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メディア論的に考える Archive

経験の量

高校サッカーの決勝戦を観た。といってもテレビ観戦だ。

子どもたちは千葉生まれ千葉育ちの千葉っ子だし、《みの》など同年代なので、とうぜん市立船橋高校を烈しく応援する。最後に延長戦後半に市船が勝ち越しを決めたときは、《みの》と《なな》はひじょうによろこんだ。市船、優勝おめでとう。

ぼくもサッカーの試合を観るのは好きだ。ところが、これが難しい。潮目というか流れというか構図というか、そういうものがまったく読めないのだ。

サッカーの試合とはもともと流動的な性質のものなので、そこに由来する部分も大きいのかもしれない。しかし世の中にはそれでも試合の流れをきちんと読めるひとも少なくない。

したがって、これは基本的にはぼく自身の問題である。何よりもサッカーの試合を観たり実際にやってみたりした経験の絶対量がまるっきり足りないせいだとおもう。

ぼくにとって、それはちょうど映画や書物に接するときと正反対の状態だといえる。映画や書物なら、押さえるべきポイントが見えないというレベルで困ることはないし、それなりに潮目も読める。いいかえれば、構図として抽象化した形で捉えることが(それなりには)できる。少なくとも、皆目見当がつかないというレベルでまごつくことは、まずない。(商売柄それは当然のことなのかもしれないのだが。)

では、映画や書物についてならそれが可能なのは、なぜなのか。知識の蓄えが多いから、ではない。まがりなりにも一般に比べ、それなりの量を観、それなりの量を読んできたからである(それでもまだまったく不足しているのだが)。いちおう編集渡世の経験もある。

ものごとを把握したり理解したりするさいの基盤をなす重要な要素として、経験の量というものは大きな鍵を握っている。

もちろん「経験のないやつは口を出すな」という類の言明のように、経験というものに価値を置きすぎるのは危険であるのだとしても。

サッカー中継を観ながら、あらためて、そんなことを考えた。


年賀状の言葉

年賀状に書き添える挨拶文において「おめでとう」という意味の言葉を忌諱しようという話があるらしい。3.11に関連し、被災したり傷ついたり悲しんだりしたようなひとたちへ「配慮」しようというのが理由だそうだ。

なるほど、そういう考え方もあるだろうとおもう。実際に被災した方々のなかには、「おめでとう」という言葉を口にしたり目にしたりするような気持ちになどとてもなれないというケースもあるだろう。そういうひとびとへの配慮は大切なことであるだろう。

そうした配慮が配慮として成立するのは、では、どんな場合だろうか。基本的には個別に、つまり具体的な相手が想定されているケースではないかとおもう。あるいは、鎮魂・慰霊・怒りなどの理由により賀状発信者の側に「あけましておめでとう」や「謹賀新年」といった類の言葉を忌諱する強い意志があるようなケース。それもまた、ひとつの立場であるといえるだろう。

しかし、ひと口に「配慮」といっても、事情の異なるケースもある。「例年と同じ文言ではマズイ」とばかりに「おめでとう」忌諱現象を盲信するようなばあいは、どうだろうか。

そこにある「配慮」とは、他者にたいするものというより、むしろ自己の立場の防衛に向けられたものであるというべきだろう。どこからも叩かれないように無難な方向に先手を打つことばかりに汲々とし、結果的に自縛を重ねていくような、そんな風潮の一環にあるような気がしないでもない。

どんな言葉も、文脈のなかで初めて意味をもち、機能する。じっさい新年の挨拶でいう「おめでとう」は、新しい年がやってきたことに感謝し、期待をもって迎え入れるという意味であるだろう。再生という意味あいが込められていると考えることさえもできる。それを旧年の厄災にたいする評価につなげて受けとってしまうことがあるとすれば、その解釈の仕方は相当にアクロバティックだといわねばなるまい。

というわけで、わが家では例年どおりに年賀状を作成し、例年どおりに(遅れ気味で)発送します。もし万が一ご気分を害される向きがありましたら、あらかじめお詫び申しあげておきます。


9カ月後の石巻を歩く 2/2

被災したクルマが集められていた。救急車もあった。それぞれの車体には、引きあげた日時がきちんと書き込まれている。震災当日から半年以上もたった日付が記入されている。こういう地味でつらい仕事を、誰かがこつこつとおこなってきたのだと、あらためて知らされる思いがした。

屋根がもげていたり、窓ガラスが割れていたりするものがある。黒焦げになっていたり、ぺしゃんこにつぶれていたりするものもある。いちばん端には、やはり被災したスバル360が一台、ぽつんと置かれていた。

遠くの工場の煙突から、白い煙だか水蒸気だかが猛然と吐きだされていた。

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9カ月後の石巻を歩く 1/2

SSDでのレクチャーの翌日、ひとりで石巻を歩いてきた。東北の、「被災地」とよばれる地域を訪れるのは初めてである。ボランティアや復興支援といった立派なことではまったくない。ただ歩き、ただ見てきた。それだけだ。

雪降る仙台から仙石線に乗った。

途中不通区間があるため、松島海岸駅から矢本駅までは代行バスに乗り換える。バスは仙石線ぞいの国道を走った。乗客は多くはない。大半は地元の方のように見受けられた。黙って雪の車窓に目をやっていた。電車は1時間に2本、バスは1時間に1本。その待ち時間も含めて、仙台から石巻まで2時間半かかけ、到着したのは正午前だった。

石巻も雪がちらついていた。

石巻駅前にピンク色の大きな建物が建っている。市役所である。元はデパートで、撤退後に市役所が入ったのだそうだ。駅前には、キャリーをひきずったスーツの一団(他の行政からの支援だろうか)や、デイパックを背負った一団(ボランティアだろうか)の姿があった。

アーケードのある商店街を歩く。何軒ものお店があって、それぞれお客さんが入って、まずまず賑わっていた。一方で、シャッターを閉じたり、コンパネでウインドーをふさいだ状態の店舗もあった。場所を変えて営業していますという貼り紙や、震災の影響で休業中ですという貼り紙も見かけた。励ましの寄せ書きが張りだされている店もあった。

アーケード街を右に折れて、飲み屋街を歩く。店舗はほとんどが閉まっていた。昼間だから、ある意味では当たり前であるかもしれない。空き店舗のうちいくつかは、支援団体が活動拠点にしているようだった。

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せんだいスクール・オブ・デザイン、レクチャー

東北大学の建築学科が運営している「せんだいスクール・オブ・デザイン」で、明日12月15日(木)の夕方からレクチャーをさせていただきます。

担当するのは「ショッピングと震災」というシリーズのうちの一回。

「セルフサービス」を題材に、身体が機械と縫合されてゆく様相(これをぼくの言葉で「アトラクション」と呼ぶ)と、それがどんな機能や意味をもっているのか、そしてその震災との関係、というようなことを中心にお話しすることになりそうです。


ロードサイド的、郊外的

ロードサイドの風景の写真を撮ってきた。散歩がてらに近所をちょっと歩くと、こうした光景はいくらでも見つかる。というか、似たような風景は日本じゅうの「郊外」にあふれている。

はっきりいって、わざわざ写真を撮りたくなるような風景とは呼びにくい。それが、ふつうの感覚だろう。そのせいなのか、撮影をしていると、道行くひとや自動車で通りすぎるひとたちから「こんなところで何してんだ? このオッサン」的な視線をばしばしと浴びせられる。もうたいがい慣れたのだが。

ロードサイド的というか、郊外的なものについては、20世紀後葉ではもっぱら批判の対象であった。逆に近年では、ここにこそ可能性があると称揚されることが多い。

『アトラクションの日常』で論じたように、ぼくもロードサイド的、郊外的なものの今日的な重要性にあらためて注意を払うべきだと考えている。

ただし、それは、それらを単純な批判や称揚の対象として、つまりそれ自体がもつ価値を直接問題にするというような次元での話ではない。批判は大切だが、それ自体が目的化すれば破滅的になるだけだ。逆に、ただ称揚するのであれば、それは批判の裏返しにすぎない。

ロードサイド的・郊外的なるもののが重要なのは、ひとえにそれが現にわたしたちに与えられた条件、「現実」であり「現在」であるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

そのような地点から出発するからこそ、建設的な展望を拓くことへつながりうるのだとおもう。


ミニマム、シンプル、ファンダメンタル

先日のレクチャーでは、これまで取り組んできたワークショップについて話をした。

やっているワークショップはたくさんある。その中から今回は「デジタル・ストーリーテリング」と「自己紹介ツールを発明する」という二つのワークショップを中心に紹介した。前者は作品のみウェブで公開しているが、後者はほぼ初公開だ。そして、そうした実践的な取り組みから、拙著『アトラクションの日常』へとつながるメディアと身体という問題系をどう見出してきたのか、その道筋を簡単にお話しした。

よく考えてみれば、明学に赴任して以来じぶんがやってきたワークショップの実績をまとまった形で発表したことは、一度もないのだった。かつてのメルプロジェクトの仲間たちであっても、いまのぼくが何をやっているのかは、たぶんよく知らないだろう。

学会のような場所で発表するという手もあるのだが、ぼくの知っている学会は、残念ながらそういうものを受け入れるような空気があるとはいいにくい。もちろんそれでも発表しないよりはしたほうがいいという考え方もあるだろう。だが個人的にあんまり気がすすまないのだから仕方ない。それよりも、目の前の現実にきちんと向きあうことのほうが大切だった。ただ、まとめるなら本にしたいという思いは強くあったし、いまもある。エッセイや論文のなかでとりあげたりはしてきたが、いずれも断片的であった。

だから、ぼくがどんなことをしていて、どんな蓄積があって、そこから何を考えてきたのかということを、まがりなりにも少しはまとまった形で提示できたのは、今回が初めてだった。ぼく自身そんな話をしてみたいという気持ちになることができたのは、それを受け入れてくださるような場を与えてもらったからだった。それが可能だったのは、分野は異なるといえども関心の核心みたいなものが共有されていたからだろう。僥倖であった。感謝します。

参加者の方との討論も活発で刺戟的だった。

「デジタル」というから、よほどテクノロジー中心的な話なのかとおもったら、逆にものすごく生々しく、作り手の学生たちの生の姿が鮮明に浮かびあがっていたのが印象的だったというご意見をいただいた。デジタルであろうがなんであろうが、それこそが「作品」を成り立たせる最初にして最終的な軸である。必死で課題に取り組んだ学生たちが聞いたなら、きっとよろこんだにちがいない。

なぜ「じぶん自身」がテーマなのかという質問もいただいた。たぶん理由は二つある。ひとつは、「自己」なるものをどう捉えどう考えるかは、すべての基礎にあるからである。もうひとつは、ぼくの発想の基礎にあるのが(「放送」ではなく)「映画(ただし物語映画の水準ではない)」だからであろう。

いまぼくが取り組んでいるワークショップはいずれも、ミニマムでシンプル、かつファンダメンタルなものだとおもっている(格好つけていわせてもらえば)。ぼく自身がハンドリングできる範囲を越えないようにしているので、キャッチーなことはできないし、しない。その代わり、その範疇においてはとことん自由で、思いきり創意をこらす。

あくまで大学の授業という枠組みのなかにおいて、目の前にいる学生たちを相手に、お金をかけず(そもそも予算がないのだが)、流行の事象も追わず(そもそもそんな余裕がないのだが)、身のまわりにある最小限の素材と機材でまかないながら(そもそも高価な機材を扱えるような環境にない)、「自己」なるものの声を聴き、そこに向きあい、問いなおす。

主眼は、メディアを使う方や技法の習得、既存のメディア産業の真似事をすることではない(それを否定しているわけではない)。ワークショップの過程をとおして、メディアを考えたり、メディアから、文化や社会について考えたりするような視座を養っていくことだ。そして実際、そんなふうにして、学生たちは成長していってくれている。

同じことは、ぼく自身にとっても当てはまる、何かを教えたり広めたりというよりも、ワークショップの経験で得た疑問や気づきをもう一度メディアの思想的な枠組みにフィードバックさせてみる、というようなスタンスで取り組んでいる。

今回話をしてみて、おもったこと。機会があったら別のワークショップについても話をしたい。そして、より包括的な形できちんとまとめてみたい。

──と書いたところで、そろそろデジタル・ストーリーテリングの授業に出かけなければならない時間になった。


映画と乗り物とコミュニケーション

先日執筆した原稿のなかで、「コミュニケーション」という言葉について、ちょっとだけ触れた。

この言葉は、いまでは、情報や思想を交換する行為やそのための手段や媒体という意味で、一般には理解されているだろう。(媒体のニュアンスがより強調されれば「メディア」と言われたりするかもしれない。)

ところが、このような用法にかんして、ウィリアムズはひじょうに興味深く、かつ重要な指摘をしている。英語のcommunicationは、17世紀末から20世紀前半まで、今日でいうtransportation(物質的運輸)という意味も含んでいたというのだ。

ちなみにcommunicationの原義は「共有すること」である。鑑みるに、この用法が存立しえた基盤には、何かを共有するには物質的な移動が不可避にともなうという認識があったことが示唆される。

裏返していえば、物質的移動なしに何かを共有する仕掛けとして、20世紀的マス・コミュニケーションというものが想像されてきたということでもある。

このような話は、ぼくの思考において、その基盤の一部をになうことになる。つねづね主張していることだが、「メディア」というものを考えるうえで決定的に重要なのは、「映画」と「乗り物」なのだとおもう。


新平湯・夏まつり・白川郷

新平湯の宿に入ったとき、仲居さんから、こう言われた。今晩は夏まつりがあるから夕食後にぜひ行ってみてくださいね、と。

言われたとおり、夕食をすませたあと会場の神社に行ってみた。浴衣姿の観光客が三々五々集まってくるところだった。

たまたま夏まつりの日に行き当たった、というわけではないのだった。この夏まつりは8月じゅう毎晩やっているものらしい。早い話が、観光客を集めるためのイベント。正式には「いで湯まつり・夏」というそうだ。いわゆる「捏造された伝統」というやつである。

では、つまらなかったかといえば、これが、そうでもなかった。なんというか、手作り感いっぱいで、地元なりの工夫とホスピタリティが感じられた。それは予想外に、なかなか愉しいものだった。

演し物は、鶏芸(鶏のとさかみたいなかぶり物をしたひとたちが舞う)、獅子舞、和太鼓。このうち鶏芸は飛騨の伝統芸能であるらしい。あとの二つは、どこにでもあるような「伝統」芸能だ。

おもしろかったのは、そうした事実を隠そうともしないことだった。和太鼓を始めたのは昭和46年(だったかな?)からです、などと司会のひとがしゃべってしまう。太鼓をたたくのは地元の子どもたちだが、かれらの多くは家が旅館関係で、夏休みといえども布団敷きを手伝ったりして、忙しいのだという話もでる。

1時間くらいで演目はひととおり終わった。あとは観光客に太鼓をたたかせてくれるという。うちの子どもたちもさっそく舞台にあがり、ドンドンと2-3発たたいていた。

    *

新平湯の「夏まつり」が、「捏造された伝統」という観光イベントであるにもかかわらず、地元のひとびとの顔が見えるような好ましさを含んでいたのだとすれば、それとは対照的に感じられたのが、翌日に立ち寄った白川郷である。

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引きうけること、まかせること

なんだかあわただしい一週間だった。うち3日間はゼミ合宿。ひじょうに充実したものとなった。ゼミ生たちはよく議論し、よく考え、よく悩み、そしてよく食べてよく飲んだ。足りないのは睡眠くらいであっただろう。密度の濃い3日間だった。これでそれぞれの方向性はある程度かたまった。あとは一歩ずつ進んでいってくれればよい。

昨日は昨日で、いくつか会合があった。そのなかで、こんな話を聞いた。ある学者が最近つぎのような意味のことを書いていた、というのだ。

すなわち、引きうけて意見を述べるのではなく、まかせておいて文句を言うのが「日本人」なのだと。

原典をあたったわけではないので、本当に誰かがこんなことを書いていたのかどうかは確かめていない。でも確かなこともある。それは、誰がいったにせよ、この指摘は卓見だ、ということである。


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