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ジブリ
映画『借りぐらしのアリエッティ』
- Aug 19, 2010 10:00
- 映画を観る
ひさしぶりに《あ》と《くんくん》と一緒に観に行った。いちおう夏休みらしいこともせねばね。
ジブリの新人監督デビュー作といえば過去の例からみて一種の鬼門なのだが、今回の米林宏昌監督は、まずまず健闘していたというのがぼくの意見である。
正直にいって特別な新味があるわけではない。ないのではあるが、昨今の多くの子ども向け作品のように安易に「魔法」に頼ったりすることなく、とにかく実直に登場人物の心情を表現することに心を砕いていた。心情を描くうえでは、たとえば人物の表情やしぐさだけではなく、草花や雨や物音など、映画的なさまざまな表象の描き方を駆使する必要があるし、ショットとショットのつなぎ方にも、工夫が必要だ。こうした点にかんしては、どれも類型的な描き方であるとはいえ、まずまず成功していたといえる。
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映画『バッタ君町に行く』
- Dec 26, 2009 11:16
- ミュージカルという問題 | 映画を観る
アニメーション映画史上の傑作とされるフライシャー兄弟の作品である。今回はニュープリントで劇場公開とのことだが、ぼくが観るのは初めてだ。場所は最近ヒューマントラストシネマと名を変えた映画館、観客は7人だった。
まだ長編アニメーション映画がめずらしかった時代(1941年公開)の作品だ。全篇で徹底して線を動かすことに全身を集中させている(日本の「アニメ」の大半は(全部ではない)、もうこのことを忘れてしまっている)。虫たちのわらわらと蠢くさまや、ナイトクラブで何度もダンスを踊る場面、とりわけ感電のシークエンスなどにそれが顕著にあらわれている。ちなみにある時代までのアメリカのアニメーションにミュージカルやスラップスティックの場面が付きものなのは、映画の機械性という問題に直接かかわっていると、ぼくは考えている。
動きの積み重ねとともに、物語上のエピソードは、そのひとつひとつが厚くていねいに描かれる。その一方で、プロットはいたってシンプルだ。いまも昔も、こうした戦略がアメリカのアニメーション映画の伝統として、広い観客に訴える娯楽作品の要諦であることを示している。もっともこの作品の評価が定まるのは後年のことで、初公開時の1941年12月には観客の入りが悪く打ち切りとなっている。
物語は、題名に暗示されているようにフランク・キャプラ的なニュアンスが込められていると理解することができる。工業化された資本主義社会を批判しつつ、しかし文明それ自体と人間性の可能性に無条件の信頼をおいているのだ。たとえばこの物語は郵便制度というシステムの十全な機能を前提にしているが、それを具体的に担保しているのは実際に登場する郵便配達夫が内面化し実践する職業倫理である。
したがって、物語の終盤において天空めざして登ってゆく虫たちのふるまいには明らかに肯定的な色が与えられており、ハッピーエンディングを志向してつくられていると考えてよい。ところが、21世紀の観客の目には、これがえらくアイロニカルに映る。かれらがたどり着いた地点がかれらにとって楽園であるようにはとうていおもわれない。そしてかれらもまた、かれらをそこへ追いやることになった人間や文明の暴力性をいつしか発揮しうる立場になりうることを含意しているかのように読めてしまうのである。
その意味で、たんに「傑作」というラベルを押して理解した気になっていれば済むような作品ではなく、今日的な観点からもより深く考えさせられる奥行きをもった作品だというべきであろう。
ホーギー・カーマイケルとリー・ハーラインの音楽が抜群によい。
今回の公開をしかけたのはスタジオジブリである。ここは宮崎作品や関連キャラクター商品などで稼ぐ一方で、アニメーション映画の歴史的名作の上映・普及に力を入れているようだ。パンフレットのつくりも、贅沢なものではないが、的を射たつくりであり、しゃれている。
なおパンフレットその他の資料では原題 Mr. Bug Goes to Town とされているのだが、今回ぼくが観たかぎり、本編のタイトルバックでは、主人公の名前をそのまま採って Hoppity Goes to Town と記載されていた、ような気がする。
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映画『カールじいさんの空飛ぶ家』
- Dec 19, 2009 12:37
- アトラクションの日常 | 日々のエッセイ | 映画を観る
煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。
この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則としてアニメーションだけで描ききる。その手際のよさだけでも観るに値する作品である。毎回いうのだが、かれらが映画とアニメーションをどれほど勉強しているかを端的に示しているからだ。
けれども、そこに続いて展開される物語の本体のほうには、特段すぐれた点を見出すことはむずかしい。はっきりいえば凡庸の域を出ない。もちろんそこは安心のルクソー印。夢とスリルと冒険の詰まった成長譚として、多少の破綻はみられるものの、いつもながら、ていねいにつくられている。
成長譚として興味深いのは、成長するのがひとりではない点である。それは空飛ぶ家に「味方」としてかかわったすべての関係者がそうであり、当然75歳のカールじいさんも含まれていることである。すでに長い人生経験をもつ人物が成長するという意味では、『クリスマス・キャロル』的だともいえなくもない。いずれにせよ、ここに登場する人物や動物は、何らかの欠落をかかえて社会的に周縁に追いやられたひとびとであって、そうしたところに焦点をあわせる視点が児童文学の常道であることも想起されてよいだろう。ピクサーはその伝統とメソッドをきっちり踏襲している。それが手堅い物語構築をもたらす土台になっている。今回は手堅すぎたというか、もうひとつアイディアが足りなかったようにおもわれる。
とはいえ全体は活劇仕立てとしてしっかりつくられているから、誰でも安心して手に汗にぎって鑑賞していられるだろう。巨大飛行船や、無数の風船をくくりつけて雲間を飛んでゆく家のイメージに、ラピュタやハウルの影を読み込むことも、そうしたければ、いくらでも可能だ。
ぼくが観たのはピクサー初という3Dの字幕版。昔の立体映画やら以前に存在したディズニーランドのアトラクションと同様、受付時にわたされる『サンダーバード』のブレインズみたいなゴツいフレームの専用眼鏡をかけて観る。ぼくのようにふだんから眼鏡をかけている人間にとって、二重に眼鏡をかけなければならないのは、けっこう難儀である。3D代として300円が上乗せ徴収されるが、出費に見あう効果が得られるかどうかは微妙といわねばなるまい。
本編上映前に短編が併映される。いつもながらサイレント仕立ての小品で、物語としてもよくできている。
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堀田善衞を読む
- Nov 21, 2008 10:33
- 日々のエッセイ
今秋、堀田善衞の本が2点刊行された。『上海にて』の復刊、そして『堀田善衛上海日記──滬上天下一九四五』である(いずれも集英社)。それに触発されて読みはじめ、以来続けざまに読んでいる。読むのは電車車中や寝床のなか。至福の時間である。
横浜の神奈川県近代文学館で開催されていた堀田善衞展にも行ってみた。没後10年を期して実現された企画だという。来訪者は年配のひとが大半だが、けっこうにぎわっていた。
ぼくの研究テーマからして、創作ノートやメモ、書斎の配置といった類のことにも関心がある。そうした展示を見るだけでも興味深い。展示の後半はジブリが構想する堀田作品のアニメ化架空企画の展示。おのおの面白いが、両者のあいだにもう少しはっきりした補助線を引いてもらえるとよかったとおもう。
この堀田善衞展、ジブリがらみということも手伝って、この種の催事としてはわりあい宣伝が行き届いていたようにおもうのだが、学生に訊いても知っている者は皆無だった。
かくいうぼく自身、これまで堀田さんの本は読んだことがなかった。
中学や高校時代の教科書にも、たぶん載っていなかった。受験勉強のなかで問題文として読んだことがあったかもしれないが、仮にそうだとしてもこちらにはさっぱり記憶がない。堀田善衞の名は、文学史のごく常識的な知識として知っていたにすぎず、偉いインテリ文学者というイメージが先行し、なんとなくじぶんには縁のないものと決めてかかっていたところがあった。『インドで考えたこと』でなく、椎名誠の『インドでわしも考えた』のほうから入ったクチなのだ。
本を探しはじめておどろいたのが、おもいのほか品切れ書目の多いこと。とくに軽めのエッセイや紀行の類はキビシイ。ぼく自身はそういうものも含めて読んでみたいのだが、一般論としていえば、その種の書物は時間の経過にたいする耐性が相対的に低いというのが常なのかもしれない。
それでも集英社文庫は、主著を中心に、切らさぬよう努力しているようだ。近所の書店の棚には見あたらないものの、大規模書店やネット書店ではある程度手に入る(なお Amazon.co.jp では「善衛」で検索したほうが圧倒的にヒットするが、正しくは「衞」)。その姿勢は版元としてかなり評価されるべきである。だがそれでさえも、ラインナップのすべてが新本で手に入れられるわけではなさそうだ。
堀田善衞に限らない。武田泰淳も大岡昇平も、もうそう簡単に新本では読めない。その現実が、21世紀においてそれら作品の価値の減じていることを意味するのかというと、話はさほどわかりやすくはないと答えねばなるまい。
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映画『崖の上のポニョ』
- Aug 16, 2008 18:50
- メディア論的に考える | 映画を観る
最近一本の映画を二度観ることが多い。《あ》によれば、昔からそういう癖だという(そうだったっけ)。この作品もやはり二度劇場へ観にいった。二度目のほうがよかった。
内容的に突っ込むべきところは少なくない。てんこ盛りの諸要素はうまく噛みあわず、全体にちぐはぐ。観終わった《あ》は、どの登場人物も魅力的でなくて困ったと感想を述べた(子どもたちのお気に入りはフジモト)。5歳の男の子はやけに分別くさく、それ以外はじぶんのことだけで手いっぱいというひとたちばかりがあらわれる。物語は、つけるべきところでメリハリが十分に利かせられておらず、イコライザーの調整がうまくいっていない録音を聴くみたいにまどろっこしい。
それに、またしても「魔法」だ。なにもかも劇中で説明をつけるため、話のつじつまをあわせるための文字どおりの「魔法」なのかというのと、そうでもない。「魔法」をもちだされても話はいっこうに腑に落ちず、この設定に物語上いかなる必然性があるのかよくわからないまま1時間40分ほどの上映が終わってしまう。終わっても、素直に「よかった」という気持ちにはなれない。なんともいえず困った感情が残る。
しかしそれでもやっぱり、この作品はチャーミングだ。では、その「チャーム(魅力)」はどこに宿っているだろう? たぶんそれは、物語や人物やメッセージを追っかけているだけだと理解しにくい性質のものなのだ。
スクリーン上で圧倒的な展開を見せるのは、手書きの線への拘泥と、その線を動かすことへの尋常ならざる情熱である。それはたとえば、どうどうと逆巻く海や波の動き、物語の背景でわさわさと蠢く海の動物たちのようすに顕著に見てとることができる。あるいは他の宮﨑作品と同様、日常のなにげない身体のふるまいをするどい観察眼によってとらえ、それを独特のデフォルメをくわえつつ丹念かつ仔細に描いてみせることも同様だろう。
これらは一般には、CG全盛時代におけるジブリ的ないし日本アニメ的なアプローチなどというように、物語やメッセージとは区別された技術的な水準におけるひとつの逸話として理解されるかもしれない。じじつ監督の宮﨑駿自身がそう語り、メイキングもののテレビ番組や雑誌が好んでとりあげてきた。そうした面はたしかにあるだろう。でも、それだけではない。
手書きの線画を動かすとは、ようするにパラパラマンガである。ノートのはじっこに少しずつポーズを違えた絵を描き、ページをパラパラとめくる。するとその絵が動きだしたかに見える。これをパラパラマンガとよぶ。本作品は、劇場用長編映画として巨額の資金を投じて制作された「大作」にちがいないが、その実は全編パラパラマンガなのだ。本作品のチャームの源泉は、ここにある。そしてこの点において、今日におけるもっとも前衛的な志向性を体現した作品のひとつであるといわねばなるまい。
ドキュメンタリーであれ、いわゆる芸術映画であれ商業映画であれ、たいていの映画は「映画」の枠組みの内部で撮られる(テレビドラマなども同じ)。例外はほぼなく、つくり手も観客も評論家も誰もそのことを疑ったりしない。その枠組みの内側にどっかと座り込み、座り込んでいるという事実すら忘れたうえで、出来の良し悪しや興行収入の多寡を競い、「感動」したかどうかだとか、演技のうまさだとか、作品のメッセージだとか、参照すべき作品は何だとかといった議論をかわす。線の描き方や動かし方も、CGやVFXといった話と同じく、物語やらメッセージやらを語るための装置にすぎないと前提したうえで、せいぜいマニアックな技法上の問題ととらえるにとどまるケースがほとんどだ。
この作品はちがう。アニメーションという立場に立ちながら「映画」の枠組みの内側からその限界に向けて接近し乗り越えようとしている。あるいは、アニメーションという立場から映画をもう一度発明しなおそうとしたといってもいい。当事者にはそんなつもりは毛頭ないだろうが、すぐれてメディア論的な企てだといえる。
そもそもアニメーションと実写のあいだの境界線は一般におもわれているほど明瞭ではない。最近ではたとえばウォシャウスキー兄弟の『スピードレーサー』(なんともひどい作品)を想起すればいい。誰がみても、もう実写だCGだと区別することにほとんど意味は感じられまい。興味深いのはウォシャウスキー兄弟がこの作品中に、主人公の少年が教科書の端に落書きしたクルマの絵をパラパラマンガで動かすシーンを挿入するのを忘れなかったことだ。
パラパラマンガは映画のもっとも原初的な様態のひとつである。アニメーションであれ実写であれ、動きそのものは静止した映像を連続提示することでしか得られない。その事実を、多くのひとはすっかり忘れている。だが、多くのひとが忘れ自明視しているものにこそ、鋭い目が向けられなければならない。ふだん自明視しているみずからの拠ってたつ世界の成り立ちこそ根源的な地平なのであり、それこそが深く掘り抜くべき地平なのだ。
だから、ここで描かれる世界観、人物、物語などといった表象は、たんにメッセージを代理するという立場にとどまって満足してはいない。扱われる題材、描かれる物語、つくった者や観た者が語るメッセージといった諸々は、この作品が壮大なパラパラマンガであるという成り立ちと密接に、いや不可分に関係しており、この点を抜きにはとらえられない。この作品はしたがって、総体として観る者に一個の新たな性質の経験をもたらすことを志向した作品であると考えるべきだろう。
前作『ハウルの動く城』はいったい何がやりたいのか理解に苦しむつらい作品だった。子どもたちがいまでも話題にするのはカルシファーが「そうかなあ」といって気をとりなおすシーンだけという現実が端的にそのことを示している。これにたいして今回は、少なくとも何をやりたいのかははっきりしている。明解であって、しかも根源的だ。
ぼくにとってこの作品がチャーミングなのは、そのような意味においてである。もっとも商業性を要請される性質の作品においてもっとも根源的なアプローチにいどんだ監督以下スタッフ一同に敬意を表したい。
ただし、もちろん本作品において、そうした企てが首尾よく成功しているかといえば、そうではない。『千と千尋の神隠し』の方向性へ先祖返り──あるいは地金が露呈──している部分もある。しかし企てとはそのようなものだ。それでもあきらめることなく、あの手この手であらたな企てに赴く。おそらく、それが創造という営みの根幹をなすのだ。
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hajime-semi Blog- 口頭試問終了! Jan 30, 2012新年の挨拶をしていた先日から、気づけばすでに1月も終わる目前となりました。第36回の週報は<ジェット>がお送りします。 以前の週報でもお知らせしていましたが、ついに私たち長谷川ゼミは1月24日(火)に卒業論文の口頭試問を迎えました。 それにあたり、前日と当... […]ジェット
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