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書物と出版 Archive

書評『荷風と東京』

紀伊國屋書店の運営している書評サイト『書評空間』に書評を書いた。投稿するのは、たぶん一年ぶりくらいではないか。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hasegawa/

とりあげたのは川本三郎さんの『荷風と東京』である。川本さんの街歩きエッセイが好きで、よく読む。この本も単行本で出たときに買ったのだが、なにしろ大部なのと、ぼくが怠慢なのとで、積読状態だった。少し前に岩波現代文庫版で上下二巻本として刊行されたのを期に読んでみた。これがすごくおもしろい。もっと早く読んでおけばよかった。それで書評を書きたくなったというわけ。

『書評空間』というサイトは、たとえば新聞書評や雑誌のそれとは違って、編集サイドからの働きかけが一切ない。書くも書かぬも、どの本をとりあげるかも、書き手の自由。なんら注文されない。締切もない。その代わり、督促もない。最近では担当者もよくわからないくらいだ。

そんなわけなので、ペースはひとそれぞれ。ぼくもとにかく気が向いたときに、とりあげたい本について、好きなように書く。

ただし「好きなように」という表現には多少の留保がつく。個人的なスタンスとして、書評はできるだけ読者や読書を拡げるようなものでありたいとおもっている。だから、せっかく執筆する場を与えてもらえる以上、少しでもその方向に貢献できるような書評を書きたい。そう考えている。

もっとも、かなり気合いを入れないとものが書けない性分なので、現実にはなかなか投稿数は増えない。それもまあ、よし。

大学図書館とデジタル化

大学図書館問題研究会のオープンカレッジという催しに講師として参加してきた。大学図書館のライブラリアンや関係者の勉強会のようなものらしい。今回与えられたテーマは、学術情報の電子化と大学図書館、というようなことだった。

講師といってもレクチャーするわけではない。ワークショップ形式の座まわしみたいなことをし、あとで他の2名の講師とともにパネルディスカッションでしゃべる。こういう形式で実施するのは初めてのことなのだそうだ。

お二人の講師は旧知の間柄だったようだが、ぼくとは初対面だった。先方はぼくのことなど知らなかっただろう。講師どうしによるパネルの発言では、教えられるところもあり、また、ぼくから見れば俗流メディア論としかいいようのない話も含め、異なる点もいろいろあった。しかしそれは立場や考え方が違えば当然ありうることであり、少なくとも両者に議論する用意がありさえすればいいだけのことだ。

いずれにせよお二人に共通していたのは、デジタル化する現在の状況を、少なくともそれぞれの立場において本人なりに引き受ける覚悟をはっきり持っていたことである。

いっぽう図書館関係の参加者たちのほうは、どうか。全般にいえば、ちょっと歯がゆく感じられたといわざるをえない。

もちろん大学図書館の現場では現場なりにそれぞれ悩みがあり、考えがあるのだろうということはわかる。それに真摯に向きあおうとしてもいるだろう。だから休日にもかかわらず、こうして勉強会に参加しているのだろう。

けれども、ではデジタル化をじぶんの問題として引き受けてゆくような覚悟がどれほどあるのか、となると、残念ながらそれはあまりはっきりとは感得できなかった。ともすれば、誰かに「答え」を教えてもらえるのではないかという姿勢がかいま見えるような気がしなくもなかった。そして、そういうことは今回にかぎらず、あちこちでよく見かける光景でもある。

だとすれば、二人の講師の、現実をじぶんの立場において引き受けるという態度こそが、今回の催しから学ぶべきことだというべきだといわねばなるまい。図書館員のみなさんには、これからの図書館をつくってゆくのはじぶんたちなのだという気持ちをもって、ぜひしっかりがんばってほしいとおもう。

BEAT公開研究会「電子書籍時代の教材」

今日はiPadの日本発売日ですね。こんなシンポジウムに登壇することになりました。明日開催。

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BEAT Seminar 2010年度第1回 BEAT公開研究会
「電子書籍時代の教材:誰が作りどんな形になるのか」
2010年5月29日(土)開催
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Apple社のiPadやAmazon社のKindleなど、電子書籍の流通基盤になる個人用
デバイスが普及し始めています。アメリカでは多くの教科書が電子化され、教
材の流通に革命的な影響をもたらす可能性があります。
当面、教科書や参考書などの電子化が進むでしょう。しかし、長期的に考え
れば、電子環境への移行によってもっと大きな変化が起きる可能性があります。
このセミナーでは「誰が作り、学習者にどう届けるのか」という流通システ
ムの変革と「電子環境ならではのマルチメディアとの統合」というテーマをと
りあげ、電子書籍時代の教材の新しい形について議論を深めていきたいと考え
ています。みなさまのご参加をお待ちしております。

■日時
2010年5月29日(土) 14:00~17:00

■場所
東京大学 本郷キャンパス
情報学環・福武ホール(赤門横)福武ラーニングシアター(B2F)
アクセスマップ>>http://www.beatiii.jp/seminar/seminar-map42.pdf

■内容
1.講演1 14:05-14:50
「電子書籍の衝撃」
佐々木俊尚(ITジャーナリスト)

2.講演2 15:00-15:40
「電子書籍時代のマルチメディア教材」
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)

3. 指定討論 15:40-15:50
長谷川一(明治学院大学 准教授)

4.参加者によるグループディスカッション 15:50-16:20

5.パネルディスカッション 16:20-17:00
「電子書籍時代の新しい教材の形とは」
司  会:北村 智  (東京大学 特任助教)
パネラー:長谷川一(明治学院大学 准教授)
宇治橋祐之(NHK青少年・教育番組部)
山内 祐平 (東京大学 准教授)

※iPadとKindleの体験コーナーを開設いたします。

■定員
180名(お早めにお申し込みください)
申込ページ:http://www.beatiii.jp/seminar/index.html

■参加費
無料

■懇親会
セミナー終了後1F UTCafeにて
参加希望者(¥3,000)

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iPadと電子書籍(2/2)

読書論といえば従前さまざまな蓄積がなされてきた。それらはそれぞれ、文芸批評や文化研究や認知科学など、基盤とする領域ごとに何系統かにわけられようが、いずれにも共通するのは、読書という一見受け身にみえる行為がじつはどれほど多様で創造的な営みであるかを明らかにしてきたことにある。

したがって、先述のようなユーザー生成コンテンツ的サービスと結びついた電子の「書籍」は、そのような多様性や創造性にある種の具体的な形を与えたものだと解釈することも、できなくはない。おそらく実際の開発にあたっても、そうした知見を下敷きにしているにちがいなかろう。

このときひとつの事実を看過してはならない。従来「読者」に経験されてきた「読書」の豊饒さは、いったん閉じられ固着されたテクストの上に成立していた、という事実である。ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいてはまったく事情が異なる。そこでは作品だろうがコメントだろうがつぶやきだろうがすべての言明は同列に扱われ、特定のテクストに特権が付与されることはない。すべては「ネタ」なのだ。読書の多様性や創造性はそれ自体がコンテンツとしてシステムにとりこまれ、矮小化されてゆくことを免れえないだろう。

これら二つの「読書」とよばれる経験は似て非なるステータスにある。すでにわたしたちはケータイやiPhoneで「読書」しているのだが、そうした行為は「読書」をより拡大させるとともに、「読書」を内側から解体してゆく。

そこで「汎用機」だ。

冒頭に述べたように、iPadは「汎用機」である──かのように見える。IT業界的にベタにいえば、ネットブックと同じカテゴリーにぶつけてきたのだから、当然ということになるかもしれない。

たしかにiPadは、これまでネットブックを拒絶してきたアップルの、このセグメントにたいするひとつの解答だといえる。別言すれば、アップルがここに商機をみているという証左でもある。ひととおりの作業ができてハンディ、安価にして貧相。それがネットブックの特徴だった。それらが小指をかけながらもとりこぼしてきたのと同じマーケットを見ながら、しかしiPadのアプローチはまったく異なる。というより、アップルにすれば、ネットブック・メーカーはマーケットをちゃんと把握できていなかったくらいということかもしれない。

では、アップルがiPadで開発を目論むマーケットとは何か。いってみれば、それはわたしたちの「日常」であり、そこでの身体である。

iPadにおいて前提されているのは、ビジネス用途やら電子書籍向けやらとかといった、産業的に縦割りにされた既存の区分ではない。そもそも制度的枠組みのどれかに対応させようという発想には、どう見てもない。そういう製品であるにもかかわらず、これを既存の枠組みの中から眺める者には、この製品が「汎用機」であるように見えてしまうのだ。

iPadで焦点となるのは、ごくふつうの日常生活を構成するふるまいのパターンである。通常の区分でいえば、それらはビジネスや家事や余暇としてそれぞれ別個の領域に分類され、ゆえにそれらが相互に共通性をもつことなど見落とされているだろう。しかしそれらをふるまいに着目すれば、領域を横断して共通するものを見出すことは、さほどむずかしくはない(拙著『アトラクションの日常』を参照)。

諸種の連絡や投稿、スケジュールの管理、メモをとったり管理したりすること、情報を検索して保存したり印刷したり共有したりすることや、写真や動画や音楽を再生したり、ちょっと手をくわえてまたネットに投げたりする。……こうした、さほど複雑ではない諸々の作業に属するふるまいにおいて必要とされる身体技法は、じつはそれほど多様性に富んでいるわけではない。だからタブレットという形状とマルチタッチというインターフェイスの組合せが利いてくる。

そして「読書」もまた、そうした日常的身体技法群のなかのひとつのアイテムにすぎない。少なくともiPadにおいては。

アップルははっきりと見切っている。「書物」をどうデジタル化するかなどという視点にさして展望は認められないことを。「読書」という行為に着目することで、それがわたしたちの生活を織りなすもろもろの日常的実践のなかに解消させられてゆくであろうことを。身体のレベルからこそ、書物と読書が長らく保持してきた特権性を解体しうることを。

AppleTVやiPhoneの発表時、ジョブズはアップルがテレビや電話を「再発明した」とことさらに強調したのだった。今回かれの口から「書物を再発明した」という台詞は聞かれず、代わりに飛びだしてきた言葉が、何あろう「リベラルアーツ」だった。それはつまり、こういうことである。

─了─

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iPadと電子書籍(1/2)

アップルからiPadが発表された。先月末のことだ。あれから二週間以上たつ。

日本の新聞・テレビなど既存マスメディアでは、電子書籍市場がいよいよ活気づくというような図式のなかで語られることが多い。出版業界もだ。米国で好調のアマゾンのKindleへの対抗馬というような意見もよく見かける。

間違いではない。けれども一面的で偏っているような気がする。

たしかにiPadにはそれまでアップルが取りこんでこなかった電子書籍リーダー機能が与えられている。iPadには最初から電子書籍リーダー用アプリケーションiBooksが含まれ、iTunesの電子書籍版であるiBookstoreも用意されている(日本では未整備だが)。ジョブズのプレゼンテーションでもKindleが引きあいに出されてはいた。

けれどもiPadは電子書籍端末ではない。ベタな言い方をするならば「汎用機」だ。電子書籍リーダー機能はいくつも具わる機能のうちのひとつの柱にすぎない。専用機対汎用機という図式は凡庸きわまりないとはいえ、ある種の本質を指し示してはいる。こと電子書籍にかんしては。

専用機でないのだからiPadは電子書籍端末ではない。この事実の意味はことのほか大きいのようにおもう。現状がどうであれ、iPadにたいするアップルの期待は、世間がふつうに想像する電子書籍、すなわちディスプレイ上で読書を提供する装置、という水準にとどまるほど謙虚であるわけがない。

電子書籍をたんにテクストがデジタル化された新聞・雑誌・書籍と考えるかぎり、それを講読したり閲覧したりする機能だけでは、ユーザーにたいし十分な訴求力を発揮しうるとはいいにくい。現在の流れからして、あらかじめあつらえられた情報をただ摂取するだけというのではなく、そこにユーザーがなんらかの形で積極的に参加するものでなければ、ユーザーに向かって新鮮なサービスをアピールできないだろう。現段階でiPadにはそこまでの用意はない。だがきっと視野に入れているはずだ。

別の角度から見てみよう。

デジタル化されたテクストをただ講読・閲覧する機能だけでは、商売としてさほど旨味はない。ユーザー生成コンテンツによってユーザーを引き込んだうえで、そのユーザーの属性を情報として吸いあげるのがこの種の商売の妙味である。そしてそのサービスは、リアルタイムで提供されることが望ましい。なぜならそれによってユーザーを少しでも長くつなぎとめておくことが可能となり、それゆえユーザーの行動情報を漏れなく根こそぎ収集できるからだ。(参照「リアルタイム・ユーザー生成コンテンツ批判」)

つまり冊子の「書籍」をただデジタル技術の上で組版し配信する程度の電子書籍では、メーカーにとってもユーザーにとってもあまり意味はないのだ。そんなもので満足とばかりに安穏と構えていられるのは、せいぜい既存の出版産業・新聞産業くらいのものである。

電子書籍・電子出版は、遅かれ早かれ良かれ悪しかれ、なんらかの形でユーザー生成コンテンツ的な形態へと転換してゆく仕掛けが介在することになるだろう。そのときそこでやりとりされる商品やサービスに「書籍」や「新聞」や「マガジン」というような名が付けられることがあるかもしれない。だがたとえそうだとしても、あくまで名前の上での話だ。それは冊子体のそれとは多分に異なる経験をもたらす装置でなければならないのだ。

iPadと電子書籍(2/2)へ続く

柴野京子『書棚と平台』

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大学院の後輩(というのも失礼な言い方なのだが)柴野京子さんが著書を刊行される。『書棚と平台──出版流通というメディア』(弘文堂)である。書店という空間や、出版流通のしくみそれ自体がどのようにメディアとして機能してきたかを論じる。業界論評か国文学的研究がほとんどである現在の出版研究のなかにあって、メディア論的観点にたった貴重で興味深い議論である。

『思想』とグーグル和解

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グーグル・ブック検索に絡んで、グーグルと米国の著作者団体が締結する和解が、ベルヌ条約を介して日本にも波及し、春にはグーグルによる公告もなされた。2003年に出版したぼくの著書も対象になっているらしい。

グーグルが、書籍のデジタル化や公開を視野におさめたプロジェクトを開始したのは2004年だから、もう5年も前のことだ。ぼくはこの問題にかんして論文を書いたこともあるのだが、しかしこれまでは、日本の出版業界のなかでまじめに耳を傾けてくれるひとは、ほぼ皆無だった。いまになって日本の出版産業は大騒ぎしているが、これまでの経緯も文脈も理解できているようにはおもわれない。そのさまは、新型インフルエンザで大騒ぎしているようすと二重写しになる。

で、このグーグル和解に関連して、発売中の『思想』6月号(岩波書店)が小特集を組んでいる。中心にあるのは、2月に The New York Review of Books に載ったロバート・ダーントンのエッセイの翻訳だが、そこに実務家による解説や歴史家による論考がならぶ。

かくいうぼくも、論文を寄稿している。題して『〈書物〉の不自由さについて──〈カード〉の時代における人文知と物質性』。グーグル的な様相をどう捉えるべきか、というようなことについて、メディアの思想的問題として書いた。

今日日『思想』がどれだけのひとの手にとられるものかぼくは知らないが、この小特集は一読の価値があるとおもう。

ハリー・ポッターとは何か

7月23日(水)はハリー・ポッター・シリーズ最終巻の発売日だった。各地の書店では、魔法つかいのとんがり帽子にマントをはおった売り子が登場したらしい。販促なのだろう。わが市川駅前の大杉書店でも、このくそ暑いさなか、初老の男性店主(?)が魔法つかいのコスプレで、なんとも恥ずかしそうな風情で店頭にたっていた。おつかれさまでした。

で、このハリー・ポッター現象とは何だったのか。ちょうどこの日にさる新聞社からインタビューをうけた。

ぼくの見方によれば、これはグローバリゼーションの文脈で理解すべき現象である。日本の出版産業にとってこのシリーズは、ガラパゴス化した日本のケータイ産業におけるアップルのiPhoneと似たような構図で理解できる。つまり、ハリー・ポッター・シリーズとはグローバル商品なのであり、その意味においてブロックバスターなのだ。だから、熱心に、あるいはなんとなく同シリーズを買ったり読んだりしたひとは、読者というより消費者とよぶほうがふさわしい。その膨大な(なにせ世界で4億冊だ)消費者のうちのいくらかは、読者に転生しうるかもしれない。だがそれは放っておいて自然になるわけではなく、それなりの手立てが必要だ。にもかかわらず、出版界も教育界も事態が理解できておらず、ただただ無為無策である。──という趣旨のことを、具体的なポイントを示しつつお話しした。どのくらい記事に反映されるのかはわからない。

取材のさいごに記者の方は、まるで池からあらわれた女神さまのように、こんな質問をした。どこか他社からもコメントを求められてますか? 「いいえ」と正直に答えたのは、いうまでもない。

隠喩としての人文系学術書

このところ、書評やらインタビューやら短い原稿やら、こまごました仕事をかかえている。発表されるたびに当ブログにてお知らせしようとおもうのだが、毎日ドタバタ過ごしているうちに、うっかり機会を逸してしまう。初めのうちは、こんなことではイカンと焦らないでもなかった。いまは「まあ、それならそれでよい」と気楽に考えることにしている。

そのひとつ、国立国会図書館が発行している『カレント・アウェアネス』という雑誌に「隠喩としての人文系学術書」を寄稿した。冊子のほうは、先ほどゲラを戻したから刊行までもう数日かかるとおもうのだが、ウェブ版のほうは先行して公開されている(こちらからどうぞ)。

2008年も半分過ぎた。年初にたてた計画の何割も達成できていない。ただ、そのための準備は、ある程度は積みあげることができたかもしれない。いまのぼくの課題は、世間で一般にいわれていることとは逆のことである。いかにして外部からの情報を遮断し、じぶんのための時間をもち、そこにじぶん自身を投じ、その状態を一定期間維持することができるか。

この間の大きな変化はもうひとつある。お酒を飲む機会を格段に減らしたのだ。いまじゃ原則として週2回しか飲まない。ふだん飲まないから、飲んでもすぐにまわる。20代のころに逆戻りしたみたいである。

大学出版会と大学図書館

すっごく長い名前のシンポジウムに参加してきた。「大学出版会と大学図書館の連携による「新しい学術情報流通の可能性を探る」」。久しぶりに慶應の三田キャンパスに足を踏み入れた。

あいにく別用のため前半しか出られなかったので、後半どんな展開になったかは知らない。前半にかんしていえば、具体的な取組みの事例が聞けたのがよかった。いくつか興味深い点もあった。機会があれば、もう少し詳しく教えていただけるとうれしい。

この手の催しは、90年代の米国ではたくさん開かれていた(それでけっきょく何が得られたかはともかく)。聞けば、日本では初めてのことだという。

手前味噌になるが、ぼくが『出版と知のメディア論』(みすず書房)を出版したのが2003年だから、ようやく現場レベルでこうした試みが行われるようになってきたのだなとおもう。なんにせよ、よいことである。

大学出版会と大学図書館は、同じ大学という制度に根差しているにもかかわらず、利害の対立する面や、成り立ちに根本的な違いがあって、これまで必ずしも相互のつながりが強かったわけではなかった。というか、ほぼ没交渉だった。だから、まずはおたがいの言うことをよく聴くことが大切だろう。陰ながら励ましのメッセージを送らせていただきます。

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