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書物と出版 Archive

『研究成果の刊行をめぐる社会状況』調査報告書

松本三和夫先生から、つぎのようなお知らせをいただきました。ひじょうに興味深い調査報告だとおもいます。

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科学・技術と社会の会の会員ならびに関係者のみなさま

暑中お見舞い申し上げます

 日本社会学会会員を対象に昨年度実施しました『研究成果の刊行をめぐる社会状況』調査の報告書の全文を科学・技術と社会の会のウェブサイト(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/JASTS/)にアップロードしましたので、ご案内させていただきます。任期制のポストにあるかどうかによって研究者集団の投稿行動が分極化するようすなど、局所的な実感を裏付けるさまざまな知見が得られています。自由にダウンロードできますので、よろしければご高覧ください。人文社会系研究者の研究成果の生産と刊行をめぐる困難な実態を広く共有し、よりよい研究環境を実現するための基礎データとなれば幸いです。

 敬白。科学・技術と社会の会


本は、これから

池澤夏樹編『本は、これから』(岩波新書)が刊行されました。ここに「「本ではない本」を発明する」という小篇を寄稿しています。大学で実践してきたワークショップがもとになった論考です。どうぞ、よしなに。


漢字/かな──表現としての表記

さる雑誌に寄稿した原稿のゲラが届いた。ぼくが提出した原稿の漢字/かな表記の使い分けが、いつのまにか変更されている。「いまさら電子書籍が」と書いたはずなのに「今更電子書籍が」となっていたりする。困ったことである。漢字6文字が連続すると、そういう名詞みたいに見えてしまう。編集部に訊くと、雑誌全体の表記統一のため、一律に朝日新聞の用字用語に統一させてもらいました、という。

さいわい今回は、こちらの考えを編集長に話したところ、すぐに理解を示してくださって、もとの原稿にあわせて再度修正してもらえることになった。だが、じつは原稿の表記を勝手に統一されしまうようなことは今回が初めてではない。これまでも幾度かあった。ぼくの経験上は、今回と同様、朝日新聞の用字用語に機械的に統一する、というケースが多かった。

個人的には、あまり良いことだとはおもわない。

表記の揺れや不統一は見苦しいという意見があるのはわかる。日本語の文章は漢字、ひらがな、カタカナなどの文字種が混在するうえ、その使い分けの仕方が統一されているわけではない。とくにワープロ普及以降、むやみやたらと難しい漢字がつかわれているような傾向も見られるかもしれない。だから、とくに新聞のように、大勢の記者たちが書いた原稿をひとつの紙面に集積させる性質の媒体であるのなら(日本の新聞記事はいまでもまだ無署名が多い)、用字用語の統一に一定の必要性は認められるかもしれない。

けれども雑誌や編著ものの書籍といった規模のもので、そこまでして表記を機械的に統一する必要がどこまであるだろう。一行あたりの字数の少ない新聞とは組版の考え方からして違う。そしてなにより、どこにどんな漢字をつかうか、あるいはひらがなにするかという表記の仕方も、表現の一部と見なすべきではないだろうか。

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書評『荷風と東京』

紀伊國屋書店の運営している書評サイト『書評空間』に書評を書いた。投稿するのは、たぶん一年ぶりくらいではないか。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/

とりあげたのは川本三郎さんの『荷風と東京』である。川本さんの街歩きエッセイが好きで、よく読む。この本も単行本で出たときに買ったのだが、なにしろ大部なのと、ぼくが怠慢なのとで、積読状態だった。少し前に岩波現代文庫版で上下二巻本として刊行されたのを期に読んでみた。これがすごくおもしろい。もっと早く読んでおけばよかった。それで書評を書きたくなったというわけ。

『書評空間』というサイトは、たとえば新聞書評や雑誌のそれとは違って、編集サイドからの働きかけが一切ない。書くも書かぬも、どの本をとりあげるかも、書き手の自由。なんら注文されない。締切もない。その代わり、督促もない。最近では担当者もよくわからないくらいだ。

そんなわけなので、ペースはひとそれぞれ。ぼくもとにかく気が向いたときに、とりあげたい本について、好きなように書く。

ただし「好きなように」という表現には多少の留保がつく。個人的なスタンスとして、書評はできるだけ読者や読書を拡げるようなものでありたいとおもっている。だから、せっかく執筆する場を与えてもらえる以上、少しでもその方向に貢献できるような書評を書きたい。そう考えている。

もっとも、かなり気合いを入れないとものが書けない性分なので、現実にはなかなか投稿数は増えない。それもまあ、よし。


大学図書館とデジタル化

大学図書館問題研究会のオープンカレッジという催しに講師として参加してきた。大学図書館のライブラリアンや関係者の勉強会のようなものらしい。今回与えられたテーマは、学術情報の電子化と大学図書館、というようなことだった。

講師といってもレクチャーするわけではない。ワークショップ形式の座まわしみたいなことをし、あとで他の2名の講師とともにパネルディスカッションでしゃべる。こういう形式で実施するのは初めてのことなのだそうだ。

お二人の講師は旧知の間柄だったようだが、ぼくとは初対面だった。先方はぼくのことなど知らなかっただろう。講師どうしによるパネルの発言では、教えられるところもあり、また、ぼくから見れば俗流メディア論としかいいようのない話も含め、異なる点もいろいろあった。しかしそれは立場や考え方が違えば当然ありうることであり、少なくとも両者に議論する用意がありさえすればいいだけのことだ。

いずれにせよお二人に共通していたのは、デジタル化する現在の状況を、少なくともそれぞれの立場において本人なりに引き受ける覚悟をはっきり持っていたことである。

いっぽう図書館関係の参加者たちのほうは、どうか。全般にいえば、ちょっと歯がゆく感じられたといわざるをえない。

もちろん大学図書館の現場では現場なりにそれぞれ悩みがあり、考えがあるのだろうということはわかる。それに真摯に向きあおうとしてもいるだろう。だから休日にもかかわらず、こうして勉強会に参加しているのだろう。

けれども、ではデジタル化をじぶんの問題として引き受けてゆくような覚悟がどれほどあるのか、となると、残念ながらそれはあまりはっきりとは感得できなかった。ともすれば、誰かに「答え」を教えてもらえるのではないかという姿勢がかいま見えるような気がしなくもなかった。そして、そういうことは今回にかぎらず、あちこちでよく見かける光景でもある。

だとすれば、二人の講師の、現実をじぶんの立場において引き受けるという態度こそが、今回の催しから学ぶべきことだというべきだといわねばなるまい。図書館員のみなさんには、これからの図書館をつくってゆくのはじぶんたちなのだという気持ちをもって、ぜひしっかりがんばってほしいとおもう。


BEAT公開研究会「電子書籍時代の教材」

今日はiPadの日本発売日ですね。こんなシンポジウムに登壇することになりました。明日開催。

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BEAT Seminar 2010年度第1回 BEAT公開研究会
「電子書籍時代の教材:誰が作りどんな形になるのか」
2010年5月29日(土)開催
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Apple社のiPadやAmazon社のKindleなど、電子書籍の流通基盤になる個人用
デバイスが普及し始めています。アメリカでは多くの教科書が電子化され、教
材の流通に革命的な影響をもたらす可能性があります。
当面、教科書や参考書などの電子化が進むでしょう。しかし、長期的に考え
れば、電子環境への移行によってもっと大きな変化が起きる可能性があります。
このセミナーでは「誰が作り、学習者にどう届けるのか」という流通システ
ムの変革と「電子環境ならではのマルチメディアとの統合」というテーマをと
りあげ、電子書籍時代の教材の新しい形について議論を深めていきたいと考え
ています。みなさまのご参加をお待ちしております。

■日時
2010年5月29日(土) 14:00~17:00

■場所
東京大学 本郷キャンパス
情報学環・福武ホール(赤門横)福武ラーニングシアター(B2F)
アクセスマップ>>http://www.beatiii.jp/seminar/seminar-map42.pdf

■内容
1.講演1 14:05-14:50
「電子書籍の衝撃」
佐々木俊尚(ITジャーナリスト)

2.講演2 15:00-15:40
「電子書籍時代のマルチメディア教材」
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)

3. 指定討論 15:40-15:50
長谷川一(明治学院大学 准教授)

4.参加者によるグループディスカッション 15:50-16:20

5.パネルディスカッション 16:20-17:00
「電子書籍時代の新しい教材の形とは」
司  会:北村 智  (東京大学 特任助教)
パネラー:長谷川一(明治学院大学 准教授)
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)
山内 祐平 (東京大学 准教授)

※iPadとKindleの体験コーナーを開設いたします。

■定員
180名(お早めにお申し込みください)
申込ページ:http://www.beatiii.jp/seminar/index.html

■参加費
無料

■懇親会
セミナー終了後1F UTCafeにて
参加希望者(¥3,000)

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iPadと電子書籍(2/2)

読書論といえば従前さまざまな蓄積がなされてきた。それらはそれぞれ、文芸批評や文化研究や認知科学など、基盤とする領域ごとに何系統かにわけられようが、いずれにも共通するのは、読書という一見受け身にみえる行為がじつはどれほど多様で創造的な営みであるかを明らかにしてきたことにある。

したがって、先述のようなユーザー生成コンテンツ的サービスと結びついた電子の「書籍」は、そのような多様性や創造性にある種の具体的な形を与えたものだと解釈することも、できなくはない。おそらく実際の開発にあたっても、そうした知見を下敷きにしているにちがいなかろう。

このときひとつの事実を看過してはならない。従来「読者」に経験されてきた「読書」の豊饒さは、いったん閉じられ固着されたテクストの上に成立していた、という事実である。ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいてはまったく事情が異なる。そこでは作品だろうがコメントだろうがつぶやきだろうがすべての言明は同列に扱われ、特定のテクストに特権が付与されることはない。すべては「ネタ」なのだ。読書の多様性や創造性はそれ自体がコンテンツとしてシステムにとりこまれ、矮小化されてゆくことを免れえないだろう。

これら二つの「読書」とよばれる経験は似て非なるステータスにある。すでにわたしたちはケータイやiPhoneで「読書」しているのだが、そうした行為は「読書」をより拡大させるとともに、「読書」を内側から解体してゆく。

そこで「汎用機」だ。

冒頭に述べたように、iPadは「汎用機」である──かのように見える。IT業界的にベタにいえば、ネットブックと同じカテゴリーにぶつけてきたのだから、当然ということになるかもしれない。

たしかにiPadは、これまでネットブックを拒絶してきたアップルの、このセグメントにたいするひとつの解答だといえる。別言すれば、アップルがここに商機をみているという証左でもある。ひととおりの作業ができてハンディ、安価にして貧相。それがネットブックの特徴だった。それらが小指をかけながらもとりこぼしてきたのと同じマーケットを見ながら、しかしiPadのアプローチはまったく異なる。というより、アップルにすれば、ネットブック・メーカーはマーケットをちゃんと把握できていなかったくらいということかもしれない。

では、アップルがiPadで開発を目論むマーケットとは何か。いってみれば、それはわたしたちの「日常」であり、そこでの身体である。

iPadにおいて前提されているのは、ビジネス用途やら電子書籍向けやらとかといった、産業的に縦割りにされた既存の区分ではない。そもそも制度的枠組みのどれかに対応させようという発想には、どう見てもない。そういう製品であるにもかかわらず、これを既存の枠組みの中から眺める者には、この製品が「汎用機」であるように見えてしまうのだ。

iPadで焦点となるのは、ごくふつうの日常生活を構成するふるまいのパターンである。通常の区分でいえば、それらはビジネスや家事や余暇としてそれぞれ別個の領域に分類され、ゆえにそれらが相互に共通性をもつことなど見落とされているだろう。しかしそれらをふるまいに着目すれば、領域を横断して共通するものを見出すことは、さほどむずかしくはない(拙著『アトラクションの日常』を参照)。

諸種の連絡や投稿、スケジュールの管理、メモをとったり管理したりすること、情報を検索して保存したり印刷したり共有したりすることや、写真や動画や音楽を再生したり、ちょっと手をくわえてまたネットに投げたりする。……こうした、さほど複雑ではない諸々の作業に属するふるまいにおいて必要とされる身体技法は、じつはそれほど多様性に富んでいるわけではない。だからタブレットという形状とマルチタッチというインターフェイスの組合せが利いてくる。

そして「読書」もまた、そうした日常的身体技法群のなかのひとつのアイテムにすぎない。少なくともiPadにおいては。

アップルははっきりと見切っている。「書物」をどうデジタル化するかなどという視点にさして展望は認められないことを。「読書」という行為に着目することで、それがわたしたちの生活を織りなすもろもろの日常的実践のなかに解消させられてゆくであろうことを。身体のレベルからこそ、書物と読書が長らく保持してきた特権性を解体しうることを。

AppleTVやiPhoneの発表時、ジョブズはアップルがテレビや電話を「再発明した」とことさらに強調したのだった。今回かれの口から「書物を再発明した」という台詞は聞かれず、代わりに飛びだしてきた言葉が、何あろう「リベラルアーツ」だった。それはつまり、こういうことである。

─了─

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iPadと電子書籍(1/2)

アップルからiPadが発表された。先月末のことだ。あれから二週間以上たつ。

日本の新聞・テレビなど既存マスメディアでは、電子書籍市場がいよいよ活気づくというような図式のなかで語られることが多い。出版業界もだ。米国で好調のアマゾンのKindleへの対抗馬というような意見もよく見かける。

間違いではない。けれども一面的で偏っているような気がする。

たしかにiPadにはそれまでアップルが取りこんでこなかった電子書籍リーダー機能が与えられている。iPadには最初から電子書籍リーダー用アプリケーションiBooksが含まれ、iTunesの電子書籍版であるiBookstoreも用意されている(日本では未整備だが)。ジョブズのプレゼンテーションでもKindleが引きあいに出されてはいた。

けれどもiPadは電子書籍端末ではない。ベタな言い方をするならば「汎用機」だ。電子書籍リーダー機能はいくつも具わる機能のうちのひとつの柱にすぎない。専用機対汎用機という図式は凡庸きわまりないとはいえ、ある種の本質を指し示してはいる。こと電子書籍にかんしては。

専用機でないのだからiPadは電子書籍端末ではない。この事実の意味はことのほか大きいのようにおもう。現状がどうであれ、iPadにたいするアップルの期待は、世間がふつうに想像する電子書籍、すなわちディスプレイ上で読書を提供する装置、という水準にとどまるほど謙虚であるわけがない。

電子書籍をたんにテクストがデジタル化された新聞・雑誌・書籍と考えるかぎり、それを講読したり閲覧したりする機能だけでは、ユーザーにたいし十分な訴求力を発揮しうるとはいいにくい。現在の流れからして、あらかじめあつらえられた情報をただ摂取するだけというのではなく、そこにユーザーがなんらかの形で積極的に参加するものでなければ、ユーザーに向かって新鮮なサービスをアピールできないだろう。現段階でiPadにはそこまでの用意はない。だがきっと視野に入れているはずだ。

別の角度から見てみよう。

デジタル化されたテクストをただ講読・閲覧する機能だけでは、商売としてさほど旨味はない。ユーザー生成コンテンツによってユーザーを引き込んだうえで、そのユーザーの属性を情報として吸いあげるのがこの種の商売の妙味である。そしてそのサービスは、リアルタイムで提供されることが望ましい。なぜならそれによってユーザーを少しでも長くつなぎとめておくことが可能となり、それゆえユーザーの行動情報を漏れなく根こそぎ収集できるからだ。(参照「リアルタイム・ユーザー生成コンテンツ批判」)

つまり冊子の「書籍」をただデジタル技術の上で組版し配信する程度の電子書籍では、メーカーにとってもユーザーにとってもあまり意味はないのだ。そんなもので満足とばかりに安穏と構えていられるのは、せいぜい既存の出版産業・新聞産業くらいのものである。

電子書籍・電子出版は、遅かれ早かれ良かれ悪しかれ、なんらかの形でユーザー生成コンテンツ的な形態へと転換してゆく仕掛けが介在することになるだろう。そのときそこでやりとりされる商品やサービスに「書籍」や「新聞」や「マガジン」というような名が付けられることがあるかもしれない。だがたとえそうだとしても、あくまで名前の上での話だ。それは冊子体のそれとは多分に異なる経験をもたらす装置でなければならないのだ。

iPadと電子書籍(2/2)へ続く


柴野京子『書棚と平台』

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大学院の後輩(というのも失礼な言い方なのだが)柴野京子さんが著書を刊行される。『書棚と平台──出版流通というメディア』(弘文堂)である。書店という空間や、出版流通のしくみそれ自体がどのようにメディアとして機能してきたかを論じる。業界論評か国文学的研究がほとんどである現在の出版研究のなかにあって、メディア論的観点にたった貴重で興味深い議論である。


『思想』とグーグル和解

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グーグル・ブック検索に絡んで、グーグルと米国の著作者団体が締結する和解が、ベルヌ条約を介して日本にも波及し、春にはグーグルによる公告もなされた。2003年に出版したぼくの著書も対象になっているらしい。

グーグルが、書籍のデジタル化や公開を視野におさめたプロジェクトを開始したのは2004年だから、もう5年も前のことだ。ぼくはこの問題にかんして論文を書いたこともあるのだが、しかしこれまでは、日本の出版業界のなかでまじめに耳を傾けてくれるひとは、ほぼ皆無だった。いまになって日本の出版産業は大騒ぎしているが、これまでの経緯も文脈も理解できているようにはおもわれない。そのさまは、新型インフルエンザで大騒ぎしているようすと二重写しになる。

で、このグーグル和解に関連して、発売中の『思想』6月号(岩波書店)が小特集を組んでいる。中心にあるのは、2月に The New York Review of Books に載ったロバート・ダーントンのエッセイの翻訳だが、そこに実務家による解説や歴史家による論考がならぶ。

かくいうぼくも、論文を寄稿している。題して『〈書物〉の不自由さについて──〈カード〉の時代における人文知と物質性』。グーグル的な様相をどう捉えるべきか、というようなことについて、メディアの思想的問題として書いた。

今日日『思想』がどれだけのひとの手にとられるものかぼくは知らないが、この小特集は一読の価値があるとおもう。


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