義は、けっきょくすべてを荒廃させる。たしかにそのとおりだ。

だが歴史が教えていることは、にもかかわらず、資本主義は過熱し暴走し、社会と多くの人生を暴力的に傷つけることをくりかえしてきたという事実である。資本主義の歴史とはバブルへいたる過程とその崩壊の反復だ。その波のなかでわたしたちは性懲りもなく、振り落とされてはまた踊ることをくりかえしている。

その原因は、わたしたちがたんに歴史から学ぶ謙虚さを忘れがちであることだけにあるのだろうか。ちがう。それは資本主義のメカニズムそのものに根ざしてもいる。資本主義の原動力は「欲望」だ。欲望が欲望を生むしかけはそれ自体が過熱すれば異常とよばざるをえないが、しかし欲望をもつこと自体をただちに不健全だと断罪はできまい。ムーアは、欲望に取り憑かれた「本丸」を糾弾し、その欲望を一定程度抑圧せよという。それは妥当な理念であろうが、しかしはたしてその先に具体的な方図が見出せるのか。

むしろこの作品の美徳とよべるのは、こうした話題をNHKやBBCのつくる番組のようにしたり顔で語ってみせるのではなく、とことん娯楽として愉しめる形に仕上がっている点であろう。それは、ラストのシークエンスに顕在するような批判性に裏打ちされたユーモアの感覚や、ムーア自身がその巨体を揺すらせて実際にアタックしてみせるその「運動」の確からしさによって支えられている。


映画『カールじいさんの空飛ぶ家』

煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。

この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則としてアニメーションだけで描ききる。その手際のよさだけでも観るに値する作品である。毎回いうのだが、かれらが映画とアニメーションをどれほど勉強しているかを端的に示しているからだ。

けれども、そこに続いて展開される物語の本体のほうには、特段すぐれた点を見出すことはむずかしい。はっきりいえば凡庸の域を出ない。もちろんそこは安心のルクソー印。夢とスリルと冒険の詰まった成長譚として、多少の破綻はみられるものの、いつもながら、ていねいにつくられている。

成長譚として興味深いのは、成長するのがひとりではない点である。それは空飛ぶ家に「味方」としてかかわったすべての関係者がそうであり、当然75歳のカールじいさんも含まれていることである。すでに長い人生経験をもつ人物が成長するという意味では、『クリスマス・キャロル』的だともいえなくもない。いずれにせよ、ここに登場する人物や動物は、何らかの欠落をかかえて社会的に周縁に追いやられたひとびとであって、そうしたところに焦点をあわせる視点が児童文学の常道であることも想起されてよいだろう。ピクサーはその伝統とメソッドをきっちり踏襲している。それが手堅い物語構築をもたらす土台になっている。今回は手堅すぎたというか、もうひとつアイディアが足りなかったようにおもわれる。

とはいえ全体は活劇仕立てとしてしっかりつくられているから、誰でも安心して手に汗にぎって鑑賞していられるだろう。巨大飛行船や、無数の風船をくくりつけて雲間を飛んでゆく家のイメージに、ラピュタやハウルの影を読み込むことも、そうしたければ、いくらでも可能だ。

ぼくが観たのはピクサー初という3Dの字幕版。昔の立体映画やら以前に存在したディズニーランドのアトラクションと同様、受付時にわたされる『サンダーバード』のブレインズみたいなゴツいフレームの専用眼鏡をかけて観る。ぼくのようにふだんから眼鏡をかけている人間にとって、二重に眼鏡をかけなければならないのは、けっこう難儀である。3D代として300円が上乗せ徴収されるが、出費に見あう効果が得られるかどうかは微妙といわねばなるまい。

本編上映前に短編が併映される。いつもながらサイレント仕立ての小品で、物語としてもよくできている。


映画『こまどり姉妹がやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』

こまどり姉妹を追ったドキュメンタリー。古くから活躍する二人組の女性演歌歌手である、という以上の知識をほとんどもたないまま観た。

実の姉妹である二人の語る一代記がそのまま物語となる。1938年北海道生まれ。戦時中は樺太に渡っていたこともある。その後の人生はじつに紆余曲折。食うや食わずの生活、山谷暮らし、浅草での流し、デビューとヒット、紅白に数年続けて出演して絶頂をきわめた矢先、妹がファンに刺されて大けが、さらに癌にも襲われ闘病生活に入る。人気は一気に凋落してどん底に。ムード歌謡への路線転換をはかったりと迷走する。追い打ちをかけるように父母が亡くなり、姉は未婚の母となる。──なんとも浮き沈みの烈しいジェットコースター人生である。

しかし、なかなかに壮絶なそうした半生を、いまや70を越えた老姉妹は笑い飛ばしてみせる。そのしたたかさと逞しさが、この作品をカラッと乾いたユーモアでくるんでいる。

現在彼女たちはおもに各地の健康センターなどをまわって公演をしているらしい。「よく見えますか、厚塗り」などと言いながら会場をまわって中高年男性たちと握手してまわる。背中の帯の結び目には客からのご祝儀として万札が何枚も差しこまれてゆく。その姉妹の姿は、さながらアンギラスのごとし。

映像は、古い記録映画や彼女たちの出演映画やテレビ番組、スティール写真、インタヴュー、公演のようすなどで構成されている。演出はテンポがよい。昨今のこの種の映画にありがちなあざとさもない。タイトルのみならずタイトルバックも秀逸だ。

製作はアルタミラピクチャーズである。ここはフジテレビと組んだ若者向け大作映画で儲けるかたわら、昭和歌謡曲史やフォークを題材にしたドキュメンタリーをこつこつ撮っている。こうした姿に、こまどり姉妹的なしたたかさと逞しさを見出すこともできよう。その姿勢はもっと評価されてよいのではないか。


映画『サディスティック・ミカ・バンド』

2007年の木村カエラ版ミカ・バンドのドキュメンタリー。すでに昨年DVDが発売されているが、大スクリーンで観るに越したことはない。シネカノン有楽町1丁目で、夜一回だけ上映中。加藤和彦追悼ということで、かれの音源を持参すれば割引になる。

演奏を見せ音楽を聴かせるだけではない。50-60代を迎えたミカ・バンドの面々たちの語る言葉が、存外ていねいに拾われている。そこが、よくあるコンサート中継番組と大きく異なる点だ。一夜のコンサートの記録ではなく、サディスティック・ミカ・バンドという現象を相手どろうとしていると理解すべきである。全体につくり手がでしゃばることなく、また商業主義に迎合するのでもなく、地道におじさんロッカーたちにアプローチしようとしている姿勢に好感がもてる。

加藤和彦が亡くなった直後にあらわれた追悼記事や番組は、もっぱらフォークルに焦点をあてていたようにおもわれる。ミカ・バンドや80年代ヨーロピアン・デカダン路線のソロアルバムなどは刺身のつま的な扱いである。その態度は、生涯をロックのひととして生きようとした加藤和彦の革新性や過激さをひどく稀薄化してしまっている。追悼企画のあり方として、今回のようなもののほうが好ましい。

ロラン・バルトの言ではないが、いまとなっては、もう涙なくしては観られない。この夜の観客は、ぼくを含めて6人だった。


映画『イングロリアス・バスターズ』

クエンティン・タランティーノ監督の新作。任侠+冒険活劇+戦争映画といった趣である。

主役はブラッド・ピットということになっているが、実際にはストーリーラインは三本が併走しており、ピットはそのうちの一本の中心人物という役まわり。残りの二本は、メラニー・ロラン演じるユダヤ人の娘と、クリストフ・ヴァルツ演じるナチのSS大佐(ユダヤ人ハンターの異名をとる)。ピットはむやみにすごむばかりであまり動かないが、あとの二人はたいへんすばらしい。

戦争映画ではナチス側が高慢・粗野・無教養・暴力的と相場が決まっているが、本作品では裏返しに描かれる。ヴァルツの、紳士的な物腰でありながら、真綿で首を絞めるようにして相手を追い詰めてゆくさまはじつに見ごたえがある。いっぽうピット演じる米軍中尉は、ナチス・バスターズの頭目としてむやみやたらと殺戮をくりかえし、殺したナチの頭の皮を、まるで武士の月代のような形に剥ぐ。

これら三本のラインは終盤にパリの映画館でややこしく合流することになる。ただし、ロランとヴァルツの線が冒頭から終始絡みあいつづけるのにたいして、ピットの線は最後までほぼ併走しっぱなしで、物語をうまく膨らませるのにいまひとつ寄与しきれていない。かなり大胆な歴史解釈(といえるかどうかはともかく)があって、観る者を驚愕させはする。

そこで大きな役割をはたすのは、映画自身である。いろんな映画のオマージュやらコラージュやらというような意味ではなく(そういう話も好むひとは好むだろう)、物語上はっきりと、映画によって世界が破滅から救われるのだ。

多くのシネフィルにとって、ここが最大のツボだ。もうたまらない。劇場で売られているパンフレットに掲載されているドイツ映画研究家の瀬川裕司さんの解説でも(これは勉強になります)、朝日新聞紙上の北小路隆志さんの評でも、異口同音に、これは映画の勝利であるという趣旨のことを述べておられる。まったくそのとおりだと、ぼくもおもう。

ところが、そうであるにもかかわらず、後味はあまりよいとはいえない。冒険活劇ではあるかもしれないが、そうしたタイプの作品が約束してくれる、観終わってスカッと解放されるようなカタルシスとは無縁である。むしろ反対に、なんともいえず陰鬱な気持ちにさせられる。物事は根本的には何も解決せず、せいぜい抗ってみせた痕跡が残されるだけ、なのだ。

それをタランティーノの失敗というような水準で語るのは必ずしも適切ではあるまい。活劇をとことん志向しながら、結果としてカタルシスに到達しえないことにこそ、今日的なリアリティがあると考えるべきなのかもしれない。カタルシスとは、いってみれば一種の安全弁でしかないのだから。


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