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ワークショップ

いつ休むんですか

今年も集中講義が終わった。「講義」と名前はついているが実質はワークショップだ。土日をはさんだ五日間でひとつのテーマについて討論し、演劇とデジタル表現を組みあわせたパフォーマンスに表現して発表するというもの(2008年度の記録2009年度の記録)。今年のテーマは「なぜ学ぶのか」。最終日の発表を終えたあとは、受講した三年生とサポートした四年生で五反田へ出て打ち上げ大会となった。卒業生もあらわれて、たのしい時間となった。

さて、これでようやく夏休みである。「休み」という名前ではあるが、世間でいう「休暇」とはちがう。まとまって時間がとれるほぼ唯一の期間であり、それは執筆にあてられることになる。すでにこの夏に書くべきものは予定されている。

学生たちはそのあたりの事情をうすうす察知しているのか、よく「いつ休むんですか」と訊かれる。どう答えればいいのやら。

たしかに、夏期休業中も、ふだんの授業期間中も、ふつうの意味でいう「休み」はない。だからといって、のべつまくなし仕事に追いまくられているワーカホリックをイメージされると、それもちょっとちがう。けっきょく、ものを考えるのも、あれこれ資料を探して調べるのも、文章を書くのも、学生とえんえんと話をしているのも、どれもそれぞれ異なる意味で「愉しい」のだ。だから強いていうのなら、「いつ休むんですか」というような問いが成立しにくいようなところで暮らしているということになるのかもしれない。

ただし「愉しい」といっても、単純に面白おかしいのとはちがう。局面だけみればしんどいことの連続である。たとえば、書くことは好きだが、同時にそれはこれ以上なく辛い作業でもある。天才的な批評家はいざしらず、ぼくのような人間のばあい、執筆とは思考を写しとるような作業なのではなく、かなりの精度と密度で思考してゆくことだからだ。それは誰にとっても、楽な仕事ではないだろう。だからついつい、書きはじめるのを先延ばしがちなのだ。

そういうとき、こうやってブログの原稿を書いたりする。これを助走路にして本来書くべき原稿にとりかかれればうれしいわけだが、ブログをアップしたところでくたびれて終わりということも、しばしばある。そうしてじぶんの駄目さ加減を目の当たりにして、ますます落ち込むのである。

大学図書館とデジタル化

大学図書館問題研究会のオープンカレッジという催しに講師として参加してきた。大学図書館のライブラリアンや関係者の勉強会のようなものらしい。今回与えられたテーマは、学術情報の電子化と大学図書館、というようなことだった。

講師といってもレクチャーするわけではない。ワークショップ形式の座まわしみたいなことをし、あとで他の2名の講師とともにパネルディスカッションでしゃべる。こういう形式で実施するのは初めてのことなのだそうだ。

お二人の講師は旧知の間柄だったようだが、ぼくとは初対面だった。先方はぼくのことなど知らなかっただろう。講師どうしによるパネルの発言では、教えられるところもあり、また、ぼくから見れば俗流メディア論としかいいようのない話も含め、異なる点もいろいろあった。しかしそれは立場や考え方が違えば当然ありうることであり、少なくとも両者に議論する用意がありさえすればいいだけのことだ。

いずれにせよお二人に共通していたのは、デジタル化する現在の状況を、少なくともそれぞれの立場において本人なりに引き受ける覚悟をはっきり持っていたことである。

いっぽう図書館関係の参加者たちのほうは、どうか。全般にいえば、ちょっと歯がゆく感じられたといわざるをえない。

もちろん大学図書館の現場では現場なりにそれぞれ悩みがあり、考えがあるのだろうということはわかる。それに真摯に向きあおうとしてもいるだろう。だから休日にもかかわらず、こうして勉強会に参加しているのだろう。

けれども、ではデジタル化をじぶんの問題として引き受けてゆくような覚悟がどれほどあるのか、となると、残念ながらそれはあまりはっきりとは感得できなかった。ともすれば、誰かに「答え」を教えてもらえるのではないかという姿勢がかいま見えるような気がしなくもなかった。そして、そういうことは今回にかぎらず、あちこちでよく見かける光景でもある。

だとすれば、二人の講師の、現実をじぶんの立場において引き受けるという態度こそが、今回の催しから学ぶべきことだというべきだといわねばなるまい。図書館員のみなさんには、これからの図書館をつくってゆくのはじぶんたちなのだという気持ちをもって、ぜひしっかりがんばってほしいとおもう。

デジタルストーリーテリング作品公開

2009年度の芸術メディア論演習で学生がつくったデジタルストーリーテリングの作品が公開されました。いつものように、明学・芸術学科のウェブサイトのなかに特設ページをつくってあげてあります。2009年度デジタルストーリーテリング作品一覧へ。

同じく2009年度の夏期集中の特別演習として実施したワークショップ「なぜ働くか」の記録も公開します。これは芸術メディア系列の学生は必修の演習で、60名近い受講者が参加しました。そのようすを学生4名が取材して、テキスト・写真・ムービーを組みあわせ、ドキュメントとしてウェブサイトにまとめました。こちらから当該ページへ飛べます。

これらを含めて、授業での活動のようすは、その一部を明学・芸術学科ウェブサイトStudent Galleryにてごらんいただけます。

やりませんか?

テレビ番組の制作プロダクションをやっているというひとがやってきた。デジタルストーリーテリングに興味があるので教えてほしいということで、前に一度だけ会ったことがある。今度はなんの用事かとおもったら、こう言うのだ。

「デジタルストーリーテリングの共同研究をやりませんか?」

教育工学やデジタルアーカイヴ系の研究者と組んで、デジタルストーリーテリングのノウハウを確立して広めたいという(かれは「技術」という言葉をつかった)。そしてコーディネーターはかれ自身がやるのだという。

即刻お断りした。

こういうときにいつもおもうのは、相手に悟られぬよう、けれどもきっぱりお断りするエレガントな術を身につけていればどんなにいいだろうということだ。しかしそんな便利な持ちあわせはなく、かといって中途半端に曖昧なことをいうのも性に合わない。変に期待をもたせるのもお互いにとって不幸の素だ。だから、申しわけないのだけれども、ストレートにはっきりものをいう。

お断りする理由は、あらゆることだといってもいい。

まずそういうことなら、ぼくはすでに何年も前にメルプロジェクトでさんざんやった。その経験を踏まえて今は少し違うフェイズに移行している。現時点で共同研究を立ちあげたところで、こちらの利得が不明である。かれ自身に学際的共同研究のような難しいプロジェクトをとりまとめる能力があるのかどうかもわからない。共同研究の相手とやらにぼくは会ったこともない。助成を受けることにともなって発生する厖大な事務を誰がどう処理していくか、その体制についてなんら考慮されていない。そもそもプロジェクトなのに目標が不明朗だ。かれはしきりに海外事例のリサーチ(テレビ屋さん的にいうリサーチだから、ようは「見学」のことだ)の必要性をいうのだが、そんな脱亜入欧的というか、キャッチアップ式の発想は、はっきりいって時代遅れである。そのくせ、ぼくのところで何年もやってきたデジタルストーリーテリングの実践蓄積については(そこにはそれこそ厖大な「ノウハウ」が埋まっている、もっともノウハウだけじゃ全然ダメなのだが)、さして「リサーチ」した形跡はない。

ただし、こうした個別の事柄をかき集めて検討し、お断りしたのだというと、ちょっと違う。論点を整理すれば上のようになるのであって、それに先だつ直観があった。早い話、どうやら筋が悪いぞ、と直観したのが最初なのだ。

話を聞いていくうち、その直観が的外れではないことがはっきりした。すなわち、かれの真意は、財団から助成金を引きだすことにあった。そのお金で、海外事例の見学(「リサーチ」といってあげてもいいのだけど)に行きたいのである。身も蓋もない言い方をすれば、共同研究の話はそのダシ、なのだ。

むろんそのテレビのひとの言動は悪意があってのものではなさそうではある。デジタルストーリーテリングに関心があるのは本当だろうし、バークレーにあるデジタルストーリーテリング・センターのワークショップにも参加している。

しかし、悪いひとではないが、謙虚でもない。

ネット検索で得たわずかな知識と一度のワークショップ参加経験だけで、何もかもわかった気になり、何事かを差配できる資格をもっていると思い込む。端的にいえば、勘違いである。一般的にいって、この種の発想の源には、じぶんが何か特別な立場にあるという暗黙の、そしてたいていは無自覚な前提がある。マスコミ業界人にありがちな傾向である。研究者のなかにも「テレビ」といわれればたちまち追従するひとがいるのかもしれない。そうした態度も、こうした傾向を助長してしまうのだろう。それでも他の分野の専門家なら、まだいい。ぼくの専門はメディア論だ。そんな無邪気なわけがない。

誤解のないように付けくわえておきたい。デジタルストーリーテリングについて話をしたり、議論をしたりすること自体は、ぼくは大歓迎である。ワークショップも、事前に連絡さえくだされば、誰でも見学してもらってかまわない(むしろぜひ見てほしい)。それがデジタルストーリーテリングの発展や普及につながるのなら、よろこんで協力する用意がある。

手前味噌にはなるが、ぼくは試行を含めれてかれこれ6-7年ほど、デジタルストーリーテリングの実践を積み重ねてきている。その間制作した作品本数は、ちゃんと数えたことはないけれども、150本は越えるはずだ。その蓄積の厚みは、たぶん国内では随一であろうと自負している。しかも、たんに長く実践してきたというだけではない。そのなかで方法論を整理し、思想的な検討をくわえてきている。それを還元してゆく責務は当然ある。

ただこれまで、ぼくはじぶんの実践蓄積について、まとまった形で発表したことがない。ウェブに作品をあげているのと、短い文章を2-3書いただけだ。だからぼくのところに蓄えられた知恵は、関心があったり必要としたり、あるいはこれから関心をもつかもしれないひとたちには、まだまったく知られていないだろう。

デジタルストーリーテリングについて、やっぱり本を書かねばならないな、とあらためておもった。興味をもってくださる方いらっしゃいませんか?

おおた区民大学

2月最初の日は雨。夜にはこのあたりも雪になるという。

先日おおた区民大学というところで一コマだけ授業をしてきた。場所は蒲田、富士通の大きな工場の隣である。

メディアリテラシーのワークショップをという趣旨だったのだが、さすがに本格的なことをするほどの時間はない。ワークショップについてはごく控えめにとどめ、映像分析の意義について話をし、テレビCMを材料に簡単な分析手法を伝授することにした。

平日の夜7時から開講というスケジュールにもかかわず、参加者は30人ちかい。この種の催しのつねとして60代以上の方が多いのだが、みなさん存外に柔軟、ディスカッションしたり、手をあげて発言してくださったりと積極的で、おかげさまで終始よい雰囲気で終えられた。

参加者のみならず、スタッフの方たちの運営ぶりの賜物でもあろう。みな20代と若いのにしっかりしていて、よく勉強もされている。授業中も参加者にまじって席につき、一緒に受講されていた。その姿勢から学ばなければならないのは、むしろぼくのほうである。すっかり恐縮してしまうのだった。

『メディアリテラシー・ワークショップ』刊行

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『メディアリテラシー・ワークショップ──情報社会を学ぶ・遊ぶ・表現する』が東京大学出版会より刊行されました(版元による紹介ページへ)。

ぼくも何篇か寄稿させていただいております。手前味噌でなんですが、メディアリテラシー関係のワークショップについてなら、たぶんいまいちばんホットで詳しい本だとおもいます。どうぞごひいきに。

方法としてのデジタルストーリーテリング

デジタルストーリーテリングで映像作品をつくります──というと、いろいろな学生があらわれる。

少数ながら毎回混入しているのが、勘違い系とでもいうのだろうか、映像製作という愉しげな言葉だけに釣られてやってくるタイプの学生である。かれらの特徴は、おのれの「感性」とやらを実現したいという欲望にのみ忠実なことだ。たいていのばあい、かれらの語る「感性」とはいたって凡庸なステレオタイプであり、とりたてて独自性の感じられるような類のものではない。ひとりよがり、混乱、じぶんだけが勝手に気持ちのいいマスターベーション。だから他の学生やぼくのコメントやアドバイスにたいして、まるで耳を貸す用意がない。かれらの関心はおのれの欲望を満たすことだけにあるのだから、当然といえば当然だろう。受講態度は、いきおいまじめとはいいにくいものになる。まじめとは、けっして、くそまじめという意味ではない。課題に真摯に取り組む姿勢が欠落しているということだ。

ではまじめな優等生がいいかというと、それもちがう。かれらは答えを先回りして察知する術には長けているが、答えのあらかじめ定まっていない問いに向きあい、じぶんの知力をふりしぼって、粘り強くものを考えることには慣れていない。「答え」は教員が隠しもっているという発想のなかに棲みついている。相談と称して「答え」を探りにやってくる。ぼくのアドバイスを聞いたあとの決まり文句は「××すればいいんですか」「△△すれば大丈夫ですか」である。

むろんかれらとて、じぶん自身の語るべきテーマはもっているにちがいない。だがそれは分厚い皮膜に覆われ、ふだんは本人ですら触れられない深みに格納されている。かれらがまずしなければならないことは、その皮膜を一枚ずつ引きはがし、じぶん自身を掘ってゆくことだ。

他方で、課題を説明した段階で、すでに語るべきテーマを見つけだしている学生もいる。えてして優等生でも目端の利くタイプでもなく、どちらかといえば一見冴えないほうかもしれない。かれらに共通しているのは、じぶん自身ではどうにもできないような、少なくとも当人にはそう感じられて閉塞してしまうような状況を経験してきたことである。

今回の函館のばあい、小中高といじめにあっていたという男子学生が、その典型だった。高校までのいじめの経験もあって、生来の引っ込み思案に拍車がかかり、ひととどう距離をとっていいかわからず、じぶんの殻に閉じこもっていた。大学に入学しバス通学の道すがら車窓を眺めているうちに、それが毎日変化していることに気づいた。そのことから、まわりのことをあれこれ言うよりも先に、じぶん自身を変えなければならないと気づく。そこで勇気をだしてじぶんから同級生に話しかけてみる、というお話である。

かれのようなケースでは、ぼくにはもうほとんど何も言う必要がない。むしろ過剰に介入して邪魔をしないよう気をつけるべきである。いつものごとく途中何人もの学生が受講からフェードアウトしてゆくなかで、かれは粛々とじぶんのするべき作業をすすめた。できあがった作品は、期待に違わず力のこもったよい作品だった。同時にかれのチームはひとりの脱落者をだすこともなく、全員がさいごまで走りきった。

映像制作といえば、昨今あちこちの大学で流行っているようだが、その大半は既存マスメディアの物まねをさせて学生をよろこばせるか、ノウハウの習得か、でなければ「情報伝達」という側面ばかりを無邪気に強調したものだ。そこで忘れられているもののひとつが、作品性である。

乱暴を承知でいえば、ぼくにとっていまや「情報」などどうでもいい。大事なのは「人間」であり「作品」であり、そして人間が作品をつくり、流通させ、それに接するという事実のほうだ。作品は、才能とテクニックとによって捏ねあげられるものではなく、ひとりの人間としての存在になんらかの形で触れることで成立する。作品が根本においてもつ批評性とは、そこにかかわっている。そのことをこの授業のどこかで実感してもらえば、ぼくとしては十分だ。

ただもう一方で、ぼくのデジタルストーリーテリングのこうしたやり方は危うさをはらんでもいる。一歩まちがえば批評性が骨抜きにされ、容易に自己啓発セミナーやセラピー的なノウハウへと転落してゆきかねないからだ。むろん制作という実践からそのような陥穽を完全に排除することは、原理的にできない。仮にできたと主張するものがあったのなら、そうした安全安心な過程が生産するのはたんなる製品でしかあるまい。個人的には、すでにワークショップという手法自体が、そのような道筋をたどって骨抜きにされつつあるように感じている。

これまでのところ、そこへ滑落せずになんとか踏みとどまっていられる最大の理由は、その怖さをつねに意識するようにじぶん自身を仕向けているからだ(もうひとつの土台は、編集者時代に蓄積された経験である)。

ぼくのこのやり方は骨の髄まで文脈に依存したものである。学生がどんなアイディアをもってくるかは、やってみなければわからない。経験や予想では対処しきれない事態が表出しても、その場でただちにもっとも適切な対応を選択しなければならない。ぼくが頼りにできるものといえば、わずかばかりの知識や、これまでの経験とそこで培われた感覚だけだ。それらを総動員して授業にのぞむのだが、そこまでしたところで、つねにうまくゆく保証などどこにもない。こんな方法をマニュアル化してユニヴァーサルに適用しようとするのなら、そのとたん、そこには転落への道が巨大な口を開けて待っているにちがいなかろう。

いま北大で実施している集中講義でも、理学系の修士院生を対象にデジタルストーリーテリングをおこなっている。おどろくべきことに、2名の先生が院生にまじって受講されている。その姿勢にはほんとうに頭が下がる。ぼくの授業にそれだけの価値があるかどうかはともかく、かれらがぼくのやり方から何らかの霊感を得てくださり、デジタルストーリーテリングが日本でもさまざまな形でひろまってゆくとしたら、うれしいことである。

ただ上述のとおり、ぼくの方法は根本的なところでぼくの個性に依拠している。デジタルストーリーテリングといっても、べつにがっちり固まった方法論が存在するわけではない。いろんな方法がある。先行事例を参照しつつ、各自がそれぞれの個性や目的や文脈にかなったやり方を、試行錯誤をとおして編みだしてゆく。それがけっきょく、最善の道だろう。ぼく自身もそうしてきたのだし、いまもそうやって実践から多くを学び、貴重な霊感を得ている。だからこそ、細々とではあれ、実践を重ねつづけられているのだとおもう。

10日間

集中講義が終わった。昨年とはいろいろな意味でだいぶようすが異なっていた。この授業は同じ芸術メディア系列の岡本章先生や望月京先生とのチーム・ティーチングなので、三人そろって学生企画の打ち上げに参加したのち、二次会につきあうこともなく、よたよたと帰宅。

8月に入ってからというもの、名古屋のコスプレサミット取材、ゼミ合宿、集中講義と連続して仕事がつづいた。しまいのほうは日にちや曜日がもうよくわからなくなっていた。怒濤の10日間といえばまさにそう。とにかく、これでもう前期はすべておしまい。

切替ねばならないとわかっているのだが、頭も身体も、一晩寝たくらいではそう簡単にリセットしてくれない。今日は新宿まで出た。うたた寝しながら総武線に揺られていたら、幕張から先で線路の路盤陥没のため不通とのアナウンスが入る。ここ数日の大雨やら地震やらの影響だろう。先日合宿でお世話になった伊豆は、だいじょうぶなのかしら。数日ちがったら、ぼくたちも被災していたかもしれない。

以下に、打上の席上で三年生から聞いた話を追記しておく(090812)。

学生だけで作業していた土曜日のこと。日が暮れかかると、どーん、どーんと音がしはじめた。誰かが、東京湾の花火大会だ! と叫んだ。すると食堂で作業していた三年生たちは一斉に席を立ち、ふだんはあまり立ち入らない校舎の高層階をめざして階段を駆けあがっていった。上層階に着くと、花火が見えた。みんな窓にへばりつくようにして、ガラスの向こうに打ちあがる花火をながめた。室内であるにもかかわらず、火薬の匂いと潮の香りが漂ってきた。

パトラッシュ

ゼミ合宿に引きつづいて集中講義の真最中である。「講義」と名がついているが、ワークショップ形式なので実質は演習だ。昨年と同様「なぜ働くのか」というテーマで、討論してじぶんたちの考えをまとめ、それを上演形式にて発表するというのが課題。木曜と金曜、みっちりやった。

受講人数が去年の倍とやたらに多いこともあり、何事もおもった以上に時間がかかる。昨年も感じたことだが、とにかく学生たちには「先生たちの求めている答え」を探ろうとする姿勢が染みついている。それを崩してじぶん自身の頭で考えはじめてもらうまでに、ずいぶん手間をかけねばならない。学生たちからすれば、相当つらい授業であろう。必修だから逃げるわけにもいかない。これで苦しいところを乗り越えてくれれば、きっと小さくても何かをつかめるのだと、ぼくたちは信じているのだが。土日は授業日ではないけれど、学生たちはいまごろ月曜日の最終発表に向けて作業中のはず(そうでなければ困る)。

土曜日はオープンキャンパスということで、戸塚にある横浜キャンパスまで出かけていった。学科紹介と模擬授業をするためである。現在進行形である集中講義のようすなどを話す。明学の芸術学科に来る学生は、必ずしも全員が第一志望で入ってくるわけではないが(それは現在の日本の大学入試制度のしくみからして仕方のないことである)、じつによく勉強する。個性的で元気があり、とてもいい学生だ、という意味のことを話す。終わって片づけを始めると、「せんせー」とよばわる声がする。見れば、この春に卒業したばかりの元学生ふたりが、高校生のフリをして(まあ少々無理があるわけだが)そこに立っているではないか。ああ、よかった。変なことを言わないで。

仕事について4カ月。毎朝6時に起きて、無遅刻で出勤しているらしい。学生時分には考えられないことである。ひとりは6月にインフルエンザにかかった。卒業旅行でメキシコに行ったので、豚インフルかと案じたが、そうではなかった。しかし結果として新米の分際にもかかわらず10日連続して休んでしまった。その間ずっと自宅で伏せていたが、ある晩、夢にパトラッシュが出てきた。あのときはさすがにあたし、いよいよダメかとおもいました、という。

花火

木曜金曜と集中講義で、週末をはさんで月曜まで続く。「講義」といっているが、実質はワークショップだ。芸術メディア系列の教員3名が総出で三日間びっちり張りつく。

学生に与えられるテーマは「なぜ働くのか」。チームごとに議論をして、じぶんたちの考えを上演形式(なるべく柔軟に考えてよい)で発表する。望ましい「正しい結論」などない。まずは学生たちの頭が社会に流通する俗っぽい通念で固められ、そのじつじぶん自身ではほとんど考えていない現実に気づくことから始まる。学生たちにとって、それはしんどい作業である。

子どものころにはプロ野球選手やサッカー選手やアイドル歌手にあこがれた。あの気持ちは、無知な子どもの無邪気な、しかし実現不能な夢というものではなく、その年代なりにリアリティをもって考えた「働くこと」「仕事」のイメージだった。いつごろからかそれは失われ、「働くこと」の中身が消えて、「生活」だけが前景化してゆく。だから、かれらのイメージする「働くこと」には、「つらい」「たいへん」「お金さえあれば働きたくない」というネガティヴな言葉がつきまとう。そこには、「働くこと」こそが、社会のなかで相互に承認されることをとおしてみずからを成長させてゆくこと、いいかえれば生きることそのものに直結しているのだという認識は微塵もない。まずは議論と発表をくりかえすなかで、そのことにみずから気づいてゆかねばならない。

この過程に付きあうのだから、教員のほうにも強い気持ちが要求される。学生たちの議論をファシリテートすることは、なによりじぶん自身に「おまえ自身、本気でそう言えるのか」と突きつけられることを意味しているからだ。ワークショップとしては金曜が山、学生たちは週末に課題をしあげて、月曜に発表をむかえる。

土曜日は横浜キャンパスでオープンキャンパス。ぼくは芸術学科ガイダンスと模擬授業を担当した。これで二度目。芸術学科の学生たちは、個性的でモチベーションが高いと話す。模擬授業ではテレビコマーシャルの分析を、ほんのさわりだけだけれど、実践してみた。前のほうに座った女子高生たちの感覚が鋭くて、とてもよかった。

帰りの総武快速が江戸川にさしかかる。視界にとびこんできたのは異様な光景だった。両岸ともびっちりとひとで埋め尽くされているのだ。江戸川の花火大会の見学者だ。市川駅構内も、昔、上野動物園にパンダがやってきたときのような、えらい人出である。週末はうちに逼塞しているのが常なので、こんな状態に巻き込まれるのは初めてだ。

自宅にたどり着くと、花火の打上が始まった。ロフトのデッキにあがる。子どもたちもぞろぞろと這いのぼってくる。市川・小岩の花火は、すぐそこで爆弾が爆発しているのではないかというほどの音響で轟く。たまたま、うちと花火のあいだにそびえる巨樹によって花火そのものは遮られ、上空が色とりどりに光るさまをながめることができるばかりである。

反対側に目をやると、遠くの林の上に小さく打上花火の炸裂が見える。同日開催の松戸の花火だ。日の暮れたデッキで、電線にとまったスズメの一家のように鈴なりにとまり、遠くにあがる花火をながめては、しばしびゅうびゅうと風に吹かれたのだった。

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