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ツイッター

東北地方太平洋沖地震

幾人かの学生たちから「無事です」と連絡をもらいました。とりあえず、無事でよかった。卒業生のなかには、仕事先で被災して帰宅できず、ツイッターだけを頼りに都内で一夜を明かした子もいたようです。これから帰宅するという。自宅に帰りつけますよう。

また、被災地に実家や親族のある学生も少なくないので、気がかりです。

被害があまりに甚大で、言葉になりません。心からお見舞い申しあげます。


オシムのつぶやき

南アフリカ大会の日本代表のたたかいが終わった。最後までたしかにファイトしていた。選手監督スタッフをたたえたい。こんな日本代表をみたのは、初めてだ。

この試合に限らず、また試合内容とは別の話として、今回の大会の中継放送で全般にかんしてひとつ挙げておきたい。

もっともおもしろいとおもったのは、スカパーのTwitterである。オシム前日本代表(そして元ジェフ千葉の)監督がリアルタイムで中継を観戦している最中の「つぶやき」を、文字化して(ほぼ)リアルタイムで流してくれる。オシムのつぶやきを通訳千田善さんが日本語にして、それを横に控えたスタッフがテキストに打っているようだ。

オシムの「つぶやき」や観戦中のようすのリポートも、もちろん興味深かった。でもぼくにとってより興味深かったのは、これが日本のマスメディアにおいて、デジタルメディアを放送と有機的に絡ませることで視聴者とのあいだに固有のコミュニティを生成しえた、おそらく初めての事例であろうという点であった。

こちらのほうの発案者や関係者、スタッフたちにも、ぼくは拍手を送りたい。


すべてがネタになる

事業仕分けのネット中継が話題である。動画中継も大規模におこなわれるようになったものの、あらためて思ったのは、Twitterが実況にいかに向いているか、である。これでキャノンボールみたいなことをやったら、さぞ面白かろう。

ところで、こうしたネット活用は、しばしばネット民主主義と結びつけられて語られる。もとより「パソコン文化論」は伝統的に、「草の根民主主義」の神話を共有してきた。電子テクノロジーによって実現する、対等な個人による討論の場──いわゆるデジタル公共圏である。「ネット論壇」などという言い方も、このような発想の上に成立している。

たしかに、事業仕分けのネット中継などをみていても、そこにネット民主主義的を夢みたくなるような何かしらの芽が含まれていると、感じられないでもない。そしてそのことを感じとった既存のマスコミはジャーナリズムの既得権益をおかされるように受けとるだろうから、これを叩いたり、あるいは逆にすり寄ったり持ちあげたりもするだろう。だからそれらとは一線を画したところで、ネット民主主義的可能性を批判しつつ擁護することは、おそらく重要なのだ。

しかし、それと同じくらい重要なのは、たとえば事業仕分けネット中継にたいして、ぼくたちが「実際のところ」どんなふうに接していたかをあらためて見つめてみることだ。

なぜぼくたちがあの中継を眺めていたかといえば、ようするに、面白かったからだろう。一部の生真面目な層はともかく、全体としてみれば、事業仕分けは「娯楽」として見られ、語られてきたはずだ。「娯楽」で語弊があるのなら「ネタ」といったほうが適切かもしれない。

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公式ブログはなぜ「公式」なのか

BLOGOSというサイトから連絡が来た。運営しているのは「あの」(と、つい枕詞をつけたくなってしまう)ライブドアである。ぼくのこの「散歩の思考」の記事を転載させてほしいという。こんな辺境ブログの何がいいのかはわからないが、興味をもってもらえたのはありがたいことである。といっても、何もかもが転載されるのではなく(だったら意味ないし)、世の中に意見しているような、古いジャーナリズム論的な言い方でいえば「ニュース価値」のありそうな、論説ふうの大文字的内容の投稿のみを選択的に載せたいのだそうだ。

試しにそのBLOGOSをのぞいてみた。政治家の「公式ブログ」というのがいくつも登録されている。いまやテレビ芸能人はいうにおよばず、政治家にとっても生き延びるためにはブログは必須アイテム、できればツイッターもやっておくのが望ましいと信じられているらしい。人気商売も大変である。

いい機会なので、政治家たちのブログがどんなことになっているのか、拝見した。個々の記事の中身にかんして特段の意見はない。ここでは別のことを書く。

「公式ブログ」はなぜことさらに「公式」を謳わなければならないのだろうか。

「公式」と「ブログ」の二つに分けて検討してみよう。まずは「公式」から。

当然考えられるのが、みずからを「公式」とラベリングすることで、非公式の有象無象とは違うぞとアピールしている、ということだろう。他と区別することで自己の唯一性を明示し、それによって正統性を強調する。ファンの勝手サイトと区別する芸能人の「公式ブログ」や、「宮内庁御用達」などといった権威づけの看板と同じ理屈だ。もちろんその唯一性や正統性を裏がえせば、それを担保にした自己宣伝へと結びつく。

正統性の保証という「公式」の性質には、さらにもうひとつの側面がある。それは「公式」が、ある枠組みの内側の論理にのみ照らして構成される言明、ひらたくいえば「建前」のみしか語ることが許されない場でもある、ということだ。そのことを理解するには、たとえば「公式見解」という定型句の使われ方を想起すればよいだろう。

一方「ブログ」のほうはどうか。

この媒体の基本は、運営者の言明が逐次ネット上に公開されてゆくことにある。ここでのポイントは「直接性」だ。新聞にせよテレビにせよ、マスメディアは政治家の代弁者ではないから、かれらの意図や期待どおりに伝えてくれるわけではない。ブログならばそうした他者が介在しないのだから、当人「自身」によって「当人の言葉」で「直接」に広く有権者に語りかける、という様相の演出を期待できる。いってみれば、マスメディアを中抜きして、みずからマスメディアとなるということだ。しかも既存のマスメディアには困難な双方向性も一定程度実現できる。そして重要なのが、当人による「直接性」を担保として、その言明に「正統性」の保証を与えることができる点である。

ちなみに、このように直接性を正統性にするすると横滑りさせる言説パターンを、ぼくは「直接性の神話」とよんでいる。この20年ほどのパソコンやネット文化論でさんざん使い回されてきたものだが、その時代の発明品というわけではない。それ以前から、新しいメディア技術やサービスが登場したときにつねに反復されてきたものである。

さて、政治家の「公式ブログ」だ。「ブログ」に依存した直接性を正統性へ横滑りさせ、そこに存在価値をおく以上、ここで「語りかけ」られる言葉とは、よそ行きの「建前」なのではなく、政治家本人の偽らざる「本音」であることが求められることになる。たぶん政治家本人もそのつもりで熱心に執筆しているのかもしれない(たとえ代筆者がいたとしても)。

しかし政治家たちのそんな涙ぐましい努力にもかかわらず、もちろん「公式ブログ」に「本音」が記されているとは誰も信じないだろうし、現にありえないだろう。なぜならそこはかれらにとって「公式」の場なのだから。

「本音」への期待と「公式」の抑圧。「公式ブログ」とは、その両者のせめぎあう場所だ。そのなかでは、「公式ブログ」で「本音」を強調すればするほど、それが自己宣伝であるように見えてしまうことになるだろう。政治家たちの思惑とは裏腹に。

ぼくの知っている範囲で、政治家の「本音」を垣間みることのできた例は、たぶんハマコー氏のツイッターくらいである。それも、かれ自身ツイッターが何なのかをよく理解していなさそうだった、ごく初期のころだ。「本音」というものがもしあるとすれば、それはたいていのばあい、あんなふうな場において、それと意図されることなく事故のように立ちあらわれてしまう何かなのだろう。

「公式ブログ」──べつに「公式ツイッター」でも何でもいいのだが──という場には、こんにちの政治家が身を置かざるをえない矛盾ないし齟齬が、はからずも露呈されている。

いずれにせよ政治家たちのデジタルメディア戦略は、世間でいわれているのとは少し違う方向で、今後ますますややこしくなろう。ブログやツイッターをやらなければ「時代遅れ」の烙印を押されるのだし、一度参入してしまったら最後とにかくブログを運営し続けなければならないからだ。止めてしまえば「政治家」として世の中に認知してもらえない。事実として認知してもらえないかどうかが問題なのではなく、そうなるかもという恐怖が巣くうから、止めるに止められないのだ。

しかもそこでは、一方では「本音」の吐露を強く期待され、みずからも手を尽くしてそれを演出しながら、他方では「本音」を吐くなどという無防備なふるまいはけっして許されない。そのような引き裂かれたジレンマを、政治家たちは生きなければならないのだ。

それが「公式ブログをもつ」という形式の発信してしまうメタメッセージであるらしい。

参考:BLOGOS


リアルタイム・ユーザー生成コンテンツ批判

ここ数年ネットサービスはユーザー生成コンテンツへ著しく傾斜しつづけてきた。ユーザー生成コンテンツとは掲示板やらSNSやらブログやらネットゲームやらといった、ユーザー自身の活動が直接「コンテンツ」(空疎な言葉である)となって、それにコメントを付加するなどして「つながり」(これも空疎な言葉である)を連鎖させてゆくようなタイプのメディアサービスのことをいう。

さらにここに来て、モバイル環境の整備やスマートフォンの普及も手伝って、よりリアルタイムなやりとりに焦点があてられる傾向が顕著になってきている。ツイッターなどがその典型である。その時どきで思いついた短いフレーズを始終ネットに書き込みつづけ、それにべつの書き込みが連鎖してゆくわけだ。

ユーザーの立場からすれば、じぶんたちがいろいろなひとに「つなが」っていることを確認できるし、それなりに新しい出会いや発見もあることはある。そうしたサービスが登場する以前には、たしかに事実上あまねく実現することが困難だった現象である。その意味ではたしかに有為であり、これが多くの可能性を潜在させていることを否定する理由はない。

しかし同時にそれがあくまで資本によって提供されている商用サービスにすぎず、もう一面においてわたしたち自身がユーザーに仕立てあげられ「やらされている」ものでもあるという事実のほうは、しばしば忘れられがちだ。とくに本来はもっともそうした事柄に敏感であるべきIT系の各種メディア言説においては。

ユーザー生成コンテンツのサービスの渦中において、わたしたちは、マイミクの多さを「つながり」の濃度として誇示しなければならなかったり、ツイッターのフォロー数の増減にやきもきしたり、四六時中つぶやきやらコメントやらをチェックしたり書き込んだりして過ごしている。何かあれば、あるいは何もなくとも、とにかくチェックや書き込みをしていなければならない。べつに誰かにあからさまに強要されるわけでもないが、そうしないと落ち着かなくなる。客観的にみれば、これはもう立派な依存状態であろう。

そうした状態を断続的にではなく常時ユーザーにもたらすような仕掛けが、資本のいう「リアルタイム」である。ということは、ユーザー生成コンテンツ・サービスをリアルタイムで提供することとは、片時たりともそこから離さないようにして、ユーザーの依存状態をよりいっそう徹底し、中毒化させることを意味している。

リアルタイムとは、始まりと終わりをもつような性質のものではない。そうではなく、あらゆる瞬間がそれぞれリアルタイムなのである。したがって、リアルタイムを追いかけ続けるという現象は、わたしたち自身によって経験される「時間」という概念を大きく変容させうる。わたしたちが通常そう考えているような、流れてゆくべきものとしての「時間」という概念を無効にすることを意味しているからだ。あらゆる瞬間がリアルタイムであるのだから、そこに棲むこととは、つねに現在だけが一枚ぺらりと漂っているような、現在が永遠であり永遠が現在であるような、つまりは無時間的な世界に沈殿してゆくことにほかならない。

もちろん物理法則に支配された実世界においては時間は経過しているわけだから、そうした無時間的世界はいつか破綻するにちがいない。思いつくことを思いついたなりにただちに(リアルタイムに)ツイッターにあげることは、それによってさまざまなコメントやらフォローやらを誘発して思いもかけない「つながり」に、それこそ「つなが」ってゆくこともあるだろう。それはそれで愉しいと感じられるようなことであるかもしれない。

けれどもそうして得られる「つながり」や愉しさと引き換えに、わたしたちは、「わたし」のなかにあらわれた小さなひとつの感覚を捕捉し、それと粘り強く向きあってゆくための契機を失いかねないということも覚えておいたほうがよい。その過程は必ずしも心地よいものではないが、そうしないかぎり「わたし」のなかの「内圧」はけっして高まってゆくことはない。「内圧」の高まりがなければ、何かを表現するものとしての「わたし」はその根拠を失ってしまうだろう。

ユーザー生成コンテンツ・サービスにおいては、コンテンツの創造者を特定の主体に帰することを原理的に要請していないので、その立場からすれば「内圧」など邪魔なだけだ。いかなる書き込みであれ、それは本質的に固有名とは無縁の位置にある。その点において、ユーザー生成コンテンツは伝統的なメディアが構築してきた表現形態と対峙する。

しかし少なくともわたしにとって、ものを考え書くことは、あくまで「わたし」を根拠におこなうことでしか成立しない性質の営みである。したがって、そのように始終つぶやきを垂れ流すことは、たとえ気持ちのうえでいくらか「楽」になるのだとしても、せっかく「内圧」の高まりをもたらすかもしれない機会をみすみす「ガス抜き」して逸してしまう自棄的な行為であるように映る。

いかにも時代遅れの古い考え方だといわれれば、なるほど、そうかもしれない。もしそう嗤われるようなことがあれば、わたしはよろこんで「古い」人間の側に立つことを選ぶだろう。


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