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考えたこと Archive
経験の量
- Jan 11, 2012 18:06
- メディア論的に考える | 考えたこと
高校サッカーの決勝戦を観た。といってもテレビ観戦だ。
子どもたちは千葉生まれ千葉育ちの千葉っ子だし、《みの》など同年代なので、とうぜん市立船橋高校を烈しく応援する。最後に延長戦後半に市船が勝ち越しを決めたときは、《みの》と《なな》はひじょうによろこんだ。市船、優勝おめでとう。
ぼくもサッカーの試合を観るのは好きだ。ところが、これが難しい。潮目というか流れというか構図というか、そういうものがまったく読めないのだ。
サッカーの試合とはもともと流動的な性質のものなので、そこに由来する部分も大きいのかもしれない。しかし世の中にはそれでも試合の流れをきちんと読めるひとも少なくない。
したがって、これは基本的にはぼく自身の問題である。何よりもサッカーの試合を観たり実際にやってみたりした経験の絶対量がまるっきり足りないせいだとおもう。
ぼくにとって、それはちょうど映画や書物に接するときと正反対の状態だといえる。映画や書物なら、押さえるべきポイントが見えないというレベルで困ることはないし、それなりに潮目も読める。いいかえれば、構図として抽象化した形で捉えることが(それなりには)できる。少なくとも、皆目見当がつかないというレベルでまごつくことは、まずない。(商売柄それは当然のことなのかもしれないのだが。)
では、映画や書物についてならそれが可能なのは、なぜなのか。知識の蓄えが多いから、ではない。まがりなりにも一般に比べ、それなりの量を観、それなりの量を読んできたからである(それでもまだまったく不足しているのだが)。いちおう編集渡世の経験もある。
ものごとを把握したり理解したりするさいの基盤をなす重要な要素として、経験の量というものは大きな鍵を握っている。
もちろん「経験のないやつは口を出すな」という類の言明のように、経験というものに価値を置きすぎるのは危険であるのだとしても。
サッカー中継を観ながら、あらためて、そんなことを考えた。
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年賀状の言葉
- Dec 31, 2011 08:00
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年賀状に書き添える挨拶文において「おめでとう」という意味の言葉を忌諱しようという話があるらしい。3.11に関連し、被災したり傷ついたり悲しんだりしたようなひとたちへ「配慮」しようというのが理由だそうだ。
なるほど、そういう考え方もあるだろうとおもう。実際に被災した方々のなかには、「おめでとう」という言葉を口にしたり目にしたりするような気持ちになどとてもなれないというケースもあるだろう。そういうひとびとへの配慮は大切なことであるだろう。
そうした配慮が配慮として成立するのは、では、どんな場合だろうか。基本的には個別に、つまり具体的な相手が想定されているケースではないかとおもう。あるいは、鎮魂・慰霊・怒りなどの理由により賀状発信者の側に「あけましておめでとう」や「謹賀新年」といった類の言葉を忌諱する強い意志があるようなケース。それもまた、ひとつの立場であるといえるだろう。
しかし、ひと口に「配慮」といっても、事情の異なるケースもある。「例年と同じ文言ではマズイ」とばかりに「おめでとう」忌諱現象を盲信するようなばあいは、どうだろうか。
そこにある「配慮」とは、他者にたいするものというより、むしろ自己の立場の防衛に向けられたものであるというべきだろう。どこからも叩かれないように無難な方向に先手を打つことばかりに汲々とし、結果的に自縛を重ねていくような、そんな風潮の一環にあるような気がしないでもない。
どんな言葉も、文脈のなかで初めて意味をもち、機能する。じっさい新年の挨拶でいう「おめでとう」は、新しい年がやってきたことに感謝し、期待をもって迎え入れるという意味であるだろう。再生という意味あいが込められていると考えることさえもできる。それを旧年の厄災にたいする評価につなげて受けとってしまうことがあるとすれば、その解釈の仕方は相当にアクロバティックだといわねばなるまい。
というわけで、わが家では例年どおりに年賀状を作成し、例年どおりに(遅れ気味で)発送します。もし万が一ご気分を害される向きがありましたら、あらかじめお詫び申しあげておきます。
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9カ月後の石巻を歩く 2/2
- Dec 23, 2011 19:10
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被災したクルマが集められていた。救急車もあった。それぞれの車体には、引きあげた日時がきちんと書き込まれている。震災当日から半年以上もたった日付が記入されている。こういう地味でつらい仕事を、誰かがこつこつとおこなってきたのだと、あらためて知らされる思いがした。
屋根がもげていたり、窓ガラスが割れていたりするものがある。黒焦げになっていたり、ぺしゃんこにつぶれていたりするものもある。いちばん端には、やはり被災したスバル360が一台、ぽつんと置かれていた。
遠くの工場の煙突から、白い煙だか水蒸気だかが猛然と吐きだされていた。
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9カ月後の石巻を歩く 1/2
- Dec 21, 2011 10:08
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SSDでのレクチャーの翌日、ひとりで石巻を歩いてきた。東北の、「被災地」とよばれる地域を訪れるのは初めてである。ボランティアや復興支援といった立派なことではまったくない。ただ歩き、ただ見てきた。それだけだ。
雪降る仙台から仙石線に乗った。
途中不通区間があるため、松島海岸駅から矢本駅までは代行バスに乗り換える。バスは仙石線ぞいの国道を走った。乗客は多くはない。大半は地元の方のように見受けられた。黙って雪の車窓に目をやっていた。電車は1時間に2本、バスは1時間に1本。その待ち時間も含めて、仙台から石巻まで2時間半かかけ、到着したのは正午前だった。
石巻も雪がちらついていた。
石巻駅前にピンク色の大きな建物が建っている。市役所である。元はデパートで、撤退後に市役所が入ったのだそうだ。駅前には、キャリーをひきずったスーツの一団(他の行政からの支援だろうか)や、デイパックを背負った一団(ボランティアだろうか)の姿があった。
アーケードのある商店街を歩く。何軒ものお店があって、それぞれお客さんが入って、まずまず賑わっていた。一方で、シャッターを閉じたり、コンパネでウインドーをふさいだ状態の店舗もあった。場所を変えて営業していますという貼り紙や、震災の影響で休業中ですという貼り紙も見かけた。励ましの寄せ書きが張りだされている店もあった。
アーケード街を右に折れて、飲み屋街を歩く。店舗はほとんどが閉まっていた。昼間だから、ある意味では当たり前であるかもしれない。空き店舗のうちいくつかは、支援団体が活動拠点にしているようだった。
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映画と乗り物とコミュニケーション
- Sep 10, 2011 12:00
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先日執筆した原稿のなかで、「コミュニケーション」という言葉について、ちょっとだけ触れた。
この言葉は、いまでは、情報や思想を交換する行為やそのための手段や媒体という意味で、一般には理解されているだろう。(媒体のニュアンスがより強調されれば「メディア」と言われたりするかもしれない。)
ところが、このような用法にかんして、ウィリアムズはひじょうに興味深く、かつ重要な指摘をしている。英語のcommunicationは、17世紀末から20世紀前半まで、今日でいうtransportation(物質的運輸)という意味も含んでいたというのだ。
ちなみにcommunicationの原義は「共有すること」である。鑑みるに、この用法が存立しえた基盤には、何かを共有するには物質的な移動が不可避にともなうという認識があったことが示唆される。
裏返していえば、物質的移動なしに何かを共有する仕掛けとして、20世紀的マス・コミュニケーションというものが想像されてきたということでもある。
このような話は、ぼくの思考において、その基盤の一部をになうことになる。つねづね主張していることだが、「メディア」というものを考えるうえで決定的に重要なのは、「映画」と「乗り物」なのだとおもう。
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引きうけること、まかせること
- Aug 20, 2011 14:43
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なんだかあわただしい一週間だった。うち3日間はゼミ合宿。ひじょうに充実したものとなった。ゼミ生たちはよく議論し、よく考え、よく悩み、そしてよく食べてよく飲んだ。足りないのは睡眠くらいであっただろう。密度の濃い3日間だった。これでそれぞれの方向性はある程度かたまった。あとは一歩ずつ進んでいってくれればよい。
昨日は昨日で、いくつか会合があった。そのなかで、こんな話を聞いた。ある学者が最近つぎのような意味のことを書いていた、というのだ。
すなわち、引きうけて意見を述べるのではなく、まかせておいて文句を言うのが「日本人」なのだと。
原典をあたったわけではないので、本当に誰かがこんなことを書いていたのかどうかは確かめていない。でも確かなこともある。それは、誰がいったにせよ、この指摘は卓見だ、ということである。
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機械の声
- Aug 4, 2011 10:00
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《みの》がiPodで撮影したビデオを見せてくれた。ずっと《みの》によるナレーションが入っている。それを聞いておどろいた。ぼくの声そっくりだったからだ。
より正確にいえば、録音されたぼくの声そっくりだったのだ。これまで、かれの素の声にたいしてそんな感覚をもったことは、一度としてなかったのに。
誰もが知っているように、じぶん自身の声を、じぶん自身では聞くことができない。
じぶん以外のひとが聞くじぶんの声は、空気を伝わる振動(気導音)によるものだ。だが、じぶんで認識しているじぶんの声は、気導音だけでなく、声帯の振動が頭蓋骨をとおして伝わる骨導音の振動をくわえたものになる。だから、じぶん以外のひとが聞いているじぶんの声を、じぶん自身は聞くことができない。
じぶん自身の声を聞く唯一の方法は、じぶんの声を録音装置などの機械を媒介させることだ。それはふだんじぶんで聞くじぶんの声とは異なっているから、初めて録音されたじぶんの声を聞いたときは、かなり違和感を覚えるはずである。
以上のことは、あくまでじぶん自身の声の話である。《みの》の骨導音などぼくに伝わりようもないから、かれのふだんの声は、(装置の性能のことを考えないとすれば)録音した声と大差なく聞こえるはずであろう。
今回おもしろかったのは、そうした思いこみが覆されたからだった。録音された《みの》の声は、たしかにふだんの素の《みの》の声でありながら、どう聞いてもぼくの声そっくりでもあったのだ。
たしかに、これまでも、電話でよく間違えられたことがある。今回はじめて、無理もないのだとおもった。もし電話をかけたのがぼく自身だったとしても、やはりぼくが電話口に出ているのかと間違えていただろう。そのくらい、似ていた。
機械の媒介によって自己のイメージを構築するというのは、現代のひとつの特徴だといえるのだが、なかなか興味深い出来事であった。
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石巻からの便り
- Jul 12, 2011 10:30
- お知らせ・紹介 | メディア論的に考える | 考えたこと
知人から封書が届いた。発信地は宮城県石巻市。消印には七夕の日付がスタンプされていた。
手紙に記されていたのは、つぎのような言葉だった。
4月初旬、郷里石巻に戻っております。(中略)幼なじみ数名、少なくない知人が持っていかれました。この間、友人宛に送ったメールをこの程ブログにしました。
ブログ開設までもいろいろご苦労があったらしい。ブログ名は「日和山だより」という。http://hiyoriyama.kaminogakko.com/
おそらく、このようなサイトは少なくないのではなかろうか。
それらは、何かめざましい情報を発信するというようなことを目的としたものではないし、アクセスする者もそれを期待すると、すれちがってしまう。
そうではなく、これは「声」なのだ。
ブログやウェブやTwitterといったテクノロジーの力を借りて、被災したひとたちがみずから「声」を発しているのだ。
そして、発せられたあらゆる「声」は、みずからが誰かに聞き届けられることを願っている。
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流言や風評とは何か
- Jul 10, 2011 10:00
- メディア論的に考える | 考えたこと
さるところでインタビューをうけた。以下はそのときしゃべったことのメモ。
流言や風評はなぜ生じるか。
流言や風評とは、ひと言でいえば、事実的な情報の不足もしくは欠損を、ひとびとが想像によって補おうとすることによって生じる集合的な現象である。
逆にいえば、事実にもとづく情報が十分に与えられていると感じられている状態においては、流言や風評が繁茂するような事態は生じにくい。
流言や風評とは「状況理解」のひとつのあり方だといえる。したがって、流言や風評について、それが事実とどれだけ違うかという観点だけで論じることは、あまり実りがあるようにはおもわれない。
とはいえ、事実というより想像に過度に依存した「状況理解」は、実際の状況からかけ離れたものになりがちであり、それがさまざまな問題を引きおこす要因となる。
1923年の関東大震災では、「朝鮮人が暴徒化した」というデマが流れたことがよく知られている。これは、朝鮮半島にたいする植民地支配への暗黙的(もしくは積極的)加担という後ろ暗さに起因する、裏返しの恐怖だといえる。そしてその恐怖は「自警」という言説へと反転され、朝鮮人や中国人への暴行・殺害という極端な形で暴走してしまった。
今回の震災では、そのように極端な例は見られなかったようにおもう。だが、88年前と同様、ある時期までは、さまざまな流言や風評が流れた。基本的なメカニズムは同じである。
流言や風評が、えてして破滅的な内容になりがちなのは、それがそれまで無意識的であった「恐怖」の立ちあらわれる様相であるからだ。構造的に隠蔽されていたものや、うすうす感得しながら意識下に押し込めていたようなもの、それらが立ちあらわれて、情報の不足や欠損を埋めあわせようとして奔出する。
このように、流言や風評は、しばしば破滅的な言説や行為の増殖を招き、社会的秩序をいたずらに不安定化する。その意味では、たしかに憂慮すべきものではある。なるべくなら、そこに加担してしまわない冷静さを保ちたい。
けれどもその一方で、流言や風評は困ったものだ、そんなことを言うやつはダメだと、ただ切り捨ててしまうのもまた、必ずしも適切な態度とはいえない。理由を三点あげる。
第一に、よくわからないことについて、想像にまかせてものを語ってしまうこと自体はけっして特異なことではない。誰しも噂話をするように、それは、いたって人間的な行為のひとつである。流言や風評は、そのような日常的な行為から地続きのところに生起する。
第二に、だからこそ、知らず知らずのうちに、流言や風評の増殖に加担してしまうような可能性は、誰にでもある。事がおきている最中は、誰しも不安なものだ。不安こそ恐怖の培養土となり、そこに情報不足が重なれば、簡単に流言や風評に揺さぶられてしまう。ぼくもそうだし、あなたとて例外ではいられないだろう。
第三に、上に述べたように、流言や風評には、ひとびとが、状況を把握できないもどかしさのなかで、その空白を想像力でもって埋めあわせることで、無理やりにでも状況を理解しようとしているという性質をあわせもっている。
人間という生き物は、じぶんをとり巻く状況の「意味」が曖昧で空白な状態のまま、長く堪えられるようにはできていない。判断するための情報が足りなければ、想像によって強引にでも「意味」をつくりあげてしまう。そうでもしなければ、とうてい、やっていられないからだ。
いいかえれば、流言や風評には、十分な情勢判断のできない立場におかれたひとびとが、それでも状況把握を強行することによって自己を保とうとする「無意識的な防衛」という側面があるということだ。
流言や風評の繁茂という状況は、だから、わたしたちにとって、ひとつの警告でもある。それは、そこに必ず情報の不足や欠損という状態が存在することを示しているのだから。
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クジラとカメラ
- May 23, 2011 09:34
- メディア論的に考える | 考えたこと
NHK「クジラと生きる」をみた。Twitterで「ダーウィンが来た」と番組名を混同したツイートを流したが、あれは勘違い。Nスペでした。
イルカ漁を告発的に描いた映画『ザ・コーヴ』に対抗する意図があったのか、太地町のクジラ漁師たちに寄り添うつくりだった。当然、反捕鯨団体の行状は、そちら側から映しだされる。
団体のひとびとが太地町に常駐している。多くは白人で、英語しか話そうとしない。手にビデオカメラを持ち、漁師たちには理解できない英語で侮蔑の言葉を投げつける。10万円やるからクジラを逃がせと(英語で)漁師に迫ったりする。隠し撮りもする。
ようするに、クジラ漁の「非人間性」を世界に告発するという目的のためならば、挑発や犯罪に近い行為であれ、なんでもする。それが正当化されるのは、じぶんたちが「正義」に従っていることを信じて疑っていないからだ。
かれら(太地町にいる反捕鯨団体の白人たち)がずるいのは、一方で「正義」を掲げながら、その実、じぶんたちはつねに安全地帯に身を置いているからだ。太地町で何がおきようと、かれらには何も失うものがない。かれらはただ「正義」にもとづき「告発」する。じぶんのことを「正義」だと信じる者ほどたちの悪い人間はいない。
で、そんなことを《あ》と話していたら、《みの》(高校生)が介入してきた。そういうことはこの家のなかではもう合意しているのだから、くりかえし話していても仕方ないだろう、捕鯨の立場をもっと理解してもらえるようにアピールする方法を考えたほうが建設的ではないか、というのだ。
もっともな主張である。で、さらに議論になった。
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hajime-semi Blog- 口頭試問終了! Jan 30, 2012新年の挨拶をしていた先日から、気づけばすでに1月も終わる目前となりました。第36回の週報は<ジェット>がお送りします。 以前の週報でもお知らせしていましたが、ついに私たち長谷川ゼミは1月24日(火)に卒業論文の口頭試問を迎えました。 それにあたり、前日と当... […]ジェット
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