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ピクサー

映画『トイ・ストーリー3』

「トイ・ストーリー」シリーズの最終回(?)の主題は、成長と別離だ。

子どもから大人になること。そこで不可避に生じる別離をめぐる葛藤。それを巣立つ側と見送る側とがそれぞれのやり方で受け容れ、乗り越えてゆくこと。成長と別離はアメリカの現代文学がくりかえし描いてきた主題であり、ハリウッドでも若者向け作品を中心にやはり同様に反復されてきた。この主題にピクサーがどう挑戦するかが、本作品の見どころである。

結論を喩えていえば、一勝一敗といったところか。まず一勝のほうから。

主人公の人形は、大学入学を控えるまでに成長した持主の少年と、いよいよ別離を覚悟しなければならない時期をむかえることになった、という設定から物語が始まる。わかれたくない、一緒にいたい、という気持ちと、しかしそこにはじぶんたちの居場所はないという現実とのあいだで、少年も、おもちゃたちも、それぞれが烈しく揺れ動く。おもちゃと子どもとは、もとより棲む世界が異なっている。おもちゃはいつまでもおもちゃであるが、子どもはやがて大人になる。両者の蜜月はいつか終わる。それをそれぞれの仕方で受け容れることが、つぎのステップへつながる。

その意味でこの作品は、ウィニー・ザ・プーの変奏、もしくはリベンジである。

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映画『カールじいさんの空飛ぶ家』

煎じ詰めれば、冒頭の約10分間がすべて、という作品である。

この短い時間で、主人公カールじいさんの75歳にいたる人生を一気に回顧する。むろん漠然とではなく、本作品の主題に即して。この間の台詞はきわめて限定的であり、原則としてアニメーションだけで描ききる。その手際のよさだけでも観るに値する作品である。毎回いうのだが、かれらが映画とアニメーションをどれほど勉強しているかを端的に示しているからだ。

けれども、そこに続いて展開される物語の本体のほうには、特段すぐれた点を見出すことはむずかしい。はっきりいえば凡庸の域を出ない。もちろんそこは安心のルクソー印。夢とスリルと冒険の詰まった成長譚として、多少の破綻はみられるものの、いつもながら、ていねいにつくられている。

成長譚として興味深いのは、成長するのがひとりではない点である。それは空飛ぶ家に「味方」としてかかわったすべての関係者がそうであり、当然75歳のカールじいさんも含まれていることである。すでに長い人生経験をもつ人物が成長するという意味では、『クリスマス・キャロル』的だともいえなくもない。いずれにせよ、ここに登場する人物や動物は、何らかの欠落をかかえて社会的に周縁に追いやられたひとびとであって、そうしたところに焦点をあわせる視点が児童文学の常道であることも想起されてよいだろう。ピクサーはその伝統とメソッドをきっちり踏襲している。それが手堅い物語構築をもたらす土台になっている。今回は手堅すぎたというか、もうひとつアイディアが足りなかったようにおもわれる。

とはいえ全体は活劇仕立てとしてしっかりつくられているから、誰でも安心して手に汗にぎって鑑賞していられるだろう。巨大飛行船や、無数の風船をくくりつけて雲間を飛んでゆく家のイメージに、ラピュタやハウルの影を読み込むことも、そうしたければ、いくらでも可能だ。

ぼくが観たのはピクサー初という3Dの字幕版。昔の立体映画やら以前に存在したディズニーランドのアトラクションと同様、受付時にわたされる『サンダーバード』のブレインズみたいなゴツいフレームの専用眼鏡をかけて観る。ぼくのようにふだんから眼鏡をかけている人間にとって、二重に眼鏡をかけなければならないのは、けっこう難儀である。3D代として300円が上乗せ徴収されるが、出費に見あう効果が得られるかどうかは微妙といわねばなるまい。

本編上映前に短編が併映される。いつもながらサイレント仕立ての小品で、物語としてもよくできている。


映画『ウォーリー/WALL・E』

ピクサーの作品はどれもよくできているが、本作品は一頭地を抜く。SFエンタテインメントとして十二分に愉しめるというだけではない。ピクサーのアニメーション作家たちが、どのような映画的伝統のなかで生きているか、あるいはそれを引き受けようとしているか、そしてそのためにどれほど勉強を積み重ねているかということを嫌というほど思い知らされる。それが『ウォーリー/WALL・E』である。

キャラクター。状況設定。素材。物語。そして主題。どれをとっても、斬新なものはひとつとしてない。あらゆる要素が類型的であり、定型の枠を一歩も踏みはずしていない。おどろくべきことは、にもかかわらず、作品としてここにキュートなオリジナリティが確実に認められることである。

成功の理由はどこにあるか。それは、基本的な類型にたいしてあきれるほど忠実かつ丁寧な姿勢を徹底させていることである。

この姿勢はまず、個々の要素にたいして例外なく貫かれている。本作品を構成する膨大なショットのなかに手抜きや惰性を発見するのは至難だろう。たとえば、スリープしたイヴをウォーリーがつれ歩くシーン。傘をさしたとたん落雷するシーンはわざわざ二度くりかえされる。ベンチから転げ落ちたウォーリーは側らの電柱に頭をぶつけるが、ここでもご丁寧に街灯の古電球が落下してウォーリーの頭を打つ。

これらはもちろん、手垢がびっちりこびりついたと形容できるほど古典的なルーティンの表現である。しかし本作品の画面を埋め尽くすのは、全篇これルーティンばかりなのだ。このことは、サイレント時代のスラップスティックから連綿とつながる映画的伝統をこの作品が引き受けようとしていることを意味する。その伝統とはすなわち徹頭徹尾「動くこと」、デフォルメされ類型化された身体のふるまいの表現にほかならない。

このことは、アニメーションという表現様式の根源とも共振している。線画であれ人形アニメであれ、ようするに動かないはずのものに運動を与えることであり、それが実現されることへの興味と歓びである。その姿勢は本作品のあらゆる細部において体現されている。だからこそわたしたちは、物語が進行するにつれて、登場するロボットたちのなかに「生命」が宿っているという感覚に信頼をおくようになってゆく。

さらに、類型への徹底した忠誠は、これら諸要素を組織するその仕方にたいしても同様に貫徹されている。先述した傘のシーンをはじめ、何気なく描かれるシーンや、そこでさらりと登場するアイテムは、けっしてその場限りで使い捨てにされることがなく、大小さまざまな伏線となって活きてくる。それらが複合することで、筋としてはシンプルでありながら、物語としては豊かなテクスチャーを織りなしているのである。

定型どおりの物語は、『E.T.』を逆まわしにして、『スターウォーズ』や『2001年宇宙の旅』など往年のSF映画の風味をふんだんにまぶしたようなものだといえばよいだろうか。基本構造は、身から出た錆によって世界から疎外された人類が、再び創世をはかろうとする神話である。

といえば、ここに宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を重ねあわせたくなるひとも少なくないだろう。じじつ鍵となるアイテムは、その設定も形象も28年前のあの名作のアンサーであり、それはエンドロールの演出においても確認することができる(ただし、新たな世界が機械との幸福な共存として想像される点でナウシカとは決定的に異なる)。主人公に寄り添う小さな相棒の存在や、窮地に陥った主人公をその社会から排除されている者たちが手助けするのも定型どおりなのだが、そのようすは『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪たちを彷彿とさせる。

こうした点はその気になればほかにも見出せる。これらに注目して、ここに日本のアニメーション作品の影響を見出すこともできなくもないし、おそらく一定の影響関係はあると考えるべきだろう。

だが、注意すべきだ。この作品は、いわゆる「ジャパニメーション」(なんと恥ずかしい言葉であるか)の大半とはまったく異なる地平にたっている。先述のとおり、これは映画とアニメーションの圧倒的な厚みの上にどのような創造を成立させることができるかに挑戦する作品だ。その態度は、日本のアニメーションと比べるとほとんど対照的とさえいえる。後者は一部の例外を除けば基本的にそうした映画やアニメーションの伝統から切れたところで成立している。じじつそれらの作品は運動にほとんど興味を示さない。つまり、本質的にマンガなのである。

日本のアニメーション作品は世界に誇るべき芸術だというような言説はあとをたたず、今日では役人さえもがそれを真に受けている。だが事はそう単純ではない。

オープニングでいきなり「Put On Your Sunday Clothes(日曜日は晴着で)」がかかり、それもまた物語上重要な役割を与えられる。ミュージカルやミュージカル映画の歴史について多少とも知識のある観客は、しかしきっと戸惑うことだろう。なぜここでとりあげられる映画が『ハロー・ドーリー!』でなければならないのか。作品としての質において、どう贔屓目にみてもすぐれているとは評価しにくいからだ。人類の再創世をかけるのなら、ほかにもっとふさわしいミュージカルがいくらでもあるだろうに。

舞台版(1964)映画版(1969)を問わずこの作品は、遅れに遅れてやってきた黄金期スタイルのハリウッド・ミュージカルであり、製作時点ですでにノスタルジアの対象であって、しかも(興行的にはともかく)内容的にも失敗作といわざるをえない。『ハロー・ドーリー!』の作曲家ライオネル・ニューマンが本作品の音楽トーマス・ニューマンの縁戚らしいので、その関係で選ばれたということらしいのだが考えようによっては、そのオールド・ファッションぶりこそが『ウォーリー』の主題にぴったり適うということなのかもしれない。

本作品はひじょうに映画らしい映画であり、アニメーションらしいアニメーションである。したがって本質的にサイレントだ。鑑賞者の年齢を問わず、字幕版での鑑賞をおすすめする。ぼくは2度目には子づれで観にいった。映画館を出てきたあと、小学生の《なな》と話をしていて、「えっ? 字幕があったのだっけ?」とびっくりしていた。


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