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ドキュメンタリー
クジラとカメラ
- May 23, 2011 09:34
- メディア論的に考える | 考えたこと
NHK「クジラと生きる」をみた。Twitterで「ダーウィンが来た」と番組名を混同したツイートを流したが、あれは勘違い。Nスペでした。
イルカ漁を告発的に描いた映画『ザ・コーヴ』に対抗する意図があったのか、太地町のクジラ漁師たちに寄り添うつくりだった。当然、反捕鯨団体の行状は、そちら側から映しだされる。
団体のひとびとが太地町に常駐している。多くは白人で、英語しか話そうとしない。手にビデオカメラを持ち、漁師たちには理解できない英語で侮蔑の言葉を投げつける。10万円やるからクジラを逃がせと(英語で)漁師に迫ったりする。隠し撮りもする。
ようするに、クジラ漁の「非人間性」を世界に告発するという目的のためならば、挑発や犯罪に近い行為であれ、なんでもする。それが正当化されるのは、じぶんたちが「正義」に従っていることを信じて疑っていないからだ。
かれら(太地町にいる反捕鯨団体の白人たち)がずるいのは、一方で「正義」を掲げながら、その実、じぶんたちはつねに安全地帯に身を置いているからだ。太地町で何がおきようと、かれらには何も失うものがない。かれらはただ「正義」にもとづき「告発」する。じぶんのことを「正義」だと信じる者ほどたちの悪い人間はいない。
で、そんなことを《あ》と話していたら、《みの》(高校生)が介入してきた。そういうことはこの家のなかではもう合意しているのだから、くりかえし話していても仕方ないだろう、捕鯨の立場をもっと理解してもらえるようにアピールする方法を考えたほうが建設的ではないか、というのだ。
もっともな主張である。で、さらに議論になった。
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映画『こまどり姉妹がやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』
- Dec 6, 2009 13:32
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こまどり姉妹を追ったドキュメンタリー。古くから活躍する二人組の女性演歌歌手である、という以上の知識をほとんどもたないまま観た。
実の姉妹である二人の語る一代記がそのまま物語となる。1938年北海道生まれ。戦時中は樺太に渡っていたこともある。その後の人生はじつに紆余曲折。食うや食わずの生活、山谷暮らし、浅草での流し、デビューとヒット、紅白に数年続けて出演して絶頂をきわめた矢先、妹がファンに刺されて大けが、さらに癌にも襲われ闘病生活に入る。人気は一気に凋落してどん底に。ムード歌謡への路線転換をはかったりと迷走する。追い打ちをかけるように父母が亡くなり、姉は未婚の母となる。──なんとも浮き沈みの烈しいジェットコースター人生である。
しかし、なかなかに壮絶なそうした半生を、いまや70を越えた老姉妹は笑い飛ばしてみせる。そのしたたかさと逞しさが、この作品をカラッと乾いたユーモアでくるんでいる。
現在彼女たちはおもに各地の健康センターなどをまわって公演をしているらしい。「よく見えますか、厚塗り」などと言いながら会場をまわって中高年男性たちと握手してまわる。背中の帯の結び目には客からのご祝儀として万札が何枚も差しこまれてゆく。その姉妹の姿は、さながらアンギラスのごとし。
映像は、古い記録映画や彼女たちの出演映画やテレビ番組、スティール写真、インタヴュー、公演のようすなどで構成されている。演出はテンポがよい。昨今のこの種の映画にありがちなあざとさもない。タイトルのみならずタイトルバックも秀逸だ。
製作はアルタミラピクチャーズである。ここはフジテレビと組んだ若者向け大作映画で儲けるかたわら、昭和歌謡曲史やフォークを題材にしたドキュメンタリーをこつこつ撮っている。こうした姿に、こまどり姉妹的なしたたかさと逞しさを見出すこともできよう。その姿勢はもっと評価されてよいのではないか。
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映画『マイケル・ジャクソン This is it』
- Nov 29, 2009 11:58
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急逝したマイケル・ジャクソンが準備していたコンサートのリハーサルを収めたドキュメンタリー。冒頭で、元来はマイケルの個人的な記録用として撮影された映像である旨の断りが入る。オーディションから本番直前まで、ほぼ全篇がリハーサルの現場の記録で構成されている。
ここ十数年は音楽よりも私生活がらみのほうでいろいろあったマイケルだが、この作品はあらためて、かれの偉大さを知らしめることになるだろう。
その偉大さは、たんに一芸に長じているというような性質のものではない。独自の世界を構築しえたがゆえの偉大さである。
そのことは、かれがたいへん幅広く多面的であることと関係している。本作品がスケッチしているのは、そうした一端だ。シンガー、ダンサー、パフォーマー、プロデューサーとして出色なのは言うにおよばない。リハーサル中にさまざまなアイディアを出し、スタッフに注文を出すのだが、それをめぐるやりとりはじつに興味深い。かれが苦労人であることもわかる。ときには子どもっぽい面も見せる。地球環境問題にたいする発言もおそらく本気なのであり、良くも悪くも素朴である。ことあるたびに “God bless you” という言葉を口にする。
ファンの待ち望んでいる曲を、かれらの期待を裏切らない形で演じるのだと何度もいう。本番さながらの密度をもったパフォーマンスで、リハを重ねる。誰もいないガランとした客席に向かって。その空虚な客席が観客で満たされる日がけっして来なかったことを知って観るだけに、なかなか胸に迫るものがある。
じつは最初、ぼくはこの作品を観る気はなかったのだが、床屋さんに勧められたので考えを変えたのだった。当該シネコン最大のスクリーンなのに、けっこう座席が埋まっていた。どう見ても全盛期のマイケル・ジャクソンを聴いていたとはおもえない(かなり)年配の観客が目につく。終了後、どういうわけか客席から拍手が少々。
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映画『ピリペンコさんの手づくり潜水艦』
- Nov 22, 2009 18:48
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二日間の卒論ゼミ中間発表会を終え、翌日は特別入試の面接だった。終了後イメージフォーラムまで『ピリペンコさんの手づくり潜水艦』を観にいってきた。
内容はまさに題名どおり。ピリペンコさんとは、ウクライナの草原の村に住むおじさん。62歳。年金暮らし。近所の池で魚の養殖(?)もしている。ドキュメンタリーだから実在の人物である。ナレーションも当人がおこなっている。
かれの趣味は潜水艦づくりだ。20年前に雑誌の記事をみて思い立ち、以来その雑誌記事だけを頼りに、自宅の片隅で自作してきた。その名もイルカ号という。乳母車にお椀で蓋をしたような恰好をしたイルカ号、黄緑色の船体に丸い窓が穿たれ、モーター駆動のちっぽけなスクリューがついている。潜水艦なのに四輪車でもあるのは、古ぼけた自動車に牽かれて移動するためだ。
このイルカ号で海に潜る。それがピリペンコさんの目標だ。しかしかれの住む村は見渡すばかりの草原の只中にある。かれは半ば棄てられたトラックをコルホーズから強引に借りだし、潜水艦を積み込んで、400km離れた黒海まで運ぼうと計画する。……
自作するのが潜水艦というのが、ちょっとすごい。ロケットボーイズみたいな、どこか自己撞着的な意識など微塵も認められない。舞台も西欧ではなくウクライナという「辺境」。そのうえこのピリペンコじいさん、べつに偉人でも人格者でも、絵に描いたような変人でもない。じぶんの古びたコンプレッサーに高い値段がつくとわかったときのニヤケぐあいは、かれが世界中を満たしているごくごく凡庸な俗物であることを示している。それゆえ健全である。
脱力系、ゆるさ、あるいは夢を追い続けて実現することの大切さ。この作品はたぶん、そういった陳腐な主題でもって語られることが多いだろう。じっさい配給会社はその方向でマーケティングをかけているようだ。
そういった見方は、しかしかなり暢気なものだと心得たほうがいい。なぜならこの作品は、ドキュメンタリーと称してはいるものの、半ば劇映画と理解すべきだからだ。
もちろん登場する人物は実在するだろうし、お話自体も実話なのだろう。その意味では、なるほどドキュだといえばドキュである。米国製のドキュにありがちなこれみよがしにあざとい映像もない。けれども同時に、物語としてかなり強力につくり込まれていることも見逃してはならない。
どの場面でもよいが、たとえば会話の場面に注意を払おう。一連のシークエンスをいくつかにカットを割って構成している。話者が変わるのにあわせて切り返したり、必要におうじて引きのショットが入ったり、特定のものに注目させるべくクローズアップが入ったり、あるいは最後のシークエンスでみせるように、わざと特定のものをフレーム内からはずしてみせたり。
そこまで計算されたショットを、一般的な意味でいうドキュメンタリーで撮影することは不可能である。見たところ複数台のカメラを同時にまわして撮影しているというわけではなさそうだし、むしろ事前に周到に用意された脚本にしたがってカットごとに撮影したと考えたほうが妥当とおもわれる箇所が頻出する。
それでもこの作品がたのしいのは、画面に映しだされるディテールに力があるからだ。
ピリペンコさんの指のあいだには黒い油が染みついている。なかには爪のほとんどなくなった指もある。戸外で食事をするが、調理場といわずテーブルといわず蠅だらけ。家のなかにも村のあちこちにも、アヒルや猫や犬がのべつ闊歩する。イルカ号に乗り組むためのハッチがスライド式であったり、潜航時に笑ってしまうくらいボタボタと浸水し、ピリペンコさんの眼鏡が曇り、額から浸水に負けないくらい汗が流れている。そんなひとつひとつの表情が、この作品を映画にしている。
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映画『マン・オン・ワイヤー』
- Jul 2, 2009 12:04
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かれが歩こうと決めたのは、地上411m。マンハッタンにそびえる二本のスカイスクレイパーのあいだにワイヤーを張る。その上で綱渡りしようというのだ。ひとりのフランス人綱渡り師に取り憑いたこんな「妄想」が実現されるまでの過程を、本作品はテンポよく追う。
もちろん違法だ。正規の手続きを経ていては許可はのぞめない。警備員に変装し、ジャーナリストを装い、さまざまな手段で侵入しては下見をくりかえし、計画を練る。しかしかれらの計画は、綿密なようでいて、穴だらけだ。仲間をつぎつぎと抜け、かき集めてきた新参者は、いざ現場を踏むと、怖さに堪えかね逃げだす始末である。それでも計画どおりワイヤーを張り、夜明けとともに超高層の綱渡りは決行される。
そこは東京タワーの突端よりまだ80mも高い。困難、無謀、無意味、愚かしくさえある。非現実的なその「妄想」は、だが主人公の綱渡り師フィリップにとっては自然で必然である。それだけにこの作品は、ドキュメンタリーというより、ドキュメンタリーの体裁を借りた壮大な法螺話のような印象をもたらし、ゆえに寓話として機能する。
寓話の中心となるのは、WTCの南・北棟のあいだを綱渡りするフィリップの姿をとらえたロングショットである。張られたワイヤーは細く、視認しがたい。だからその上を歩くフィリップは、まるで宙を歩いているかのようだ。いや、それを比喩と理解してはならない。かれが歩いてみせたのは、じじつ高度411mの宙空なのだ。
ワイヤーを支えたツインタワーは、綱渡り決行30年近くのちに、予想もできない仕方で崩壊する。周知であるはずのこの事実は、しかし作品中ではひと言も触れられない。むろん意図的だろう。
ここには二重の不在が認められる。フィリップの超高層宙空歩行を可能にした二本のバベルの塔の不在と、その事実にかんする言及の不在。それらは誰もが知っている空白であり、それゆえにこのうえなく雄弁である。ローワー・マンハッタンのあの空には、いまではフィリップの足跡だけが宙に浮かんでいる。
だからかれの行為は、二つの極を、文字どおり綱渡りによって結びなおし、両者の区分を無効にしてみせたのだといえる。その意味で、ひとりの綱渡り師の「妄想」的行為は、それが何かの代理をまったく意図しない「妄想」であったがゆえに、英雄的であった、といえるかもしれない。じじつ警察に逮捕されたフィリップは、その違法行為にかかわらず(あるいはそれゆえに)名声を獲得する。もはやただの綱渡り師ではない。「芸術家」だ。かれは綱渡りをみごとに渡りきったのだ。
けれども綱を渡れるのはひとりだけ。ふたりは渡れない。フィリップは相応の代償を支払わねばならなかった。それは、それまでかれを陰でささえ、さまざまな困難を乗り越えるのに不可欠な存在だった仲間たちである。かれらもやはり逮捕されるが、フィリップとは対照的に、米国を追われる。かれらの共同体は、「夢」という「妄想」の実現を目的に据えることで生まれ、育くまれ、鍛えられた。そして目的の達成された瞬間に飽和して、一気に解消された。
画面にあらわれる今日のフィリップは、いつ果てるとも知れず、ただただおしゃべりをし続ける。その相貌は、自身の共同体をみずから生贄として差しだした経験をもつ者だけにしか見出されない種類のものだ。陽気であり、才気にあふれ、そして絶望的なまでに凄惨。そのことを、わたしたちはつくづく思い知らされる。
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映画『小三治』
- Apr 1, 2009 08:49
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柳家小三治師匠のドキュメンタリー。
寄席、楽屋、旅先、稽古場。小三治の出かけるところならどこへでも、カメラがとことこついてゆく。つかず離れず、奇をてらわず、小三治に寄り添いつづける。その間合いがいい。
小三治の口をついて出てくる言葉は、つねに考えているひとのそれである。お茶汲みのおねえさんに話しかけること、師匠に教わったのに師匠に違和感をもつこと、弟子に「教える」ことについて、などなど。まじめで、努力家、つねに芸のことを考えている。そして、そうしたじぶん自身の気質を、ときにポーンと突きはなしてみせる。凄味がある。「じぶん探し」という言葉も飛びだす。この言葉づかいには意表をつかれる。
カメラは、折々にみせる厳しい表情を、さりげなくとらえる。「厳しい」といっても、厳しさが表にあらわれているわけではない。かといって無表情でもない。ちょっと唇を突きだすようにして、悄然としているようでさえある。「にこりともしない」という表現がもっともふさわしい、そんな顔だ。
小三治のその顔に出会えることが、本作品の届けてくれる最大の贈物であろう。
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映画『ザ・ムーン』

アポロ計画をふりかえるドキュメンタリー。同時に、本作品の提供者であるロン・ハワードが監督した『アポロ13』(1995)が、史実にもとづいた劇映画としていかによくできていたかをも教えてれる。
1961年のケネディの演説から始まり、69年のアポロ11号による初の有人月着陸、72年のアポロ17号による計画の終焉まで。本編100分ほどを、アポロで月まで旅してきた宇宙飛行士たちのインタビューと、当時の記録映像だけで構成する。昨今の英米系のドキュメンタリーでしばしば目につくあざとい系の演出は皆無。対象へ切り込み、切りとり、構成して提示するという基本に、潔いまでに忠実だ。それが結果として、このプロジェクトの偉大さをストレートにあらわしている。
アポロ計画については多くが語られているが、本作品でなによりすばらしいのは、NASAに保管されていたという記録映像である。計画の初期、木材で宇宙船のモックアップがつくられていたりする光景がちらりと映る。とくに驚かされるのが、飛行中のサターンV型ロケット(以前にヒューストンで展示されているのを見たが、むちゃくちゃ巨大な代物)がつぎつぎと切り離されるようすを、遺棄される側から撮影した映像である。どうやって回収したのだろう?
宇宙から帰還した飛行士たちのひとつの傾向として、超越者の存在に惹かれてゆくことが、たとえば立花隆の『宇宙からの帰還』などの本で語られているが、ここでもそれが確認できる。
アポロ計画自体は、冷戦体制下における西側世界の盟主としての米国の威信をかけた国家プロジェクトだった。その結果、9機のロケットが月へ向かい、12名が月面に降りたつことになった。アポロ以後、人類は誰も月を訪れてはいない。アポロ計画自体は国家威信の産物だったにせよ、人類が月へ降りたったという事実自体の価値は別のところ、つまり科学的成果や人類によるひとつの到達点として位置づけられるべきである。本作品ではこうした見方が強調される。
エンドタイトルで、いわゆる捏造論(月着陸はヤラセだった)への反論が差しはさまれるが、これは蛇足。明らかに日本人的発音による『ムーン・リヴァー』がさらに蛇足を重ねる。日本版にのみ付着した営業用イメージソングだという。
なお上の写真は今年の元旦の月。夕方、デッキから撮った。
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映画『ウォー・ダンス──響け僕らの鼓動』
- Dec 29, 2008 08:24
- ミュージカルという問題 | 映画を観る
こちらの作品もやはりドキュメンタリー。『ヤング@ハート』(評)が高齢者を対象としていたのにたいして、こちらは子どもたちが主役である。舞台はアフリカ・ウガンダ北部の内戦地帯。内戦孤児など紛争の犠牲になった子どもたちが、音楽やダンスをとおしてアイデンティティの再構築を図る。
この作品で強調されるのは、「死」の影からの離脱である。孤児たちは、紛争によって肉親を失ったというだけではない。この内戦において、子どもはむしろ巨大な争点のひとつである。子どもをさらってむりやり兵士にしたてあげ最前線にたたせる事態が恒常化しているため、子どもたちはつねに存在論的な恐怖にさらされつづけている。難民キャンプにいる子どものなかには、実際に大人の殺害への加担を強要されたりした経験をもつ者さえいる。
ほとんど人間であることを剥奪されているような極限状況の凄惨さは、したたるほど濃厚な大自然の描写によっていっそう強調される(演出手法としては常套だが、かなりあざとい印象をうける)。その血塗られた「死」の影のただなかから、かれらを救いだしうる唯一の具体的手立て。それが音楽とダンスである、と描かれる。
アイデンティティを獲得するためには他者による承認が必要だ。子どもたちはそのために、首都──北部の紛争地域とは対照的に平和で近代的であり、落差が強調される──でおこなわれるウガンダ版ダンス甲子園(国家主催らしい)のような全国大会に挑戦することになる。その目標に向けて厳しいトレーニングが課され、そのなかで子どもたちの立場や事情がもたらすさまざまな差異が埋められてゆく。その過程は、音楽を媒介にすることで、かれらが否応なく投じられていた「死」の世界から「生」に向けての脱出行だといえる。そして最終的に、自信と誇りをとりもどすきっかけを得るまでに至る。
その過程で獲得されてゆく「生」は、木琴奏者として認められる少年を除けば、みずからが帰属する部族の一員という形でのアイデンティティ再構築によってもたらされる。内戦によって「死」に包摂されざるをえなかった子どもたちが、アイデンティティをとりもどす過程をとおして、けっきょくはナショナリズムの地平に回収されてゆく。製作者側の意図とは(おそらく)裏腹に、その過程はそれ自体、内戦のようなものとは異なる別の凄惨さを含んでいる。子どもたちもまた、かれら自身の「生」を奪ってきたはずの内戦当事者──政府や反政府勢力と同じ論理の枠組みに着地してゆくのだから。
その観点からすれば、音楽もダンスもむしろ動員のためのメディアとして描かれているといわねばなるまい。
わたしたちがナショナリズム的想像力からどれほど自由でないかを思い知らされると理解すべきなのか、それでも血が流されないだけまし、とうけとめるべきなのか、あるいはその両方なのか。
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映画『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』
- Nov 14, 2008 17:59
- ミュージカルという問題 | 映画を観る
とにかく必見である。
ブロードウェイ・ミュージカル『コーラスライン』の2006年再演時のオーディションを追ったドキュメンタリー。邦題は腰が抜けるほどベタだが、そんなことに惑わされてはいけない。ぜひスクリーンで観てほしい。
観終わると、ある種の転倒した感慨がこみあげてくる。というのも本作品は、たぶん1970年代以降のハリウッド産ミュージカル映画のなかでもっとも「ミュージカルしている」フィルムのひとつであるからだ。
ドキュメンタリーなんだけどな、これは──。いや、違う。ドキュメンタリーだからこそ、と理解するべきなのだ。
本作品が「ミュージカルできている」のは、図らずも偶然性がまぎれ込んでいるからである。だからここでの身体は、物語に解消されそうになりながらも、かろうじて踏みとどまっている。この半世紀が、ミュージカル映画の終わってしまったあとの時代(これを「ポスト・ミュージカル映画の時代」とよぼう)であることを鑑みれば、この僥倖はほとんど奇跡的である。企画制作サイドでさえ、ここまでの見通しはもっていなかったにちがいない。本作品はあくまで『コーラスライン』再演という一大プロジェクトの余録、という位置づけであっただろうからだ。
僥倖をよびこんだ基盤は、直接には、実際のオーディションのドキュメンタリーという成り立ち方にあり、けっきょくのところこの点に尽きる。21世紀の身体管理社会においてミュージカル映画を成立させうる狭隘な一筋の回廊を見出したこと。そこに本作品固有の意義が見出されるべきだろう。ただし、つぎに同じ道を同じように抜けようとすれば、たちまち崩れ落ちるかもしれない。
*
印象に残ったシーンをいくつか。
原案・振付・演出の故マイケル・ベネットの姿を収めた記録映像と、その扱い方にあらわれるかれへの敬意。
コニー役候補者のひとり高良結香さんの審査において、初演時のコニー役で今回の振付担当バイヨーク・リーがダメ出しする姿。過剰なまでに「アメリカ性」を主張するさまは(「物心ついたころから地下鉄の座席のとりあいを経験していなければね」)、いかにもじぶんの力だけを頼りに成り上がってきた移民の末裔らしい。
そして選考においては徹底的に容赦ないのと同時に、候補者にたいしてつねに敬意を払う姿勢をわすれないエイヴィアンはじめ演出スタッフの姿勢。
なお原題は “Every Little Step”。『コーラスライン』のテーマ曲 “One” の歌詞からとられたフレーズである。
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映画『ビルマ、パゴダの影で』
- Jun 20, 2008 17:08
- 映画を観る
昨日は、人文書の書店員さんたちの勉強会で話をさせていただいた。「ポスト人文書空間において「人文書」はいかに可能か」と題して、いま書こうとしている論文の内容を、さわりのところだけなのだけれど、お話しした。参加者はみなひじょうに熱心で、ぼく自身もいろいろと教えられた。貴重な機会だった。
公開されたばかりのFirefox 3.0をさっそくダウンロード。むちゃくちゃ速い。でもやっぱり、メインでつかうのは当面Safariのほうだろう。
*
さて、しばらく前に観たドキュメンタリー映画の評である。『ビルマ、パゴダの影で』(アイリーヌ・マーティ監督)。監督はスイス人ドキュメンタリストで、観光PR番組の制作と偽って入国し、案内兼監視役の公務員の目を逃れて撮影を敢行したものだという。ミャンマー(というのは軍事政権のつけた国名らしいのだが)で軍事政権に圧迫される少数民族を中心に取材した作品だ。
軍事政権そのものの圧政を直接描くのではない。ミャンマー国内の多民族状況のなかで、主流派のビルマ民族が、それ以外の少数民族を迫害しているという構図の下に、その少数民族たちの状況を描こうとしている。
政府軍によって村を追われた少数民族のひとびとが難民キャンプにのがれてくる。かれらの口から、軍隊が村に入り、無茶な徴用で労働力を奪い、家屋や備蓄食糧へ放火をくりかえして、少数民族を徹底的に迫害するさまが語られる。だれもが、ぽつりぽつりと、ちぎっては投げるようにして言葉を吐きだす。
難民キャンプを守っているのは、少数民族による武装した反政府軍だ。かれらは密林のなかで政府軍とたたかっている。反政府武装組織はいくつも存在するようだが(それはそうだろう)、それらは連帯しているとナレーションが語る。
将来の希望は? とインタビュアーが難民キャンプに暮らす子どもたち──多くは戦闘で身寄りをなくしている──に訊ねる。子どもたちの答えは、みな一様だ。少女は、故郷の村で教師になりたいという。少年は反政府組織の兵士になりたいという。両親を殺したやつらを撃ちたいのだという。
声高に告発するのではないが、作品の視点は基本的に少数民族の側に寄り添っている。それゆえか、軍事政権対少数民族という図式を知らず知らずに強調することになる。背景事情を詳しく把握していないので、的外れかもしれないが、おそらくは少数民族側とて一枚岩であるのではなく、いくつもの切断線が走り、相互に思惑が錯綜しているにちがいなかろう。であるのなら本作品は、貴重な報告であることをじゅうぶん認めたうえで、同時に作品として見るならば、全体に少々図式的で平板なのが残念だといわねばなるまい。
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hajime-semi Blog- 口頭試問終了! Jan 30, 2012新年の挨拶をしていた先日から、気づけばすでに1月も終わる目前となりました。第36回の週報は<ジェット>がお送りします。 以前の週報でもお知らせしていましたが、ついに私たち長谷川ゼミは1月24日(火)に卒業論文の口頭試問を迎えました。 それにあたり、前日と当... […]ジェット
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