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考えたこと Archive

オシムのつぶやき

南アフリカ大会の日本代表のたたかいが終わった。最後までたしかにファイトしていた。選手監督スタッフをたたえたい。こんな日本代表をみたのは、初めてだ。

この試合に限らず、また試合内容とは別の話として、今回の大会の中継放送で全般にかんしてひとつ挙げておきたい。

もっともおもしろいとおもったのは、スカパーのTwitterである。オシム前日本代表(そして元ジェフ千葉の)監督がリアルタイムで中継を観戦している最中の「つぶやき」を、文字化して(ほぼ)リアルタイムで流してくれる。オシムのつぶやきを通訳千田善さんが日本語にして、それを横に控えたスタッフがテキストに打っているようだ。

オシムの「つぶやき」や観戦中のようすのリポートも、もちろん興味深かった。でもぼくにとってより興味深かったのは、これが日本のマスメディアにおいて、デジタルメディアを放送と有機的に絡ませることで視聴者とのあいだに固有のコミュニティを生成しえた、おそらく初めての事例であろうという点であった。

こちらのほうの発案者や関係者、スタッフたちにも、ぼくは拍手を送りたい。

ナショナルメディアとしてのテレビ

サッカー・ワールドカップ日本代表はとうとう16強に進出した。カメルーン戦での勝利以来、オランダ戦の健闘をへて、デンマーク戦は守備のみならず攻撃も積極的で、圧倒的にたたかっていた。

そうした姿をみるべく多くのひとたちがテレビに、あるいはパブリックビューイングのスクリーンに向かい、同じ時間に同じ試合中継番組を視聴し、その経過に一喜一憂して、勝利という結果と、それによって達成されたアウェーで初の16強進出という快挙をよろこぶ。

そうした様子をみるにつけ、あらためておもう。テレビはナショナルなメディアなのだと。

もちろんテレビに限らず、ラジオにせよ新聞にせよ広告にせよ、マスメディアとはおしなべてナショナルなものだ。ではあるものの、とりわけテレビにおいて、その性質は強調されているようにおもう。

テレビ受像器の画面にうつしだされるひとびとは口々に「同じ日本国民として誇りに思う」「勇気をもらった」などという言葉を口にしてはばからない。文筆でたべている新聞記者やサッカー・ジャーナリストでさえ、種々の記事に「日本人に生まれて良かった」と書いていたりする。

かれらの反応に通有されるキーワードは「国」「国民」「日本人」など。前提にあるのはナショナリズムである。ただし、政治的な立場はどうであれ、「ナショナリズム」という言葉だけに過敏に反応していてはいけない。

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白熱教室の学生たち

教育テレビの『ハーバード白熱教室』が話題である。ぼくも数回みた。前にNHKの中のひとから、この番組の特徴は、視聴者層が偏らず、どの層からも一定の視聴率をとれる点にあるのだと教えられた。いろんな形で読み解くおもしろさがあるということだろう。

ぼくの目から見ると、番宣のポイントとは裏腹に、講義の中身については、まあそんなものかという感じ。社会学的な頭には、政治哲学的な──というかサンデル教授の議論の組み立て方は、整理が行き届いて論理的に緻密かもしれないが、その前提がナイーヴにおもわれてしまう。

見どころは、中身よりもむしろそこに展開する授業の光景である。かれらの文化の中心に、まさに弁舌が息づいているさまをありありと見てとることができる。

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勝った

サッカー・ワールドカップ(なぜか「W杯」という不思議な表記が定着している)で日本代表がカメルーンに勝った。よかった。おめでとう。ぼくも《みの》と一緒に中継をみていた。

もっとも、まず最初に謝らなければならない。事前の率直な気持ちとして、今回ばかりはもう三連敗必至、おそらく1得点もとれまいと観念していたからだ。岡田監督には期待がもてず、選手たちも何か大事なものを忘れてしまっているように見受けられた。こりゃもうダメだ、というのが正直な気持ちであった。

大会が近づくにつれ、マスメディアでもネットでも岡田監督や代表チームへのバッシングは過熱した。なかには、日本サッカーの「膿」を明らかにするために潔く全敗せよなどという、本末転倒的ご無体な批判まであった。四面楚歌とはこのことだ。さすがにかわいそうな気もしたが、さりとて期待がもてないという諦観に変わりがなかったのも事実であった。

それでも、ワールドカップのようなメディアイベント的「祭り」にたいして、シニカルなポーズをとっていてはダメなのだ。調子よくしっかり参加して、「祭り」の御輿に載らなければならない。

というわけで、万難を排してテレビ中継を観戦した。守備は連動していて各自がそれぞれのタスクをしっかり果たしていた。松井のきれいなクロスからの本田の得点シーンは落ち着いたもので、そんなふうにして、大舞台のプレッシャーのなかでほぼ一度かぎりのチャンスに確実な仕事を決められる選手たちの技量と度胸におどろかされた。

もっとも中継でいちばんおどろいたのは、唐突にさしはさまれた、本田とエトーがたがいの偽金髪と坊主頭をスローモーションでなであうというBL的ツーショットだったが。

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トランスカルチュラル花笠音頭

運動会ネタもうひとつ。

小学校の運動会では学年ごとに競技と演技がある。《くんくん》の学年の演技は花笠音頭だった。毎年おなじみのレパートリーなのだ。そして毎年これを見るたびに疑問におもう。そもそも千葉の小学生がなぜ運動会で山形の民謡を踊らねばならないのか。

考えられるひとつの説明は、千葉には地域を象徴する民謡も踊りもないから、というものだ。たしかに、にわかにそう問われても、何も思い浮かばない。しいていえば、「菜の花体操」という名の、体操というか踊りというか、そんなようなものがあるくらいだろう。菜の花体操は県内の小学校でも教えたりしているらしい。だが、あれが千葉県という地域を象徴しているのかといわれれば、誰であれ首肯しにくいはずだ。だいいち市川のわが小学校ではこれを教えていない(見識だとおもう)。ということは、やはり千葉には千葉らしさを象徴する民謡や踊りは見あたらないのである。

なにもないということは、なんでもありということでもある。だから目についたものをいくつか適当に選んで恣意的に結びつけ、「文化」や「伝統」っぽい装いをでっち上げるのかもしれない。だとすれば、今日の小学校運動会もまた立派にポストモダン社会の一翼を担っているというべきだろう。

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清水幾太郎「テレビジョン時代」

いま3年生の講読の授業で清水幾太郎「テレビジョン時代」を読んでいる。初出は1957年。『思想』11月号の特集「マス・メディアとしてのテレビジョン」の巻頭論文として発表された。

一般にこの論文は、テレビ黎明期において当時の最新メディアであったテレビの可能性について論じた先駆的論文と位置づけられている。ぼくもそのように教わったし、そう教えてくださったひとりである吉見俊哉先生も、2003年の『思想』12月号に再録するにあたって、そのような位置づけの解題を書いている。

発想の中心にあるのは、テレビジョン技術が実現する、イメージの直接的な現前性である。発想としては一種の技術中心主義であり、テレビ以後の展開を知っている今日の目からみれば古くさいと感じられるところも少なくない。それでも、いまなお、やはりひじょうに重要な論文のひとつであることはまちがいない。ぼくはこの論文を何度も読んだ。

しかし、読めば読むほど、ここで中心に論じられているのは、テレビジョンではないようにおもわれてならない。清水さんのまなざしは、テレビを経由したうえで、書物へ向かっている。テレビの圧倒的に直接的な現前性のリアリティのまえに、わざわざ読書などという七面倒な努力を要請する書物がいかにも「無精」で「骨の折れる」メディアだと感じられるようになってゆく。

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挑戦する人生

長崎に来ている。

飛行機を降りたらフィギュア終わってた。

浅田真央さん、銀メダルでした。悔しいかもしれない。でも、確実にとりこぼさないことを旨とする人生より、挑戦する人生のほうがはるかに美しいと、ぼくはおもいます。

19歳。人生はまだ続く。

iPadと電子書籍(2/2)

読書論といえば従前さまざまな蓄積がなされてきた。それらはそれぞれ、文芸批評や文化研究や認知科学など、基盤とする領域ごとに何系統かにわけられようが、いずれにも共通するのは、読書という一見受け身にみえる行為がじつはどれほど多様で創造的な営みであるかを明らかにしてきたことにある。

したがって、先述のようなユーザー生成コンテンツ的サービスと結びついた電子の「書籍」は、そのような多様性や創造性にある種の具体的な形を与えたものだと解釈することも、できなくはない。おそらく実際の開発にあたっても、そうした知見を下敷きにしているにちがいなかろう。

このときひとつの事実を看過してはならない。従来「読者」に経験されてきた「読書」の豊饒さは、いったん閉じられ固着されたテクストの上に成立していた、という事実である。ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいてはまったく事情が異なる。そこでは作品だろうがコメントだろうがつぶやきだろうがすべての言明は同列に扱われ、特定のテクストに特権が付与されることはない。すべては「ネタ」なのだ。読書の多様性や創造性はそれ自体がコンテンツとしてシステムにとりこまれ、矮小化されてゆくことを免れえないだろう。

これら二つの「読書」とよばれる経験は似て非なるステータスにある。すでにわたしたちはケータイやiPhoneで「読書」しているのだが、そうした行為は「読書」をより拡大させるとともに、「読書」を内側から解体してゆく。

そこで「汎用機」だ。

冒頭に述べたように、iPadは「汎用機」である──かのように見える。IT業界的にベタにいえば、ネットブックと同じカテゴリーにぶつけてきたのだから、当然ということになるかもしれない。

たしかにiPadは、これまでネットブックを拒絶してきたアップルの、このセグメントにたいするひとつの解答だといえる。別言すれば、アップルがここに商機をみているという証左でもある。ひととおりの作業ができてハンディ、安価にして貧相。それがネットブックの特徴だった。それらが小指をかけながらもとりこぼしてきたのと同じマーケットを見ながら、しかしiPadのアプローチはまったく異なる。というより、アップルにすれば、ネットブック・メーカーはマーケットをちゃんと把握できていなかったくらいということかもしれない。

では、アップルがiPadで開発を目論むマーケットとは何か。いってみれば、それはわたしたちの「日常」であり、そこでの身体である。

iPadにおいて前提されているのは、ビジネス用途やら電子書籍向けやらとかといった、産業的に縦割りにされた既存の区分ではない。そもそも制度的枠組みのどれかに対応させようという発想には、どう見てもない。そういう製品であるにもかかわらず、これを既存の枠組みの中から眺める者には、この製品が「汎用機」であるように見えてしまうのだ。

iPadで焦点となるのは、ごくふつうの日常生活を構成するふるまいのパターンである。通常の区分でいえば、それらはビジネスや家事や余暇としてそれぞれ別個の領域に分類され、ゆえにそれらが相互に共通性をもつことなど見落とされているだろう。しかしそれらをふるまいに着目すれば、領域を横断して共通するものを見出すことは、さほどむずかしくはない(拙著『アトラクションの日常』を参照)。

諸種の連絡や投稿、スケジュールの管理、メモをとったり管理したりすること、情報を検索して保存したり印刷したり共有したりすることや、写真や動画や音楽を再生したり、ちょっと手をくわえてまたネットに投げたりする。……こうした、さほど複雑ではない諸々の作業に属するふるまいにおいて必要とされる身体技法は、じつはそれほど多様性に富んでいるわけではない。だからタブレットという形状とマルチタッチというインターフェイスの組合せが利いてくる。

そして「読書」もまた、そうした日常的身体技法群のなかのひとつのアイテムにすぎない。少なくともiPadにおいては。

アップルははっきりと見切っている。「書物」をどうデジタル化するかなどという視点にさして展望は認められないことを。「読書」という行為に着目することで、それがわたしたちの生活を織りなすもろもろの日常的実践のなかに解消させられてゆくであろうことを。身体のレベルからこそ、書物と読書が長らく保持してきた特権性を解体しうることを。

AppleTVやiPhoneの発表時、ジョブズはアップルがテレビや電話を「再発明した」とことさらに強調したのだった。今回かれの口から「書物を再発明した」という台詞は聞かれず、代わりに飛びだしてきた言葉が、何あろう「リベラルアーツ」だった。それはつまり、こういうことである。

─了─

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iPadと電子書籍(1/2)

アップルからiPadが発表された。先月末のことだ。あれから二週間以上たつ。

日本の新聞・テレビなど既存マスメディアでは、電子書籍市場がいよいよ活気づくというような図式のなかで語られることが多い。出版業界もだ。米国で好調のアマゾンのKindleへの対抗馬というような意見もよく見かける。

間違いではない。けれども一面的で偏っているような気がする。

たしかにiPadにはそれまでアップルが取りこんでこなかった電子書籍リーダー機能が与えられている。iPadには最初から電子書籍リーダー用アプリケーションiBooksが含まれ、iTunesの電子書籍版であるiBookstoreも用意されている(日本では未整備だが)。ジョブズのプレゼンテーションでもKindleが引きあいに出されてはいた。

けれどもiPadは電子書籍端末ではない。ベタな言い方をするならば「汎用機」だ。電子書籍リーダー機能はいくつも具わる機能のうちのひとつの柱にすぎない。専用機対汎用機という図式は凡庸きわまりないとはいえ、ある種の本質を指し示してはいる。こと電子書籍にかんしては。

専用機でないのだからiPadは電子書籍端末ではない。この事実の意味はことのほか大きいのようにおもう。現状がどうであれ、iPadにたいするアップルの期待は、世間がふつうに想像する電子書籍、すなわちディスプレイ上で読書を提供する装置、という水準にとどまるほど謙虚であるわけがない。

電子書籍をたんにテクストがデジタル化された新聞・雑誌・書籍と考えるかぎり、それを講読したり閲覧したりする機能だけでは、ユーザーにたいし十分な訴求力を発揮しうるとはいいにくい。現在の流れからして、あらかじめあつらえられた情報をただ摂取するだけというのではなく、そこにユーザーがなんらかの形で積極的に参加するものでなければ、ユーザーに向かって新鮮なサービスをアピールできないだろう。現段階でiPadにはそこまでの用意はない。だがきっと視野に入れているはずだ。

別の角度から見てみよう。

デジタル化されたテクストをただ講読・閲覧する機能だけでは、商売としてさほど旨味はない。ユーザー生成コンテンツによってユーザーを引き込んだうえで、そのユーザーの属性を情報として吸いあげるのがこの種の商売の妙味である。そしてそのサービスは、リアルタイムで提供されることが望ましい。なぜならそれによってユーザーを少しでも長くつなぎとめておくことが可能となり、それゆえユーザーの行動情報を漏れなく根こそぎ収集できるからだ。(参照「リアルタイム・ユーザー生成コンテンツ批判」)

つまり冊子の「書籍」をただデジタル技術の上で組版し配信する程度の電子書籍では、メーカーにとってもユーザーにとってもあまり意味はないのだ。そんなもので満足とばかりに安穏と構えていられるのは、せいぜい既存の出版産業・新聞産業くらいのものである。

電子書籍・電子出版は、遅かれ早かれ良かれ悪しかれ、なんらかの形でユーザー生成コンテンツ的な形態へと転換してゆく仕掛けが介在することになるだろう。そのときそこでやりとりされる商品やサービスに「書籍」や「新聞」や「マガジン」というような名が付けられることがあるかもしれない。だがたとえそうだとしても、あくまで名前の上での話だ。それは冊子体のそれとは多分に異なる経験をもたらす装置でなければならないのだ。

iPadと電子書籍(2/2)へ続く

電子ブックの2010年

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

2010年が始まった。今年日本でもブレイクの見込まれるもののひとつが、電子ブックリーダーであり、それに連動するネットサービスである。すでに米国ではアマゾンのKindleはじめ電子ブックリーダーがけっこうなヒット商品となっている。年明け早々には、かねて噂されてきたアップルのタブレットも発表される見通しだといわれている。アップル・タブレットはもちろん電子ブックリーダー専用機などではないのだとしても、その機能を主要な柱に据えた製品である可能性はかなり高そうだ。すでに音楽で十二分に成功したように、iTunesと統合して電子ブックサービスを連動させてくることは容易に想像できる。

ただし電子ブックリーダーというデバイス自体の登場は今回が初めてというわけではない。もうこの10年ばかり手を替え品を替え登場しては消えていくのをくりかえしてきている。今年の動向が重要なのは、それがいよいよそれなりの規模の市場として日本でも本格的に立ちあがるかもしれないことである。

もっとも日本のばあいは米国とは事情が少々ちがう。わざわざ専用機などつかわなくても、ケータイでさまざまなテキスト(当然マンガなども含まれる)を読むことは、すでにごく当たり前の光景だ。ぼくでさえ、夏に買ったiPhoneの利用時間のうちかなりの割合をテキストを読むことに費やしている。そこに電子ブックリーダーが浸透してゆくとすれば、たんにテキストをネットで買って読むというだけではなく、何か別のライフスタイルに巻き込んでゆくようなアイディアが不可欠だろう。それはおそらくは、なんらかの意味でユーザー生成コンテンツ的なサービスなのだろうが、具体的にはなんともいいようがない。

重要なことは、こうした現象についてどんなスタンスでものを考えるか、である。ぼくの立場・役割ははっきりしている。

新しい商品やサービスや市場についての「予言」や、どうすれば一儲けできるかという話について、それらしい言葉──「つながり」「発信」「便利」「新しい」「アナログからデジタルへ」など──をまぶして語るような類の話は、ビジネスマンやシンクタンクやITジャーナリストにまかせておけばよい。ぼくが考えなければならない事柄は、おそらく、そうしたひとたちの大半が「役に立たない」として鼻も引っかけないような水準にある。

書物のデジタル化と総称できるようなこれら現象は確実に、「人間」と「知」のあり方の変容と相互に関係しているだろう。冷静にみれば電子ブックは紙の書物とはまったく異質なものなのだが、それを書物の変容という文脈で連続的にとらえてしまう視点そのものに鍵がある。したがって、「書物」の変容は、たんに物質的・技術的な変化ではなく、近代という時代の脊梁をなしてきた「人間」という虚構をめぐる知の布置の変容に根ざしている。

こうした事柄について考察することは、たしかに目先の利益にはまったくつながるまい。しかしこうした人文学的な姿勢は、事象を真に把握し理解しようとするうえで欠かせないことである。ほんの少し長い目でみるだけで、それはけっして無益ではないと理解できるはずだ。

メディアとは、たんに媒体やその装置や技術や産業のことをいうのではない。それは「もののわかり方」を指定するものであり、それらの配置なのだ。そのようなところから把握してゆこうとするがゆえに、あえて「メディア論」を名乗る意義があるのだと、ぼくは考えている。(100102若干修正追記)

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