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アトラクションの日常 Archive

せんだいスクール・オブ・デザイン、レクチャー

東北大学の建築学科が運営している「せんだいスクール・オブ・デザイン」で、明日12月15日(木)の夕方からレクチャーをさせていただきます。

担当するのは「ショッピングと震災」というシリーズのうちの一回。

「セルフサービス」を題材に、身体が機械と縫合されてゆく様相(これをぼくの言葉で「アトラクション」と呼ぶ)と、それがどんな機能や意味をもっているのか、そしてその震災との関係、というようなことを中心にお話しすることになりそうです。


ロードサイド的、郊外的

ロードサイドの風景の写真を撮ってきた。散歩がてらに近所をちょっと歩くと、こうした光景はいくらでも見つかる。というか、似たような風景は日本じゅうの「郊外」にあふれている。

はっきりいって、わざわざ写真を撮りたくなるような風景とは呼びにくい。それが、ふつうの感覚だろう。そのせいなのか、撮影をしていると、道行くひとや自動車で通りすぎるひとたちから「こんなところで何してんだ? このオッサン」的な視線をばしばしと浴びせられる。もうたいがい慣れたのだが。

ロードサイド的というか、郊外的なものについては、20世紀後葉ではもっぱら批判の対象であった。逆に近年では、ここにこそ可能性があると称揚されることが多い。

『アトラクションの日常』で論じたように、ぼくもロードサイド的、郊外的なものの今日的な重要性にあらためて注意を払うべきだと考えている。

ただし、それは、それらを単純な批判や称揚の対象として、つまりそれ自体がもつ価値を直接問題にするというような次元での話ではない。批判は大切だが、それ自体が目的化すれば破滅的になるだけだ。逆に、ただ称揚するのであれば、それは批判の裏返しにすぎない。

ロードサイド的・郊外的なるもののが重要なのは、ひとえにそれが現にわたしたちに与えられた条件、「現実」であり「現在」であるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。

そのような地点から出発するからこそ、建設的な展望を拓くことへつながりうるのだとおもう。


ミニマム、シンプル、ファンダメンタル

先日のレクチャーでは、これまで取り組んできたワークショップについて話をした。

やっているワークショップはたくさんある。その中から今回は「デジタル・ストーリーテリング」と「自己紹介ツールを発明する」という二つのワークショップを中心に紹介した。前者は作品のみウェブで公開しているが、後者はほぼ初公開だ。そして、そうした実践的な取り組みから、拙著『アトラクションの日常』へとつながるメディアと身体という問題系をどう見出してきたのか、その道筋を簡単にお話しした。

よく考えてみれば、明学に赴任して以来じぶんがやってきたワークショップの実績をまとまった形で発表したことは、一度もないのだった。かつてのメルプロジェクトの仲間たちであっても、いまのぼくが何をやっているのかは、たぶんよく知らないだろう。

学会のような場所で発表するという手もあるのだが、ぼくの知っている学会は、残念ながらそういうものを受け入れるような空気があるとはいいにくい。もちろんそれでも発表しないよりはしたほうがいいという考え方もあるだろう。だが個人的にあんまり気がすすまないのだから仕方ない。それよりも、目の前の現実にきちんと向きあうことのほうが大切だった。ただ、まとめるなら本にしたいという思いは強くあったし、いまもある。エッセイや論文のなかでとりあげたりはしてきたが、いずれも断片的であった。

だから、ぼくがどんなことをしていて、どんな蓄積があって、そこから何を考えてきたのかということを、まがりなりにも少しはまとまった形で提示できたのは、今回が初めてだった。ぼく自身そんな話をしてみたいという気持ちになることができたのは、それを受け入れてくださるような場を与えてもらったからだった。それが可能だったのは、分野は異なるといえども関心の核心みたいなものが共有されていたからだろう。僥倖であった。感謝します。

参加者の方との討論も活発で刺戟的だった。

「デジタル」というから、よほどテクノロジー中心的な話なのかとおもったら、逆にものすごく生々しく、作り手の学生たちの生の姿が鮮明に浮かびあがっていたのが印象的だったというご意見をいただいた。デジタルであろうがなんであろうが、それこそが「作品」を成り立たせる最初にして最終的な軸である。必死で課題に取り組んだ学生たちが聞いたなら、きっとよろこんだにちがいない。

なぜ「じぶん自身」がテーマなのかという質問もいただいた。たぶん理由は二つある。ひとつは、「自己」なるものをどう捉えどう考えるかは、すべての基礎にあるからである。もうひとつは、ぼくの発想の基礎にあるのが(「放送」ではなく)「映画(ただし物語映画の水準ではない)」だからであろう。

いまぼくが取り組んでいるワークショップはいずれも、ミニマムでシンプル、かつファンダメンタルなものだとおもっている(格好つけていわせてもらえば)。ぼく自身がハンドリングできる範囲を越えないようにしているので、キャッチーなことはできないし、しない。その代わり、その範疇においてはとことん自由で、思いきり創意をこらす。

あくまで大学の授業という枠組みのなかにおいて、目の前にいる学生たちを相手に、お金をかけず(そもそも予算がないのだが)、流行の事象も追わず(そもそもそんな余裕がないのだが)、身のまわりにある最小限の素材と機材でまかないながら(そもそも高価な機材を扱えるような環境にない)、「自己」なるものの声を聴き、そこに向きあい、問いなおす。

主眼は、メディアを使う方や技法の習得、既存のメディア産業の真似事をすることではない(それを否定しているわけではない)。ワークショップの過程をとおして、メディアを考えたり、メディアから、文化や社会について考えたりするような視座を養っていくことだ。そして実際、そんなふうにして、学生たちは成長していってくれている。

同じことは、ぼく自身にとっても当てはまる、何かを教えたり広めたりというよりも、ワークショップの経験で得た疑問や気づきをもう一度メディアの思想的な枠組みにフィードバックさせてみる、というようなスタンスで取り組んでいる。

今回話をしてみて、おもったこと。機会があったら別のワークショップについても話をしたい。そして、より包括的な形できちんとまとめてみたい。

──と書いたところで、そろそろデジタル・ストーリーテリングの授業に出かけなければならない時間になった。


新平湯・夏まつり・白川郷

新平湯の宿に入ったとき、仲居さんから、こう言われた。今晩は夏まつりがあるから夕食後にぜひ行ってみてくださいね、と。

言われたとおり、夕食をすませたあと会場の神社に行ってみた。浴衣姿の観光客が三々五々集まってくるところだった。

たまたま夏まつりの日に行き当たった、というわけではないのだった。この夏まつりは8月じゅう毎晩やっているものらしい。早い話が、観光客を集めるためのイベント。正式には「いで湯まつり・夏」というそうだ。いわゆる「捏造された伝統」というやつである。

では、つまらなかったかといえば、これが、そうでもなかった。なんというか、手作り感いっぱいで、地元なりの工夫とホスピタリティが感じられた。それは予想外に、なかなか愉しいものだった。

演し物は、鶏芸(鶏のとさかみたいなかぶり物をしたひとたちが舞う)、獅子舞、和太鼓。このうち鶏芸は飛騨の伝統芸能であるらしい。あとの二つは、どこにでもあるような「伝統」芸能だ。

おもしろかったのは、そうした事実を隠そうともしないことだった。和太鼓を始めたのは昭和46年(だったかな?)からです、などと司会のひとがしゃべってしまう。太鼓をたたくのは地元の子どもたちだが、かれらの多くは家が旅館関係で、夏休みといえども布団敷きを手伝ったりして、忙しいのだという話もでる。

1時間くらいで演目はひととおり終わった。あとは観光客に太鼓をたたかせてくれるという。うちの子どもたちもさっそく舞台にあがり、ドンドンと2-3発たたいていた。

    *

新平湯の「夏まつり」が、「捏造された伝統」という観光イベントであるにもかかわらず、地元のひとびとの顔が見えるような好ましさを含んでいたのだとすれば、それとは対照的に感じられたのが、翌日に立ち寄った白川郷である。

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テクストを物質として読む

「テクスト講読」という授業をやっている。文系の学部ならどこでもやっている文献講読の授業だ。主として3年生が受講する。今期は登録した学生全員が最後まで走りとおした。なかなかないことである。

じっさい、期末に提出してもらったふりかえりのレポートは、大半がとてもよく書けていた。この学期の勉強で発見したり学んだりしたことを、各自じぶんの言葉で綴っていた。読みごたえがあった。

講読といえば、一般的にはテクストに書かれている内容を教えることが主眼なのかもしれない。だが現状、英語文献をとりあげると、英文読解の授業になってしまう怖れがある。この授業のばあいは日本語文献をつかう。今年の前期のテクストは、石田英敬先生の『自分と未来のつくり方』(岩波ジュニア新書)をまるごとと、ぼくの『アトラクションの日常』(河出書房新社)の第2章「乗りこむ」。

内容に触れることはむろん大切だが、むしろ読み解きの仕方を養うことのほうに力点をおく。概念と論理によって組み立てられた文章をどう読み解くかという仕方を身につけてもらいたいのだ。レジメの切り方や口頭発表の仕方といったような具体的な方法も教える。

大学でやるべきことかどうかについては、いろいろな意見があるかもしれない。でも、これまでのぼくの数年間の経験からいえば、やらないよりは、やったほうがよいとおもう。

学生たちのなかには最初、日本語の読解? というような反応を示す子もいた。母語だし、すでにいろいろ本も読んできた。いまさら? ということらしい。受験国語の技法みたいなものと勘違いしている子もいた。

そういうかれらは、しかし授業が進むにつれて、じぶんが持っていると思っていた読解力が、そのじつどの程度のものだったかをだんだんと自覚していくようになる。そうなってくれれば、成長が期待できる。

というのも、読解力の低い状態を示す典型的な症状のひとつは、その自覚がないことだからだ。読解力は、そのひとの認識や思考の可能的な範囲を枠づける大きな要素である。読解力が低ければ低いほど、そういう状態におかれていること自体を認識しにくくなる。

かれらが一定の読解力をもっていると感じていたのは、日常語を日常の文脈で使用するという水準においての話である。人文社会科学系の、概念と論理で組み立てられたような文章には歯がたたない。日本語文献なので読むだけならいちおう読むことはできる。だがまったく頭に入っていかないのだ。

こういうとき、じぶんの読解力を棚にあげて、文章そのものが堅くてダメなのだと相手のせいにするケースもしばしば見られる。言うのはかまわないが、それではいつまでたっても、この手の文章を読む力はつかない。むろん書くことなどとうていおぼつかない。

じぶんの読解力の水準について知らされることになった学生たちがつぎに気づくのは、これまで文章を読んでいるつもりでいながら、じつは文章をあまりよく読んでいなかったという事実である。

文章そのものよりも、むしろ行間やら「空気」やらを読んでいる。そう、いいかえてもよい。

かれらのいう「読解」は、じつは流し読みに近いものである。かれらのいう「理解」は、その時点でもちあわせている、じぶんの枠組みを再生産したにすぎない。そういうことに気づく。

これにたいして、ぼくの授業が実践するのは、じつに単純なことだ。

行間には文字はない。読むべきものは、まず文字であり、言葉である。そこに何がどのように書いてあるかを、とにかくひたすら読む。そうした当たり前のことを、徹底してやってみる。

こういう態度を、テクストを物質的にとらえていくアプローチとして表現できるかもしれない(書物の物質性と混同されることのないよう)。こうした読み方を身につけつつ、テクストを精読するという経験を重ねていってくれると、うれしい。

もっとも、いつもそんなふうに読んでいたら、くたびれてしまうのだけど。


オールフリーから妄想する

近所の酒屋さんに見たことのないアサヒの糖質ゼロのビール(ビールふう飲料というのか)がおいてあった。糖質ゼロ、アルコール分も4%と低め。1本買って飲んでみた。味は、良くも悪くも、とくに印象に残らなかった。

カロリーゼロなどを売りにしたビールが流行っているようだ。サントリーのオールフリーというのは、アルコールさえ入っていない。ノンアルコールビールというやつ。だったら麦茶にしておけばよさそうなものだが、そうもいかないらしい。

そんな話をうちでしたら、《あ》と子どもたちが、どうせ「オールフリー」と名乗るなら、値段も「フリー」にしたらいいではないかと言いはじめた。なるほど、そりゃそうだ。お代はいらないよ、オールフリーなんだから、といって、どんどん配ってしまえばいい。

もちろん商品をフリーで配っているだけでは、企業はたちまち潰れてしまう。であれば、どうすれば成り立つかを考えてみる必要がある。

そこで、妄想してみた。

飲料のほうはフリーにして配る。そのうえで、こういう活動をする事業体はエライ、ぜひ今後も飲みつづけたい、というひとは製造元に寄附する、という形はとれないものか。

現在一般的な商品経済では、商品やサービスとひきかえに、それに見あった(とされる)対価を支払う(これを「対価方式」とよぼう)。これにたいして、商品への対価ではなく、事業体の活動に共感し、それを支持支援するという意思を寄附として表現するという考え方だ(同じく「寄附方式」とよぼう)。このばあいの事業体は、NPOやNGOなどのように非営利事業という位置づけになるだろう。

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靖国神社みたままつり

朝から気が重い。靖国神社の「みたままつり」に行かなければならないからだ。

ゼミの一環であり、この行事を行き先に選んだのは学生たちである。ネットで検索したら見つかった、ちょうどお祭りをやっているみたいだから、という理由であった。案の定というべきか、学生たちは靖国について何も知らなかった。

10年ほど前、敬愛するある先生から、やはりこの種の無知について聞いたことがある。その無知の状態のところに(当時流行っていた)復古調のナショナリズム言説が注入されると、学生が簡単に感化されて困ると嘆いておられたのだった。

いまのゼミ生のようすをみていると、それとも少しちがう。そのような偏った知識さえもない。修辞ではなく、文字どおり、なんにも知らない。知らないという自覚もないし、知らないことがまずいことだという意識もうすい。無邪気に無知なのだ。

靖国に行きたいと学生たちが言いだしたとき、ぼくはひとつ条件を出した。あらかじめ靖国について勉強していくのなら、ということであった。当然といえば当然の話である。

そして、学生たちの名誉のためにいっておけば、かれらはこの2週間、よく勉強した。本を探し、読み、発表しあい、いくつかのドキュメンターを見た。たかだか2週間の勉強で得られる知識などしれているし、付け焼き刃であることは否めない。じっさい、この問題がじぶんたちにダイレクトにつながっているという感覚をもつことはできていないだろう。それでも、かれらの努力は認められてよいとおもう。

それにまた、無知の責任をすべて学生に押しつけるのはまちがっている。こうした事柄についてかれらに語ることをしてこなかったのは、大人のほうだからだ。見ず語らず考えず。学生たちの無知は、現代の日本の社会のあり方のひとつの帰結である。

いっぽう、無知であることは、靖国神社の側からみれば、好都合でもある。

「みたままつり」を宣伝するポスターをみれば、一目瞭然だ。このポスターは駅構内など都内のあちこちで見ることができる。


引用元:http://www.yasukuni.or.jp/news_detail.php?article_id=0084

ごらんのように、このポスターには、浴衣を着た若い女性がこちらを向いてにっこり微笑む写真が大きくあしらわれている。あたかも、「ねぶた」か「竿燈」のように、観光化された伝統的な夏祭りのひとつであるかのような描かれ方だ。じっさい「ねぶた」の奉納が催されるし、多数の屋台が出たりもする。何も知らなければ、無邪気に「夏祭り」を愉しむ気分でやってくるであろう。毎年30万の人出があるそうだ。

けれども、こうした伝統的な神社の「夏祭り」をおもわせるような親しみやすさと愉しさの演出は、けっして靖国神社の変質を意味しているのではない。むしろ逆だ。くだんのポスターを見ても、それは明白である。靖国側の主張は明確かつ強烈に折り込まれている。写真に添えられた「英霊(みたま)に感謝と祈りの夏祭り」というコピーを見ればよい。

いうまでもなく、「みたま」とは「英霊」、つまり帝国日本のために亡くなったひとびとのことである。

靖国神社とは、かれらを祀り慰霊するための「国営神社」であり、同時に、帝国主義のために「国民」の生命を動員することを奨励し正当化するための国家宗教装置であり、それゆえに蹂躙された側にとっては侵略の象徴でもあった。「みたままつり」のポスターに添えられたコピーは、そのような戦前・戦中期における靖国の性格が、現在においてもまったく変更されていないことを示している。いや、それは絶対に変更されえない性質のものなのだ。なぜなら、それこそが靖国神社の存在理由なのだから。

もちろん、靖国神社をとりまく社会は、かつてとは大きく異なっている。そのなかで、いかにして靖国の本質を「護持」していくか。そのために戦後の靖国神社がとった戦略は、しばしばいわれるように、国家神道をあたかも伝統的な神道と地続きであるかのように偽装することであった。「みたままつり」とは、そのためのひとつの仕掛けと理解するほかないだろう。

さて、そんなわけで、重いものをかかえるような気持ちで、これから靖国神社に出かけていく。願わくは、この重さの幾ばくかでも、学生たちと共有できるようになってくれることを。


ジャックパーセル

コンバースのジャックパーセルを買った。レザーもあるが、丸洗いできないというので、キャンバスにした。洗わないスニーカーというのは、ちょっと想像したくない。

スニーカーを買うのは、何年ぶりだろうか。この30年、スニーカーといえばオールスターばかり履き継いできた。ジャックパーセルは当然、初めてだ。

型の関係なのか、オールスターより1サイズ大きい。布きれ一枚といった風情のオールスターに比べると、そこそこホールドされる感じがあり、ずっとスニーカーらしい履き心地だ。とはいえ、近年の高機能なスニーカーからすれば、古色蒼然たるものだろう。

ジャック・パーセルとは、往年のバドミントンの選手の名前だという。同梱されているラベルには、いまにもスマッシュを打とうとする人物の絵が描かれている。そのことを《みの》に話し、ラベルを見せてみた(かれの頭の中の95%はバドミントンで占められている)。「ふううん」という反応であった。

スニーカーというより、ジャックパーセル、あるいはオールスター。こんなふうに、モノを商品名で指定するという行為は、メディアにまみれた現代社会ならではの実践パターンだといえる。


ジョンソン・タウン──アメリカ的サイタマ、サイタマ的アメリカ 2/2

ジョンソン・タウンは、ディズニーリゾートと同類でありながら、大きく異なる点がある。そのひとつが境界管理の仕方である。

ディズニーリゾートは、どこまでも「夢の国」を徹底するために、その領域は明確な境界によってがっちり囲い込まれ、内部からの視線が外部へ漏れ出さないように遮断されている。「現実」である「トウキョウ」(じつはウラヤスなのだが)やら「ニッポン」やらから完全に分離されるよう、慎重に管理されている。

これにたいしてジョンソン・タウンでは、境界管理は、ゆるゆるである。狭い路地を一本へだてるだけで、そこはふつうのサイタマによって埋め尽くされた空間であり、サイタマ的日常が営まれている。そしてそれらは、近接して棲み分けているというよりも、ぐちゃぐちゃと浸潤しあっている。

いいかえれば、ジョンソン・タウンでは、「古き良き米国の郊外住宅地イメージ」という観念は、どうしようもない東京郊外的サイタマという現実と相互に浸透しあい、モザイク状となって、入り乱れているのである。

相互浸透の一方において、ジョンソン・タウンの観念は、その敷地から隣接地へと滲みだしている。伝染しているといってもいい。

歩いていると突然、サイディング貼りのアパートがあらわれる(タウンの外に出たのだろう)。どう見てもそこらにいくらでも建っていそうな、高級とかオシャレとか米国ふうの街並みなどという言葉からは遙か彼方にありそうな、ふつうのアパートだ。にもかかわらず、その看板は誇らしげに「ジミーハイツ」と名乗らずにはいられない。ジミーですか、そうですか、である。

その横をバイクが駆け抜けていく。ハーレーではなくスーパーカブ。またがっているのは、ジェームズ・ディーンではなく、夕刊を配達するおじさんだった。

ジョンソン・タウンの伝染力は、幹線道路をはさんだ対岸にある(敷地外の)お店にもおよんでいる。写真の2軒はどちらも、もともとは看板建築ふうの建売の店舗付き住宅として、同時期に建てられたものであっただろう。ところが左側の床屋だけが、米国っぽさを演出しようとしたのだろうか、西部劇ふうのファサードに改装されている。明らかに対岸のジョンソン・タウンを意識した帰結だろう。

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ジョンソン・タウン──アメリカ的サイタマ、サイタマ的アメリカ 1/2

「ジープの機能美展」のあと、入間在住の大学院生ヤダに案内してもらい、ジョンソン・タウンへ行ってみた。

ジョンソン・タウンとは、入間市の中心部にある住宅街だ。あるディベロッパーがその一帯を再開発・管理しているのだという。米国ふうの住宅地イメージをコンセプトにデザインしてみました、といったところであろうか。

そこいらじゅうに溢れている住宅と大規模商店の複合施設を平面として展開させたものだともいえるが、いちおう入間的な文脈がある。現在の空自の入間基地は、かつてジョンソン基地とよばれ、米軍の駐留地だったという記憶に立脚しているからである。

米軍基地に建て並んだ住宅の光景に、当時の豊かな超大国・米国のイメージを重ねあわせた意識の産物ということはいえる。ポストコロニアルな感覚の、きわめてわかりやすい具現ということだ。

ジョンソン・タウンのある土地が、当時の米軍住宅地を直接引き継いだものかどうかは、わからない。だが、そのころの米軍住宅を再利用しているのは事実らしい(その後に新築された建物もあって、両者が混在している)。

幹線道路から敷地内に入ってみる。木造の平屋が建ち並んでいる。どの建物も米国式に、下見板横張りの外壁に白いペンキ塗り、玄関前にはポーチが張り出し、区画を仕切る塀などはない。

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