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	<title>散歩の思考 : SwingBooks.jp &#187; 映画『Space Battleship ヤマト』 | 散歩の思考 : SwingBooks.jp</title>
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	<description>明治学院大学文学部芸術学科准教授、長谷川一のブログ。</description>
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		<title>映画『Space Battleship ヤマト』</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Dec 2010 01:00:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
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		<category><![CDATA[宇宙戦艦]]></category>
		<category><![CDATA[戦争映画]]></category>
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		<description><![CDATA[太平洋戦争に敗けてから65年。この間日本ではおびただしい数の特撮やアニメ作品がつくられてきた。そのかなりの割合を、なんらかの形で「戦争」を描く作品が占めている。この事実は何をあらわしているのか。 考えようによっては、戦後 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>太平洋戦争に敗けてから65年。この間日本ではおびただしい数の特撮やアニメ作品がつくられてきた。そのかなりの割合を、なんらかの形で「戦争」を描く作品が占めている。この事実は何をあらわしているのか。</p>
<p>考えようによっては、戦後の日本社会は、65年前のあの敗戦をそのまま事実として淡々と受け入れることができず、特撮やアニメ作品という形を借りて、あの戦争を意味づけようとするシミュレーションを重ねてきたのだともいえる。</p>
<p>その代表的な作品のひとつにあげられるのが『宇宙戦艦ヤマト』だ。</p>
<p>アニメ番組・映画の実写版ということで話題らしい。だが見どころは、木村拓哉や黒木メイサや実写のヤマトだけではない。</p>
<p>もともとこの作品は、70年代の世界認識をもとにつくられている。もとのテレビ版には、1945年4月、旧海軍の戦艦大和が沖縄特攻に出かけ、坊の岬沖で米艦載機の攻撃によって撃沈される場面が描かれていた。22世紀末を舞台にした『宇宙戦艦ヤマト』とは、あのとき沈んだ大和、そして敗戦した日本にたいし、あらためて「意味ある生（と死）」を付与しようとした語りだったのだといえる。</p>
<p>そのような「往年の名作」は、21世紀において、どのように解釈されうるのか。あれから40年が経過し、その間に世界はすっかり異なる様相を見せるようになってしまった。そうである以上、これもまた重要な見どころであるはずだ。</p>
<p>そして皮肉なことにこの作品『Space Battleship ヤマト』は、70年代ナショナリズム的な語りを21世紀のグローバル時代にそのまま持ち込むと、テロの論理になってしまうということを、図らずも実践してみせることになってしまった。</p>
<p></p>
<p>地球に攻撃をしかけるガミラス星は、圧倒的に強大な力をもって極悪非道の限りを尽くす絶対的な悪として描かれる。げんにガミラスの宇宙船は不定形というか、それ自体が怪獣のようであり、あらわれる兵士たちも個性をもつ者としては描かれない。のみならず、明確な姿形も与えられておらず、それは「異形のもの」、われわれとは徹底的に異なる他者として表象される。</p>
<p>もちろん異者をこのような形で「他者」と表象することは、じぶんたちのことを「被害者」としてのみ捉えようとする視線と表裏一体である。</p>
<p>したがって、地球の「平和」をとりもどすためには、絶対悪であるガミラスにたいしてなら何をしてもいい。地球の者から見れば、われわれはガミラスに一方的な暴力を受けている被害者なのであり、それに対抗することは明白な「正義」なのだから。地球を「守る」ためには、ガミラスは最後のひとりまで抹殺したところで、かまわない。そして実際、ガミラス星ではその中枢を徹底的に破壊する。ここでは、近年のこの種の戦争映画はしばしば同じような役まわりを担う柳葉敏郎が、みずからの命を賭して、その任務を遂行する。</p>
<p>そして最後は「特攻」である。「特攻」とは、いうまでもなく太平洋戦争末期に旧日本軍がとった、もはや正規軍とはいいがたい、戦術ともよべない戦術を淵源とした言葉であるが、ここでは、圧倒的な「敵」を前にして、みずからの生命と引き換えに「敵」の抹殺を目論む行為のことをさしている。</p>
<p>そのような「特攻」という行為を、「愛する者を守る」という大義名分にもとづく「自己犠牲」として語ろうというのは、前回の投稿「<a href="http://swingbooks.jp/2010/12/04/yokaren">予科練平和記念館</a>」でも述べたとおり、国民国家による国民国家のための典型的な言説パターンである。それがここでも反復される。むろん劇場版の第2作（という扱いでいいのかな）『さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち』（1978）の踏襲であろう。</p>
<p>そして本作品での「特攻」もまた、主人公・古代進の「自己犠牲」ぶりが礼賛されるように描かれるわけであるが、同時にそれは、かれらによって母星が破壊されたあと、流浪するほかなくなったガミラス星の最後のひとりまでをも抹殺するための破壊行為でもある。いいかえれば、ここにおいて「民族浄化」を貫徹してしまうのである。</p>
<p>こうして、古代による長々とした演説が主張するドメスティックな「愛」と「自己犠牲」の論理は、自爆テロのそれと何も変わらないことになってしまう（ちなみに太平洋戦争の旧日本軍によるいわゆる「特攻」は、国民国家間の戦争でのことであり、近年の自爆テロと同列に語ることはできないはずだ）。</p>
<p>以下、具体的な指摘をいくつか。</p>
<p>作劇について、基本的な姿勢は支持したい。もとの作品の基本的な設定・ストーリーを踏襲する姿勢は評価されるべきだ。往年の特撮やアニメの名作をリメイクする試みは近年いくつかあったが、多くが設定やストーリーを大幅に変更してしまい、結果としてつまらない作品になってしまうケースが少なくなかった。本作品では、もとの作品にたいして十分な敬意が払われており、いわゆる名台詞や名場面もきちんと実写でやってみせている。</p>
<p>とはいえ、いくつか変更を施している箇所もあり、それらはいずれも作品の要となっている。最大のものは物語の設定上の変更点にある。つまり、なぜヤマトはイスカンダル星をめざすのかという、旅の「目的」である。これについては、もしかすると賛否が分かれるところかもしれないが、ぼくはなかなか興味深く、評価すべきポイントであるようにおもう（ただし、もっとうまく展開できたはずだが）。人物設定のうち、何人かが女性に変更されているが、これもおおむね成功といっていいのではないか。明らかな失敗は、高島礼子の佐渡先生だけだ。</p>
<p>しかし難点は演出である。ドラマを構築できているとはいいがたい。ひとつのシークエンスにひとつの意味を貼りつけるばかりなので、ひどく記号的である。まるで漫画をひとコマずつ見ているみたいで、シークエンス間のつなぎから流れが失われてしまっている。それに歩をあわせるようにして、演技も全体に大芝居である。艦橋など室内の場面が多く、演出の力量がむしろ露わになってしまった感がある。</p>
<p>脚本は説明が多すぎ。プロット構築において、いちおう伏線は定石どおりに張っているのだが、いずれもちょっと弱い。ストーリーの進め方にもメリハリがない。ヤマト発進の場面などきわめて大事なカタルシスを演出してもらいたいのだが、なんだか、あれよあれよというまに出発してしまう。</p>
<p>というわけで、作品の出来については、案の定というべきか、疑問符がつきまくる結果であった。それでも、まあ、アニメの名作を正面からリメイクに挑戦すること自体は、けっして悪いことではない。こうなったらもう、つぎは『機動戦士ガンダム』の実写版しかあるまい。</p>
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		<title>映画『借りぐらしのアリエッティ』</title>
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		<pubDate>Thu, 19 Aug 2010 01:00:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[ジブリ]]></category>
		<category><![CDATA[借りぐらしのアリエッティ]]></category>
		<category><![CDATA[床下の小人たち]]></category>
		<category><![CDATA[米林宏昌]]></category>

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		<description><![CDATA[ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。 ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。</p>
<p>ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意見である。</p>
<p>正直にいって特別な新味があるわけではない。ないのではあるが、昨今の多くの子ども向け作品のように安易に「魔法」に頼ったりすることなく、とにかく実直に登場人物の心情を表現することに心を砕いていた。心情を描くうえでは、たとえば人物の表情やしぐさだけではなく、草花や雨や物音など、映画的なさまざまな表象の描き方を駆使する必要があるし、ショットとショットのつなぎ方にも、工夫が必要だ。こうした点にかんしては、どれも類型的な描き方であるとはいえ、まずまず成功していたといえる。</p>
<p></p>
<p>しかし物語の語り方がぎこちない。前半はひじょうにまどろっこしい。ディテールを見せたいのはわかるが、話のほうがなかなか見えてこない。中盤以降は一転して話を急ぎすぎる。展開を語るのに忙しく、また場面の描写が不足するぶんを台詞で補うので、芝居というより説明がちになってしまう。アリエッティの母やスピラーなどは、ほとんど話を展開させる都合上登場したとしかおもえない扱われ方だ。結果として、少年にせよアリエッティにせよ、かれらがなぜ成長するのか、その内面の変化のポイントがよくわからない。</p>
<p>いろいろと見せてくれる凝ったディテールを、もっと物語にからめて活かしたほうが、物語がくっきりと立ったのではないか。たとえば髪をとめるクリップやまち針などは、重要なアイテムなのだから、やはりきちんと伏線を張るべきだとおもう。</p>
<p>原作『床下の小人たち』については、ぼくは未読だが、《あ》は子ども時代からの筋金入りの愛読者。彼女の感想は、いまひとつのれなかった、というものだった。原作でおもしろかったのは小人たちの生活のディテールだった。たしかに映画でもそこを重点的に描いているのだが、ディテールを扱うスタンスがちがい、ただの舞台設定に退いていた。そこが駄目だったという。なかなか手厳しい。</p>
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		<title>映画『トイ・ストーリー3』</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 02:49:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「トイ・ストーリー」シリーズの最終回（？）の主題は、成長と別離だ。 子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「トイ・ストーリー」シリーズの最終回（？）の主題は、成長と別離だ。</p>
<p>子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離はアメリカの現代文学がくりかえし描いてきた主題であり、ハリウッドでも若者向け作品を中心にやはり同様に反復されてきた。この主題にピクサーがどう挑戦するかが、本作品の見どころである。</p>
<p>結論を喩えていえば、一勝一敗といったところか。まず一勝のほうから。</p>
<p>主人公の人形は、大学入学を控えるまでに成長した持主の少年と、いよいよ別離を覚悟しなければならない時期をむかえることになった、という設定から物語が始まる。わかれたくない、一緒にいたい、という気持ちと、しかしそこにはじぶんたちの居場所はないという現実とのあいだで、少年も、おもちゃたちも、それぞれが烈しく揺れ動く。おもちゃと子どもとは、もとより棲む世界が異なっている。おもちゃはいつまでもおもちゃであるが、子どもはやがて大人になる。両者の蜜月はいつか終わる。それをそれぞれの仕方で受け容れることが、つぎのステップへつながる。</p>
<p>その意味でこの作品は、ウィニー・ザ・プーの変奏、もしくはリベンジである。</p>
<p></p>
<p>1977年のディズニー長編アニメーション映画『くまのプーさん』（より正しくいえば、短編もしくは中編のプログラムピクチャー数編を再編集してつくられた長編）では、クリストファーとプーたちとを、成長や別離とは無縁の、いつまでも誰もがずっと同じ状態でいつづけられるおとぎの世界に幽閉している。</p>
<p>このときすでにウォルト・ディズニーは亡くなっていたが、大人になることを根本から拒絶した「ネバーランド」的世界にとどまる志向性は、まさにかれの精神そのものだといえる。</p>
<p>ディズニーにとって、大人になることは汚れて駄目になることであり、子どもは純粋で無垢の存在だ。だから誰もがいつまでも子どものままでいられる世界を、アニメーションや、その三次元的展開であるテーマパークに実現しようとした。クリストファーとプーの物語もまちがいなくその精神によって構築されている。そのことは、その後にディズニーが山ほど製作したテレビアニメ版や人形劇版でも、そうした物語や設定をけっして持ち込まないことでも確認できる。むろんプーの名を冠せられたディズニーランドのアトラクションも同様だ。</p>
<p>別言すれば、ディズニーはクリストファーとプーの物語を直視することに堪えられなかった、ということもできるかもしれない。</p>
<p>というのは、これとは似て非なる思想にあるのがミルンの原作だからだ（以前に学生に訊いたら大半が原作を読んでいなかった）。『プー横町にたった家』の、あのすばらしいエンディングから感得されるのは、成長と別離にかかわる、苦みの利いた甘さ、もしくは甘さの利いた苦みにほかならない。そこにあるのは、別離のつらさを回避することではなく、ぼくたちにできることは、つらさとともに別離を受け容れるしか道はないのだと知ることであり、それと引き換えることによってのみ、ぼくたちはつぎの段階へと歩を進めることができるのだという覚悟である。</p>
<p>だからミルンにおいて、プーやコブタの棲む百町森は、子どもの世界のなかにのみ存在することで、大人たちの土台となるべきものであり、それを読書という形をとおして受け継がれるものと意識されている。これにたいしてディズニーは、それをフィルムのなかに凝結して閉じ込めてしまい、さらにそれに厭きたらずディズニーランドにも幽閉し、ひたすらに反復可能な状態におく。別離という現実を排除することで、いつまでも砂糖菓子のような世界にとどまることを強引に実現するのである。</p>
<p>しかし成長と別離とは、誰であれ必ず経験されなければならない課題である。</p>
<p>したがって今回の作品は、いまやディズニーの中核となったピクサーが、かつてディズニーがけっして目を向けようとしなかった「現実」に、あらためて挑戦しようとしたと理解することもできる。その姿勢そのものが、ひとつの成長を示しているということができるだろう。</p>
<p>さて、つぎは一敗だ。</p>
<p>それは、あまりにも単純な物語構造にある。楽園であるべき場所を牢獄に変えてしまっている「悪」を、けっきょくは一個の邪悪な精神に還元してしまっている。悪は悪として描かれるだけで、それを悪とみなす視点はまったく射程に入っていない。</p>
<p>もちろんその主要因は、この作品が、つねに確実なヒットを要請されているという米国的アニメーション映画の宿命にあるのだということはわかる。だがこの作品は、みずからの成長を示す契機なのだとすれば、みずからを縛っている枠組みそのものにもどこかで挑戦する必要があるだろう。それを回避するのなら、けっきょくは枠組みの再生産とその強化でしかない。</p>
<p>そしてそのような姿勢こそが、主たる観客である子どもたちの理解力を根本において信用していないことを意味してしまっていると気づくべきだろう。かれらの成長に賭けるという姿勢を物語構造そのものに持たせることができていたなら、ディズニー／ピクサーの成長がほんとうに実現できていたかもしれない。</p>
<p>なお本編に先だって上映される短編 &#8220;Day and Night&#8221; は、すばらしいアイディア。技術と表現と精神とが不可分であることを、あらためて教えてくれる。</p>
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		<title>映画『よなよなペンギン』</title>
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		<pubDate>Tue, 29 Dec 2009 03:06:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>

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		<description><![CDATA[マッドハウス製作、りんたろう監督の新作。製作費15億というから日本映画としては大作だが、作品の柄としては小品である。 テレビ番組の劇場版でもう一儲けという企画だらけの日本のアニメーション映画界にあって、マッドハウスはとき [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>マッドハウス製作、りんたろう監督の新作。製作費15億というから日本映画としては大作だが、作品の柄としては小品である。</p>
<p>テレビ番組の劇場版でもう一儲けという企画だらけの日本のアニメーション映画界にあって、マッドハウスはときおりオリジナル企画をぶつけてくる（ただし作品の質はさまざま）。この姿勢はもっと評価されるべきである。</p>
<p>本作品はフルCGの意欲作だ。主人公はじめキャラクターのデザインがかわいらしく、設定などにも工夫が見られるが、全体としてはいまひとつ膨らんでいかないまま終わってしまう。前半は部分的にすばらしいシークエンスもあるとはいえ全体としては退屈であり、後半の活劇にいたってはかなり萎む。</p>
<p>なによりも問題なのは、主題と物語が凡庸であることだ。プロットが類型的でシンプルなのはかまわないが、それを厚くふくらませることができていない。</p>
<p>登場人物の動きぶりやカメラの動きは、いかにもCGがんばってますといった趣である。しかしそうした運動はただそれだけにとどまり、物語に絡むことはほとんどない。いたってまっとうな──逆にいえば意外性に乏しい──ピクサーのCG作品のショット構成とは異なり、ロングショットが多い。ちょっと人形アニメーションふうの味わいだ。それを活かす術があれば、なおよかったのだけれど。</p>
<p>エンディングはタイトルバックも音楽も工夫があって愉しい。前の座席にいた小学生くらいの姉妹が踊りだし、「アミーゴ！」と叫んだ。</p>
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		<title>映画『バッタ君町に行く』</title>
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		<pubDate>Sat, 26 Dec 2009 02:16:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[ミュージカルという問題]]></category>
		<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[キャプラ]]></category>
		<category><![CDATA[ジブリ]]></category>
		<category><![CDATA[メディア]]></category>

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		<description><![CDATA[アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。 まだ長編アニ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。</p>
<p>まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代（1941年公開）の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている（日本の「アニメ」の大半は（全部ではない）、もうこのことを忘れてしまっている）。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。</p>
<p>動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。</p>
<p>物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。</p>
<p>したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。</p>
<p>その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。</p>
<p>ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。</p>
<p>今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。</p>
<p>なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。</p>
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		<title>映画『カールじいさんの空飛ぶ家』</title>
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		<pubDate>Sat, 19 Dec 2009 03:37:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[アトラクションの日常]]></category>
		<category><![CDATA[日々のエッセイ]]></category>
		<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[サンダーバード]]></category>
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		<category><![CDATA[ピクサー]]></category>

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		<description><![CDATA[煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。 この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則と [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。</p>
<p>この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則としてアニメーションだけで描ききる。その手際のよさだけでも観るに値する作品である。毎回いうのだが、かれらが映画とアニメーションをどれほど勉強しているかを端的に示しているからだ。</p>
<p>けれども、そこに続いて展開される物語の本体のほうには、特段すぐれた点を見出すことはむずかしい。はっきりいえば凡庸の域を出ない。もちろんそこは安心のルクソー印。夢とスリルと冒険の詰まった成長譚として、多少の破綻はみられるものの、いつもながら、ていねいにつくられている。</p>
<p>成長譚として興味深いのは、成長するのがひとりではない点である。それは空飛ぶ家に「味方」としてかかわったすべての関係者がそうであり、当然75歳のカールじいさんも含まれていることである。すでに長い人生経験をもつ人物が成長するという意味では、『クリスマス・キャロル』的だともいえなくもない。いずれにせよ、ここに登場する人物や動物は、何らかの欠落をかかえて社会的に周縁に追いやられたひとびとであって、そうしたところに焦点をあわせる視点が児童文学の常道であることも想起されてよいだろう。ピクサーはその伝統とメソッドをきっちり踏襲している。それが手堅い物語構築をもたらす土台になっている。今回は手堅すぎたというか、もうひとつアイディアが足りなかったようにおもわれる。</p>
<p>とはいえ全体は活劇仕立てとしてしっかりつくられているから、誰でも安心して手に汗にぎって鑑賞していられるだろう。巨大飛行船や、無数の風船をくくりつけて雲間を飛んでゆく家のイメージに、ラピュタやハウルの影を読み込むことも、そうしたければ、いくらでも可能だ。</p>
<p>ぼくが観たのはピクサー初という3Dの字幕版。昔の立体映画やら以前に存在したディズニーランドのアトラクションと同様、受付時にわたされる『サンダーバード』のブレインズみたいなゴツいフレームの専用眼鏡をかけて観る。ぼくのようにふだんから眼鏡をかけている人間にとって、二重に眼鏡をかけなければならないのは、けっこう難儀である。3D代として300円が上乗せ徴収されるが、出費に見あう効果が得られるかどうかは微妙といわねばなるまい。</p>
<p>本編上映前に短編が併映される。いつもながらサイレント仕立ての小品で、物語としてもよくできている。</p>
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		<title>映画『サマーウォーズ』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2009/08/18/summerwars/</link>
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		<pubDate>Tue, 18 Aug 2009 08:48:42 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[サマーウォーズ]]></category>
		<category><![CDATA[ネット]]></category>
		<category><![CDATA[戦争映画]]></category>
		<category><![CDATA[時をかける少女]]></category>
		<category><![CDATA[細田守]]></category>

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		<description><![CDATA[はるばる船橋のららぽーとまで行き、おたく系青少年に囲まれつつ『サマーウォーズ』を観た。ゼミ生や卒業生の推薦作である。 細田監督の作品は『時をかける少女』を観たことがあるだけだ。作品自体はよくできていたが、そのときの周囲の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>はるばる船橋のららぽーとまで行き、おたく系青少年に囲まれつつ『サマーウォーズ』を観た。ゼミ生や卒業生の推薦作である。</p>
<p>細田監督の作品は『時をかける少女』を観たことがあるだけだ。作品自体はよくできていたが、そのときの周囲の盛りあがり方は正直あまり気持ちのいいものではなかった。前作の評価をうけたためか、今回はその傾向がより強まっている印象である。個人的には、アニメか実写かという区別にはなるべくこだわらず、純粋に作品として観ることを心がけようと決めて、ららぽーとまで行った。</p>
<p>そして今回も、よくできた作品だった。事前にあった引き気味の気持ちは、オープニングのタイトルバックで一気に吹き飛びました。これはみごと。（この段落若干加筆。090819）</p>
<p>仮想世界の混乱が現実世界に再帰するというのは、大昔からある定型パターンである。細かい設定から個々のシークエンスのつくり方まで、定型どおり。その意味では既視感ありまくりだが、そうした定型を組みあわせる仕方がうまくてていねいなのがよい。だから、物語がしっかり構築されているし、物語られている。このあたり、近年しばしばアニメ業界からすぐれた作家が輩出されるにあたり、かれらがどんなフィールドで鍛えられてきたかを如実にあらわしているといえよう。</p>
<p>物語上の肝は、信州上田の陣内家という大家族の設定にある。この大家族という人的ネットワークが、電子ネットワーク内に構築されたもうひとつの世界（OZとよばれる仮想世界）と、わたしたちの身体が埋め込まれている現実社会とのあいだを媒介するのだ。それは、先端と現実という二つの極にたいして、伝統というもうひとつの極を挿入する役割をはたす。具体的には、伝統的な服装、建築物、花札などという、いかにも「日本的」なイメージを前景化させた表象物として、現実と仮想という二つの社会の双方に浸透をはかる。（この段落若干加筆。090820）</p>
<p>実際、絵としての表現でも同様だ。情緒たっぷりに描かれる自然や街並み（現実）にたいして、仮想空間内は、村上隆の絵のように意図的に平板かつ線画を強調して描かれる。人物はそのどちらとも異なる、立体感なしにいかにもアニメといった様相で描かれる。それは、現実と仮想、どちらの空間とも完全になじむことなく、どこかで違和が解消されきらない存在である。</p>
<p>ただし、こうした微妙な差異や齟齬は、「家族」やら「守るためにたたかう」といった類いの台詞によって、わかりやすい「メッセージ」に置き換えられて塗り込められがちな傾向はみられる。そもそも「家族」やら「愛する者」やらを「守る」という美辞を「国家」に無媒介的に横滑りさせることで国民を搾取動員することは、国民国家の成立運営上の常套手段だろう。わかりきったことであるとはいえ、もう一度押さえておくべきではないか。</p>
<p>憧れのセンパイとのからみは、全篇これお約束だらけなのが笑える。入浴シーンやら、キューティーハニー顔負けの着せ替えシーンなど、もうサービス満点。それにしても、前作のマコトといい、今回のナツキといい、この手の名前はいまやすっかり女の子用なのね。</p>
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		<title>映画『ヤッターマン』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2009/03/14/yatterman/</link>
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		<pubDate>Sat, 14 Mar 2009 05:35:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[タツノコ]]></category>

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		<description><![CDATA[『ヤッターマン』（三池崇史監督）を観た。 アニメの名作の実写映画化というと、設定だけ借りて、実際にはまったく別の物語をつくるケースが多い。しかも得てしてそれで失敗する。この映画はその正反対。1970年代のアニメの設定とパ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>『ヤッターマン』（三池崇史監督）を観た。</p>
<p>アニメの名作の実写映画化というと、設定だけ借りて、実際にはまったく別の物語をつくるケースが多い。しかも得てしてそれで失敗する。この映画はその正反対。1970年代のアニメの設定とパターンをまるっきりそのまんま忠実に実写にしている。あまりに忠実なために、その過剰さがかえって異彩を放つ。この姿勢が、本作品をなんとも無茶で、ユニークなものに仕立てあげている。</p>
<p>登場人物やメカ、変身の場面、決まり文句、物語のパターンといったアイテムはもちろん、それぞれのパターン化した場面の構図やカット割りまで、ほぼ70年代のオリジナル・ヤッターマンそのままだ。</p>
<p>この姿勢は徹底されており、物語も基本的にアニメ2.5本分で出来ている。すなわち、いきなり山場の戦闘シーンから始まり、ドロンボーたちの敗走とお仕置きで、まず一区切り、そのあと、かれらが仕切り直して新メカをこしらえ、また戦闘シーン→敗走→お仕置き、というパターンを二度くりかえす。毎週放送というオリジナルのリズムを踏襲しているわけで、それはご丁寧にも最後の最後まで貫かれる。</p>
<p>こうした忠実さの過剰は、『ヤッターマン』の本質が、主題やプロットというよりも、お決まりのパターンの無限の反復にあるということを、それこそ過剰なまでに強調する。それが、本作品がオリジナルにたいして身をもって示す批評であり、リスペクトであろう。</p>
<p>してみると、三池監督が好んで描き、この作品にも充満している暴力やエロスの過剰さは、無声映画のスラップスティック・コメディのもつ過剰性に直接つながっているのかもしれない。</p>
<p>オリジナル・アニメと同様、ヤッターマンの二人よりもドロンボー一味のほうが強く印象に残る。生瀬勝久のボヤッキーと、ケンドーコバヤシのトンズラー、どちらもすばらしい。話題になった深田恭子のドロンジョも、いい感じだ。ただし、大人っぽい色気というよりも、とりわけ声や仕草において、ややロリロリしたかわいらしさのほうが滲みでている。</p>
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		<title>映画『ウォーリー／WALL･E』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2008/12/12/walle/</link>
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		<pubDate>Fri, 12 Dec 2008 01:34:18 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[ピクサー]]></category>
		<category><![CDATA[無声映画]]></category>

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		<description><![CDATA[ピクサーの作品はどれもよくできているが、本作品は一頭地を抜く。SFエンタテインメントとして十二分に愉しめるというだけではない。ピクサーのアニメーション作家たちが、どのような映画的伝統のなかで生きているか、あるいはそれを引 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ピクサーの作品はどれもよくできているが、本作品は一頭地を抜く。SFエンタテインメントとして十二分に愉しめるというだけではない。ピクサーのアニメーション作家たちが、どのような映画的伝統のなかで生きているか、あるいはそれを引き受けようとしているか、そしてそのためにどれほど勉強を積み重ねているかということを嫌というほど思い知らされる。それが『ウォーリー／WALL･E』である。</p>
<p>＊</p>
<p>キャラクター。状況設定。素材。物語。そして主題。どれをとっても、斬新なものはひとつとしてない。あらゆる要素が類型的であり、定型の枠を一歩も踏みはずしていない。おどろくべきことは、にもかかわらず、作品としてここにキュートなオリジナリティが確実に認められることである。</p>
<p>成功の理由はどこにあるか。それは、基本的な類型にたいしてあきれるほど忠実かつ丁寧な姿勢を徹底させていることである。</p>
<p>この姿勢はまず、個々の要素にたいして例外なく貫かれている。本作品を構成する膨大なショットのなかに手抜きや惰性を発見するのは至難だろう。たとえば、スリープしたイヴをウォーリーがつれ歩くシーン。傘をさしたとたん落雷するシーンはわざわざ二度くりかえされる。ベンチから転げ落ちたウォーリーは側らの電柱に頭をぶつけるが、ここでもご丁寧に街灯の古電球が落下してウォーリーの頭を打つ。</p>
<p>これらはもちろん、手垢がびっちりこびりついたと形容できるほど古典的なルーティンの表現である。しかし本作品の画面を埋め尽くすのは、全篇これルーティンばかりなのだ。このことは、サイレント時代のスラップスティックから連綿とつながる映画的伝統をこの作品が引き受けようとしていることを意味する。その伝統とはすなわち徹頭徹尾「動くこと」、デフォルメされ類型化された身体のふるまいの表現にほかならない。</p>
<p>このことは、アニメーションという表現様式の根源とも共振している。線画であれ人形アニメであれ、ようするに動かないはずのものに運動を与えることであり、それが実現されることへの興味と歓びである。その姿勢は本作品のあらゆる細部において体現されている。だからこそわたしたちは、物語が進行するにつれて、登場するロボットたちのなかに「生命」が宿っているという感覚に信頼をおくようになってゆく。</p>
<p>さらに、類型への徹底した忠誠は、これら諸要素を組織するその仕方にたいしても同様に貫徹されている。先述した傘のシーンをはじめ、何気なく描かれるシーンや、そこでさらりと登場するアイテムは、けっしてその場限りで使い捨てにされることがなく、大小さまざまな伏線となって活きてくる。それらが複合することで、筋としてはシンプルでありながら、物語としては豊かなテクスチャーを織りなしているのである。</p>
<p>＊</p>
<p>定型どおりの物語は、『E.T.』を逆まわしにして、『スターウォーズ』や『2001年宇宙の旅』など往年のSF映画の風味をふんだんにまぶしたようなものだといえばよいだろうか。基本構造は、身から出た錆によって世界から疎外された人類が、再び創世をはかろうとする神話である。</p>
<p>といえば、ここに宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を重ねあわせたくなるひとも少なくないだろう。じじつ鍵となるアイテムは、その設定も形象も28年前のあの名作のアンサーであり、それはエンドロールの演出においても確認することができる（ただし、新たな世界が機械との幸福な共存として想像される点でナウシカとは決定的に異なる）。主人公に寄り添う小さな相棒の存在や、窮地に陥った主人公をその社会から排除されている者たちが手助けするのも定型どおりなのだが、そのようすは『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪たちを彷彿とさせる。</p>
<p>こうした点はその気になればほかにも見出せる。これらに注目して、ここに日本のアニメーション作品の影響を見出すこともできなくもないし、おそらく一定の影響関係はあると考えるべきだろう。</p>
<p>だが、注意すべきだ。この作品は、いわゆる「ジャパニメーション」（なんと恥ずかしい言葉であるか）の大半とはまったく異なる地平にたっている。先述のとおり、これは映画とアニメーションの圧倒的な厚みの上にどのような創造を成立させることができるかに挑戦する作品だ。その態度は、日本のアニメーションと比べるとほとんど対照的とさえいえる。後者は一部の例外を除けば基本的にそうした映画やアニメーションの伝統から切れたところで成立している。じじつそれらの作品は運動にほとんど興味を示さない。つまり、本質的にマンガなのである。</p>
<p>日本のアニメーション作品は世界に誇るべき芸術だというような言説はあとをたたず、今日では役人さえもがそれを真に受けている。だが事はそう単純ではない。</p>
<p>＊</p>
<p>オープニングでいきなり「Put On Your Sunday Clothes（日曜日は晴着で）」がかかり、それもまた物語上重要な役割を与えられる。ミュージカルやミュージカル映画の歴史について多少とも知識のある観客は、しかしきっと戸惑うことだろう。なぜここでとりあげられる映画が『ハロー・ドーリー！』でなければならないのか。作品としての質において、どう贔屓目にみてもすぐれているとは評価しにくいからだ。人類の再創世をかけるのなら、ほかにもっとふさわしいミュージカルがいくらでもあるだろうに。</p>
<p>舞台版（1964）映画版（1969）を問わずこの作品は、遅れに遅れてやってきた黄金期スタイルのハリウッド・ミュージカルであり、製作時点ですでにノスタルジアの対象であって、しかも（興行的にはともかく）内容的にも失敗作といわざるをえない。『ハロー・ドーリー！』の作曲家ライオネル・ニューマンが本作品の音楽トーマス・ニューマンの縁戚らしいので、その関係で選ばれたということらしいのだが考えようによっては、そのオールド・ファッションぶりこそが『ウォーリー』の主題にぴったり適うということなのかもしれない。</p>
<p>本作品はひじょうに映画らしい映画であり、アニメーションらしいアニメーションである。したがって本質的にサイレントだ。鑑賞者の年齢を問わず、字幕版での鑑賞をおすすめする。ぼくは2度目には子づれで観にいった。映画館を出てきたあと、小学生の《なな》と話をしていて、「えっ？ 字幕があったのだっけ？」とびっくりしていた。</p>
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		<item>
		<title>映画『崖の上のポニョ』</title>
		<link>http://swingbooks.jp/2008/08/16/ponyo/</link>
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		<pubDate>Sat, 16 Aug 2008 09:50:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Hajime Hasegawa</dc:creator>
				<category><![CDATA[メディア論的に考える]]></category>
		<category><![CDATA[映画を観る]]></category>
		<category><![CDATA[アニメ]]></category>
		<category><![CDATA[ジブリ]]></category>
		<category><![CDATA[スピードレーサー]]></category>
		<category><![CDATA[ハウルの動く城]]></category>
		<category><![CDATA[千と千尋の神隠し]]></category>
		<category><![CDATA[宮崎駿]]></category>
		<category><![CDATA[崖の上のポニョ]]></category>

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		<description><![CDATA[最近一本の映画を二度観ることが多い。《あ》によれば、昔からそういう癖だという（そうだったっけ）。この作品もやはり二度劇場へ観にいった。二度目のほうがよかった。 内容的に突っ込むべきところは少なくない。てんこ盛りの諸要素は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最近一本の映画を二度観ることが多い。《あ》によれば、昔からそういう癖だという（そうだったっけ）。この作品もやはり二度劇場へ観にいった。二度目のほうがよかった。</p>
<p>内容的に突っ込むべきところは少なくない。てんこ盛りの諸要素はうまく噛みあわず、全体にちぐはぐ。観終わった《あ》は、どの登場人物も魅力的でなくて困ったと感想を述べた（子どもたちのお気に入りはフジモト）。5歳の男の子はやけに分別くさく、それ以外はじぶんのことだけで手いっぱいというひとたちばかりがあらわれる。物語は、つけるべきところでメリハリが十分に利かせられておらず、イコライザーの調整がうまくいっていない録音を聴くみたいにまどろっこしい。</p>
<p>それに、またしても「魔法」だ。なにもかも劇中で説明をつけるため、話のつじつまをあわせるための文字どおりの「魔法」なのかというのと、そうでもない。「魔法」をもちだされても話はいっこうに腑に落ちず、この設定に物語上いかなる必然性があるのかよくわからないまま1時間40分ほどの上映が終わってしまう。終わっても、素直に「よかった」という気持ちにはなれない。なんともいえず困った感情が残る。</p>
<p>しかしそれでもやっぱり、この作品はチャーミングだ。では、その「チャーム（魅力）」はどこに宿っているだろう？　たぶんそれは、物語や人物やメッセージを追っかけているだけだと理解しにくい性質のものなのだ。</p>
<p>スクリーン上で圧倒的な展開を見せるのは、手書きの線への拘泥と、その線を動かすことへの尋常ならざる情熱である。それはたとえば、どうどうと逆巻く海や波の動き、物語の背景でわさわさと蠢く海の動物たちのようすに顕著に見てとることができる。あるいは他の宮﨑作品と同様、日常のなにげない身体のふるまいをするどい観察眼によってとらえ、それを独特のデフォルメをくわえつつ丹念かつ仔細に描いてみせることも同様だろう。</p>
<p>これらは一般には、CG全盛時代におけるジブリ的ないし日本アニメ的なアプローチなどというように、物語やメッセージとは区別された技術的な水準におけるひとつの逸話として理解されるかもしれない。じじつ監督の宮﨑駿自身がそう語り、メイキングもののテレビ番組や雑誌が好んでとりあげてきた。そうした面はたしかにあるだろう。でも、それだけではない。</p>
<p>手書きの線画を動かすとは、ようするにパラパラマンガである。ノートのはじっこに少しずつポーズを違えた絵を描き、ページをパラパラとめくる。するとその絵が動きだしたかに見える。これをパラパラマンガとよぶ。本作品は、劇場用長編映画として巨額の資金を投じて制作された「大作」にちがいないが、その実は全編パラパラマンガなのだ。本作品のチャームの源泉は、ここにある。そしてこの点において、今日におけるもっとも前衛的な志向性を体現した作品のひとつであるといわねばなるまい。</p>
<p>ドキュメンタリーであれ、いわゆる芸術映画であれ商業映画であれ、たいていの映画は「映画」の枠組みの内部で撮られる（テレビドラマなども同じ）。例外はほぼなく、つくり手も観客も評論家も誰もそのことを疑ったりしない。その枠組みの内側にどっかと座り込み、座り込んでいるという事実すら忘れたうえで、出来の良し悪しや興行収入の多寡を競い、「感動」したかどうかだとか、演技のうまさだとか、作品のメッセージだとか、参照すべき作品は何だとかといった議論をかわす。線の描き方や動かし方も、CGやVFXといった話と同じく、物語やらメッセージやらを語るための装置にすぎないと前提したうえで、せいぜいマニアックな技法上の問題ととらえるにとどまるケースがほとんどだ。</p>
<p>この作品はちがう。アニメーションという立場に立ちながら「映画」の枠組みの内側からその限界に向けて接近し乗り越えようとしている。あるいは、アニメーションという立場から映画をもう一度発明しなおそうとしたといってもいい。当事者にはそんなつもりは毛頭ないだろうが、すぐれてメディア論的な企てだといえる。</p>
<p>そもそもアニメーションと実写のあいだの境界線は一般におもわれているほど明瞭ではない。最近ではたとえばウォシャウスキー兄弟の『スピードレーサー』（なんともひどい作品）を想起すればいい。誰がみても、もう実写だCGだと区別することにほとんど意味は感じられまい。興味深いのはウォシャウスキー兄弟がこの作品中に、主人公の少年が教科書の端に落書きしたクルマの絵をパラパラマンガで動かすシーンを挿入するのを忘れなかったことだ。</p>
<p>パラパラマンガは映画のもっとも原初的な様態のひとつである。アニメーションであれ実写であれ、動きそのものは静止した映像を連続提示することでしか得られない。その事実を、多くのひとはすっかり忘れている。だが、多くのひとが忘れ自明視しているものにこそ、鋭い目が向けられなければならない。ふだん自明視しているみずからの拠ってたつ世界の成り立ちこそ根源的な地平なのであり、それこそが深く掘り抜くべき地平なのだ。</p>
<p>だから、ここで描かれる世界観、人物、物語などといった表象は、たんにメッセージを代理するという立場にとどまって満足してはいない。扱われる題材、描かれる物語、つくった者や観た者が語るメッセージといった諸々は、この作品が壮大なパラパラマンガであるという成り立ちと密接に、いや不可分に関係しており、この点を抜きにはとらえられない。この作品はしたがって、総体として観る者に一個の新たな性質の経験をもたらすことを志向した作品であると考えるべきだろう。</p>
<p>前作『ハウルの動く城』はいったい何がやりたいのか理解に苦しむつらい作品だった。子どもたちがいまでも話題にするのはカルシファーが「そうかなあ」といって気をとりなおすシーンだけという現実が端的にそのことを示している。これにたいして今回は、少なくとも何をやりたいのかははっきりしている。明解であって、しかも根源的だ。</p>
<p>ぼくにとってこの作品がチャーミングなのは、そのような意味においてである。もっとも商業性を要請される性質の作品においてもっとも根源的なアプローチにいどんだ監督以下スタッフ一同に敬意を表したい。</p>
<p>ただし、もちろん本作品において、そうした企てが首尾よく成功しているかといえば、そうではない。『千と千尋の神隠し』の方向性へ先祖返り──あるいは地金が露呈──している部分もある。しかし企てとはそのようなものだ。それでもあきらめることなく、あの手この手であらたな企てに赴く。おそらく、それが創造という営みの根幹をなすのだ。</p>
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