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アニメ
映画『借りぐらしのアリエッティ』
- Aug 19, 2010 10:00
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ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。
ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意見である。
正直にいって特別な新味があるわけではない。ないのではあるが、昨今の多くの子ども向け作品のように安易に「魔法」に頼ったりすることなく、とにかく実直に登場人物の心情を表現することに心を砕いていた。心情を描くうえでは、たとえば人物の表情やしぐさだけではなく、草花や雨や物音など、映画的なさまざまな表象の描き方を駆使する必要があるし、ショットとショットのつなぎ方にも、工夫が必要だ。こうした点にかんしては、どれも類型的な描き方であるとはいえ、まずまず成功していたといえる。
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映画『トイ・ストーリー3』
- Jul 21, 2010 11:49
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「トイ・ストーリー」シリーズの最終回(?)の主題は、成長と別離だ。
子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離はアメリカの現代文学がくりかえし描いてきた主題であり、ハリウッドでも若者向け作品を中心にやはり同様に反復されてきた。この主題にピクサーがどう挑戦するかが、本作品の見どころである。
結論を喩えていえば、一勝一敗といったところか。まず一勝のほうから。
主人公の人形は、大学入学を控えるまでに成長した持主の少年と、いよいよ別離を覚悟しなければならない時期をむかえることになった、という設定から物語が始まる。わかれたくない、一緒にいたい、という気持ちと、しかしそこにはじぶんたちの居場所はないという現実とのあいだで、少年も、おもちゃたちも、それぞれが烈しく揺れ動く。おもちゃと子どもとは、もとより棲む世界が異なっている。おもちゃはいつまでもおもちゃであるが、子どもはやがて大人になる。両者の蜜月はいつか終わる。それをそれぞれの仕方で受け容れることが、つぎのステップへつながる。
その意味でこの作品は、ウィニー・ザ・プーの変奏、もしくはリベンジである。
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映画『よなよなペンギン』
- Dec 29, 2009 12:06
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マッドハウス製作、りんたろう監督の新作。製作費15億というから日本映画としては大作だが、作品の柄としては小品である。
テレビ番組の劇場版でもう一儲けという企画だらけの日本のアニメーション映画界にあって、マッドハウスはときおりオリジナル企画をぶつけてくる(ただし作品の質はさまざま)。この姿勢はもっと評価されるべきである。
本作品はフルCGの意欲作だ。主人公はじめキャラクターのデザインがかわいらしく、設定などにも工夫が見られるが、全体としてはいまひとつ膨らんでいかないまま終わってしまう。前半は部分的にすばらしいシークエンスもあるとはいえ全体としては退屈であり、後半の活劇にいたってはかなり萎む。
なによりも問題なのは、主題と物語が凡庸であることだ。プロットが類型的でシンプルなのはかまわないが、それを厚くふくらませることができていない。
登場人物の動きぶりやカメラの動きは、いかにもCGがんばってますといった趣である。しかしそうした運動はただそれだけにとどまり、物語に絡むことはほとんどない。いたってまっとうな──逆にいえば意外性に乏しい──ピクサーのCG作品のショット構成とは異なり、ロングショットが多い。ちょっと人形アニメーションふうの味わいだ。それを活かす術があれば、なおよかったのだけれど。
エンディングはタイトルバックも音楽も工夫があって愉しい。前の座席にいた小学生くらいの姉妹が踊りだし、「アミーゴ!」と叫んだ。
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映画『バッタ君町に行く』
- Dec 26, 2009 11:16
- ミュージカルという問題 | 映画を観る
アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。
まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代(1941年公開)の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている(日本の「アニメ」の大半は(全部ではない)、もうこのことを忘れてしまっている)。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。
動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。
物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。
したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。
その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。
ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。
今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。
なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。
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映画『カールじいさんの空飛ぶ家』
- Dec 19, 2009 12:37
- アトラクションの日常 | 日々のエッセイ | 映画を観る
煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。
この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則としてアニメーションだけで描ききる。その手際のよさだけでも観るに値する作品である。毎回いうのだが、かれらが映画とアニメーションをどれほど勉強しているかを端的に示しているからだ。
けれども、そこに続いて展開される物語の本体のほうには、特段すぐれた点を見出すことはむずかしい。はっきりいえば凡庸の域を出ない。もちろんそこは安心のルクソー印。夢とスリルと冒険の詰まった成長譚として、多少の破綻はみられるものの、いつもながら、ていねいにつくられている。
成長譚として興味深いのは、成長するのがひとりではない点である。それは空飛ぶ家に「味方」としてかかわったすべての関係者がそうであり、当然75歳のカールじいさんも含まれていることである。すでに長い人生経験をもつ人物が成長するという意味では、『クリスマス・キャロル』的だともいえなくもない。いずれにせよ、ここに登場する人物や動物は、何らかの欠落をかかえて社会的に周縁に追いやられたひとびとであって、そうしたところに焦点をあわせる視点が児童文学の常道であることも想起されてよいだろう。ピクサーはその伝統とメソッドをきっちり踏襲している。それが手堅い物語構築をもたらす土台になっている。今回は手堅すぎたというか、もうひとつアイディアが足りなかったようにおもわれる。
とはいえ全体は活劇仕立てとしてしっかりつくられているから、誰でも安心して手に汗にぎって鑑賞していられるだろう。巨大飛行船や、無数の風船をくくりつけて雲間を飛んでゆく家のイメージに、ラピュタやハウルの影を読み込むことも、そうしたければ、いくらでも可能だ。
ぼくが観たのはピクサー初という3Dの字幕版。昔の立体映画やら以前に存在したディズニーランドのアトラクションと同様、受付時にわたされる『サンダーバード』のブレインズみたいなゴツいフレームの専用眼鏡をかけて観る。ぼくのようにふだんから眼鏡をかけている人間にとって、二重に眼鏡をかけなければならないのは、けっこう難儀である。3D代として300円が上乗せ徴収されるが、出費に見あう効果が得られるかどうかは微妙といわねばなるまい。
本編上映前に短編が併映される。いつもながらサイレント仕立ての小品で、物語としてもよくできている。
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映画『サマーウォーズ』
- Aug 18, 2009 17:48
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はるばる船橋のららぽーとまで行き、おたく系青少年に囲まれつつ『サマーウォーズ』を観た。ゼミ生や卒業生の推薦作である。
細田監督の作品は『時をかける少女』を観たことがあるだけだ。作品自体はよくできていたが、そのときの周囲の盛りあがり方は正直あまり気持ちのいいものではなかった。前作の評価をうけたためか、今回はその傾向がより強まっている印象である。個人的には、アニメか実写かという区別にはなるべくこだわらず、純粋に作品として観ることを心がけようと決めて、ららぽーとまで行った。
そして今回も、よくできた作品だった。事前にあった引き気味の気持ちは、オープニングのタイトルバックで一気に吹き飛びました。これはみごと。(この段落若干加筆。090819)
仮想世界の混乱が現実世界に再帰するというのは、大昔からある定型パターンである。細かい設定から個々のシークエンスのつくり方まで、定型どおり。その意味では既視感ありまくりだが、そうした定型を組みあわせる仕方がうまくてていねいなのがよい。だから、物語がしっかり構築されているし、物語られている。このあたり、近年しばしばアニメ業界からすぐれた作家が輩出されるにあたり、かれらがどんなフィールドで鍛えられてきたかを如実にあらわしているといえよう。
物語上の肝は、信州上田の陣内家という大家族の設定にある。この大家族という人的ネットワークが、電子ネットワーク内に構築されたもうひとつの世界(OZとよばれる仮想世界)と、わたしたちの身体が埋め込まれている現実社会とのあいだを媒介するのだ。それは、先端と現実という二つの極にたいして、伝統というもうひとつの極を挿入する役割をはたす。具体的には、伝統的な服装、建築物、花札などという、いかにも「日本的」なイメージを前景化させた表象物として、現実と仮想という二つの社会の双方に浸透をはかる。(この段落若干加筆。090820)
実際、絵としての表現でも同様だ。情緒たっぷりに描かれる自然や街並み(現実)にたいして、仮想空間内は、村上隆の絵のように意図的に平板かつ線画を強調して描かれる。人物はそのどちらとも異なる、立体感なしにいかにもアニメといった様相で描かれる。それは、現実と仮想、どちらの空間とも完全になじむことなく、どこかで違和が解消されきらない存在である。
ただし、こうした微妙な差異や齟齬は、「家族」やら「守るためにたたかう」といった類いの台詞によって、わかりやすい「メッセージ」に置き換えられて塗り込められがちな傾向はみられる。そもそも「家族」やら「愛する者」やらを「守る」という美辞を「国家」に無媒介的に横滑りさせることで国民を搾取動員することは、国民国家の成立運営上の常套手段だろう。わかりきったことであるとはいえ、もう一度押さえておくべきではないか。
憧れのセンパイとのからみは、全篇これお約束だらけなのが笑える。入浴シーンやら、キューティーハニー顔負けの着せ替えシーンなど、もうサービス満点。それにしても、前作のマコトといい、今回のナツキといい、この手の名前はいまやすっかり女の子用なのね。
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映画『ヤッターマン』
- Mar 14, 2009 14:35
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『ヤッターマン』(三池崇史監督)を観た。
アニメの名作の実写映画化というと、設定だけ借りて、実際にはまったく別の物語をつくるケースが多い。しかも得てしてそれで失敗する。この映画はその正反対。1970年代のアニメの設定とパターンをまるっきりそのまんま忠実に実写にしている。あまりに忠実なために、その過剰さがかえって異彩を放つ。この姿勢が、本作品をなんとも無茶で、ユニークなものに仕立てあげている。
登場人物やメカ、変身の場面、決まり文句、物語のパターンといったアイテムはもちろん、それぞれのパターン化した場面の構図やカット割りまで、ほぼ70年代のオリジナル・ヤッターマンそのままだ。
この姿勢は徹底されており、物語も基本的にアニメ2.5本分で出来ている。すなわち、いきなり山場の戦闘シーンから始まり、ドロンボーたちの敗走とお仕置きで、まず一区切り、そのあと、かれらが仕切り直して新メカをこしらえ、また戦闘シーン→敗走→お仕置き、というパターンを二度くりかえす。毎週放送というオリジナルのリズムを踏襲しているわけで、それはご丁寧にも最後の最後まで貫かれる。
こうした忠実さの過剰は、『ヤッターマン』の本質が、主題やプロットというよりも、お決まりのパターンの無限の反復にあるということを、それこそ過剰なまでに強調する。それが、本作品がオリジナルにたいして身をもって示す批評であり、リスペクトであろう。
してみると、三池監督が好んで描き、この作品にも充満している暴力やエロスの過剰さは、無声映画のスラップスティック・コメディのもつ過剰性に直接つながっているのかもしれない。
オリジナル・アニメと同様、ヤッターマンの二人よりもドロンボー一味のほうが強く印象に残る。生瀬勝久のボヤッキーと、ケンドーコバヤシのトンズラー、どちらもすばらしい。話題になった深田恭子のドロンジョも、いい感じだ。ただし、大人っぽい色気というよりも、とりわけ声や仕草において、ややロリロリしたかわいらしさのほうが滲みでている。
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映画『ウォーリー/WALL・E』
- Dec 12, 2008 10:34
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ピクサーの作品はどれもよくできているが、本作品は一頭地を抜く。SFエンタテインメントとして十二分に愉しめるというだけではない。ピクサーのアニメーション作家たちが、どのような映画的伝統のなかで生きているか、あるいはそれを引き受けようとしているか、そしてそのためにどれほど勉強を積み重ねているかということを嫌というほど思い知らされる。それが『ウォーリー/WALL・E』である。
*
キャラクター。状況設定。素材。物語。そして主題。どれをとっても、斬新なものはひとつとしてない。あらゆる要素が類型的であり、定型の枠を一歩も踏みはずしていない。おどろくべきことは、にもかかわらず、作品としてここにキュートなオリジナリティが確実に認められることである。
成功の理由はどこにあるか。それは、基本的な類型にたいしてあきれるほど忠実かつ丁寧な姿勢を徹底させていることである。
この姿勢はまず、個々の要素にたいして例外なく貫かれている。本作品を構成する膨大なショットのなかに手抜きや惰性を発見するのは至難だろう。たとえば、スリープしたイヴをウォーリーがつれ歩くシーン。傘をさしたとたん落雷するシーンはわざわざ二度くりかえされる。ベンチから転げ落ちたウォーリーは側らの電柱に頭をぶつけるが、ここでもご丁寧に街灯の古電球が落下してウォーリーの頭を打つ。
これらはもちろん、手垢がびっちりこびりついたと形容できるほど古典的なルーティンの表現である。しかし本作品の画面を埋め尽くすのは、全篇これルーティンばかりなのだ。このことは、サイレント時代のスラップスティックから連綿とつながる映画的伝統をこの作品が引き受けようとしていることを意味する。その伝統とはすなわち徹頭徹尾「動くこと」、デフォルメされ類型化された身体のふるまいの表現にほかならない。
このことは、アニメーションという表現様式の根源とも共振している。線画であれ人形アニメであれ、ようするに動かないはずのものに運動を与えることであり、それが実現されることへの興味と歓びである。その姿勢は本作品のあらゆる細部において体現されている。だからこそわたしたちは、物語が進行するにつれて、登場するロボットたちのなかに「生命」が宿っているという感覚に信頼をおくようになってゆく。
さらに、類型への徹底した忠誠は、これら諸要素を組織するその仕方にたいしても同様に貫徹されている。先述した傘のシーンをはじめ、何気なく描かれるシーンや、そこでさらりと登場するアイテムは、けっしてその場限りで使い捨てにされることがなく、大小さまざまな伏線となって活きてくる。それらが複合することで、筋としてはシンプルでありながら、物語としては豊かなテクスチャーを織りなしているのである。
*
定型どおりの物語は、『E.T.』を逆まわしにして、『スターウォーズ』や『2001年宇宙の旅』など往年のSF映画の風味をふんだんにまぶしたようなものだといえばよいだろうか。基本構造は、身から出た錆によって世界から疎外された人類が、再び創世をはかろうとする神話である。
といえば、ここに宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を重ねあわせたくなるひとも少なくないだろう。じじつ鍵となるアイテムは、その設定も形象も28年前のあの名作のアンサーであり、それはエンドロールの演出においても確認することができる(ただし、新たな世界が機械との幸福な共存として想像される点でナウシカとは決定的に異なる)。主人公に寄り添う小さな相棒の存在や、窮地に陥った主人公をその社会から排除されている者たちが手助けするのも定型どおりなのだが、そのようすは『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪たちを彷彿とさせる。
こうした点はその気になればほかにも見出せる。これらに注目して、ここに日本のアニメーション作品の影響を見出すこともできなくもないし、おそらく一定の影響関係はあると考えるべきだろう。
だが、注意すべきだ。この作品は、いわゆる「ジャパニメーション」(なんと恥ずかしい言葉であるか)の大半とはまったく異なる地平にたっている。先述のとおり、これは映画とアニメーションの圧倒的な厚みの上にどのような創造を成立させることができるかに挑戦する作品だ。その態度は、日本のアニメーションと比べるとほとんど対照的とさえいえる。後者は一部の例外を除けば基本的にそうした映画やアニメーションの伝統から切れたところで成立している。じじつそれらの作品は運動にほとんど興味を示さない。つまり、本質的にマンガなのである。
日本のアニメーション作品は世界に誇るべき芸術だというような言説はあとをたたず、今日では役人さえもがそれを真に受けている。だが事はそう単純ではない。
*
オープニングでいきなり「Put On Your Sunday Clothes(日曜日は晴着で)」がかかり、それもまた物語上重要な役割を与えられる。ミュージカルやミュージカル映画の歴史について多少とも知識のある観客は、しかしきっと戸惑うことだろう。なぜここでとりあげられる映画が『ハロー・ドーリー!』でなければならないのか。作品としての質において、どう贔屓目にみてもすぐれているとは評価しにくいからだ。人類の再創世をかけるのなら、ほかにもっとふさわしいミュージカルがいくらでもあるだろうに。
舞台版(1964)映画版(1969)を問わずこの作品は、遅れに遅れてやってきた黄金期スタイルのハリウッド・ミュージカルであり、製作時点ですでにノスタルジアの対象であって、しかも(興行的にはともかく)内容的にも失敗作といわざるをえない。『ハロー・ドーリー!』の作曲家ライオネル・ニューマンが本作品の音楽トーマス・ニューマンの縁戚らしいので、その関係で選ばれたということらしいのだが考えようによっては、そのオールド・ファッションぶりこそが『ウォーリー』の主題にぴったり適うということなのかもしれない。
本作品はひじょうに映画らしい映画であり、アニメーションらしいアニメーションである。したがって本質的にサイレントだ。鑑賞者の年齢を問わず、字幕版での鑑賞をおすすめする。ぼくは2度目には子づれで観にいった。映画館を出てきたあと、小学生の《なな》と話をしていて、「えっ? 字幕があったのだっけ?」とびっくりしていた。
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映画『崖の上のポニョ』
- Aug 16, 2008 18:50
- メディア論的に考える | 映画を観る
最近一本の映画を二度観ることが多い。《あ》によれば、昔からそういう癖だという(そうだったっけ)。この作品もやはり二度劇場へ観にいった。二度目のほうがよかった。
内容的に突っ込むべきところは少なくない。てんこ盛りの諸要素はうまく噛みあわず、全体にちぐはぐ。観終わった《あ》は、どの登場人物も魅力的でなくて困ったと感想を述べた(子どもたちのお気に入りはフジモト)。5歳の男の子はやけに分別くさく、それ以外はじぶんのことだけで手いっぱいというひとたちばかりがあらわれる。物語は、つけるべきところでメリハリが十分に利かせられておらず、イコライザーの調整がうまくいっていない録音を聴くみたいにまどろっこしい。
それに、またしても「魔法」だ。なにもかも劇中で説明をつけるため、話のつじつまをあわせるための文字どおりの「魔法」なのかというのと、そうでもない。「魔法」をもちだされても話はいっこうに腑に落ちず、この設定に物語上いかなる必然性があるのかよくわからないまま1時間40分ほどの上映が終わってしまう。終わっても、素直に「よかった」という気持ちにはなれない。なんともいえず困った感情が残る。
しかしそれでもやっぱり、この作品はチャーミングだ。では、その「チャーム(魅力)」はどこに宿っているだろう? たぶんそれは、物語や人物やメッセージを追っかけているだけだと理解しにくい性質のものなのだ。
スクリーン上で圧倒的な展開を見せるのは、手書きの線への拘泥と、その線を動かすことへの尋常ならざる情熱である。それはたとえば、どうどうと逆巻く海や波の動き、物語の背景でわさわさと蠢く海の動物たちのようすに顕著に見てとることができる。あるいは他の宮﨑作品と同様、日常のなにげない身体のふるまいをするどい観察眼によってとらえ、それを独特のデフォルメをくわえつつ丹念かつ仔細に描いてみせることも同様だろう。
これらは一般には、CG全盛時代におけるジブリ的ないし日本アニメ的なアプローチなどというように、物語やメッセージとは区別された技術的な水準におけるひとつの逸話として理解されるかもしれない。じじつ監督の宮﨑駿自身がそう語り、メイキングもののテレビ番組や雑誌が好んでとりあげてきた。そうした面はたしかにあるだろう。でも、それだけではない。
手書きの線画を動かすとは、ようするにパラパラマンガである。ノートのはじっこに少しずつポーズを違えた絵を描き、ページをパラパラとめくる。するとその絵が動きだしたかに見える。これをパラパラマンガとよぶ。本作品は、劇場用長編映画として巨額の資金を投じて制作された「大作」にちがいないが、その実は全編パラパラマンガなのだ。本作品のチャームの源泉は、ここにある。そしてこの点において、今日におけるもっとも前衛的な志向性を体現した作品のひとつであるといわねばなるまい。
ドキュメンタリーであれ、いわゆる芸術映画であれ商業映画であれ、たいていの映画は「映画」の枠組みの内部で撮られる(テレビドラマなども同じ)。例外はほぼなく、つくり手も観客も評論家も誰もそのことを疑ったりしない。その枠組みの内側にどっかと座り込み、座り込んでいるという事実すら忘れたうえで、出来の良し悪しや興行収入の多寡を競い、「感動」したかどうかだとか、演技のうまさだとか、作品のメッセージだとか、参照すべき作品は何だとかといった議論をかわす。線の描き方や動かし方も、CGやVFXといった話と同じく、物語やらメッセージやらを語るための装置にすぎないと前提したうえで、せいぜいマニアックな技法上の問題ととらえるにとどまるケースがほとんどだ。
この作品はちがう。アニメーションという立場に立ちながら「映画」の枠組みの内側からその限界に向けて接近し乗り越えようとしている。あるいは、アニメーションという立場から映画をもう一度発明しなおそうとしたといってもいい。当事者にはそんなつもりは毛頭ないだろうが、すぐれてメディア論的な企てだといえる。
そもそもアニメーションと実写のあいだの境界線は一般におもわれているほど明瞭ではない。最近ではたとえばウォシャウスキー兄弟の『スピードレーサー』(なんともひどい作品)を想起すればいい。誰がみても、もう実写だCGだと区別することにほとんど意味は感じられまい。興味深いのはウォシャウスキー兄弟がこの作品中に、主人公の少年が教科書の端に落書きしたクルマの絵をパラパラマンガで動かすシーンを挿入するのを忘れなかったことだ。
パラパラマンガは映画のもっとも原初的な様態のひとつである。アニメーションであれ実写であれ、動きそのものは静止した映像を連続提示することでしか得られない。その事実を、多くのひとはすっかり忘れている。だが、多くのひとが忘れ自明視しているものにこそ、鋭い目が向けられなければならない。ふだん自明視しているみずからの拠ってたつ世界の成り立ちこそ根源的な地平なのであり、それこそが深く掘り抜くべき地平なのだ。
だから、ここで描かれる世界観、人物、物語などといった表象は、たんにメッセージを代理するという立場にとどまって満足してはいない。扱われる題材、描かれる物語、つくった者や観た者が語るメッセージといった諸々は、この作品が壮大なパラパラマンガであるという成り立ちと密接に、いや不可分に関係しており、この点を抜きにはとらえられない。この作品はしたがって、総体として観る者に一個の新たな性質の経験をもたらすことを志向した作品であると考えるべきだろう。
前作『ハウルの動く城』はいったい何がやりたいのか理解に苦しむつらい作品だった。子どもたちがいまでも話題にするのはカルシファーが「そうかなあ」といって気をとりなおすシーンだけという現実が端的にそのことを示している。これにたいして今回は、少なくとも何をやりたいのかははっきりしている。明解であって、しかも根源的だ。
ぼくにとってこの作品がチャーミングなのは、そのような意味においてである。もっとも商業性を要請される性質の作品においてもっとも根源的なアプローチにいどんだ監督以下スタッフ一同に敬意を表したい。
ただし、もちろん本作品において、そうした企てが首尾よく成功しているかといえば、そうではない。『千と千尋の神隠し』の方向性へ先祖返り──あるいは地金が露呈──している部分もある。しかし企てとはそのようなものだ。それでもあきらめることなく、あの手この手であらたな企てに赴く。おそらく、それが創造という営みの根幹をなすのだ。
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映画『時をかける少女』(細田守監督)
- Jul 20, 2006 19:57
- 映画を観る
細田守監督の『時をかける少女』は、なかなか勇気ある映画化だといえる。
筒井康隆の原作が発表されたのが1967年。それから約40年のあいだに、映画やテレビで何度も映像化され、南野陽子や内田有紀やモーニング娘。といった、そのときどきの人気アイドルが主人公「芳山和子」を演じてきた。こうしたアイドル定番ものの先駆けとなったのは、原田知世が主演し、大林宣彦監督が撮った1983年の劇場版である。この1983年版は昨今伝説的などと持ちあげられていたりもするようだが、当時の原田はまったく表情がコントロールできず、見ているほうがヒヤヒヤと心配になるような演技ぶりであり、しかも脚本は冴えず演出は自己満足的だった。しかし出来のいかんはともかくとして、この大林版『時をかける少女』が、その後につづく当代の人気アイドルをつかった定番作品のひな形となったことはたしかだ。それを、またしても、あえてアニメで劇場映画化するという決断には、多少とも冒険的な判断が介在しただろうと想像される。同作品の映画化は、じつにこれが三度目。『オペラ座の怪人』なみである。
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