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函館

雨の函館

函館に来ている。到着した日も含めて今日で三日目。ずっと雨だ。

最高気温22度くらい。東京とは10度も低い。半袖のTシャツだけでは肌寒い感じである。

函館では、公立はこだて未来大学でデジタルストーリーテリングで集中講義をしている。かれこれ7年目になる。非常勤の仕事は、2年ほど前に思いきって整理させてもらった。ここだけはいまのところ例外的で、毎年この時期に訪れている。

函館の学生たちのリアリティみたいなものに触れられることが、たぶん好きなのだとおもう。ぼくがふだん接している首都圏の大学生と共通する部分もあるし、異なっている部分もあり、その混淆ぐあいが興味深い。

学生の生活環境もだいぶ異なっている。

明学の学生に訊くと、自宅から通学している学生の割合が多い。いっぽう未来大では、その割合はひじょうに少ない。多くの学生が、道内や道外から来て、大学近辺で部屋を借りて暮らしている。工学系の学校だから、大学も24時間開いているし、実験や実習で毎日遅くまで学校で勉強している。4年間ずっと合宿しているみたいな感じなのかもしれない。

授業のほうは、すでに構想発表も済み、いまは絵コンテを切っている最中だ。

今年の学生たちはどんなふうに課題に取り組み、どんな作品をつくってくれるだろうか。楽しみである。


函館のパノラマ

集中講義は今日が三日目。今年もデジタル・ストーリーテリングをやっている。

当然いろいろな学生がいるわけだが、全体としての雰囲気というものは確実にある。年によって少しずつ違うが、今年は全体に素朴でまじめ、といった印象だ。明日が発表だから、明朝までには作品を仕上げて提出可能な状態までもっていかなければならない。今晩が山場である。いまごろ必死に作業しているであろうし、そうであってほしい。

ところで、昨日(二日目)は企画検討会だった。授業の終業時間がすぎても終わらず、一時間ばかり居残り組の話を聞くことになった。ひとりの学生が、自転車で大学の近辺を走りまわったときの話をしてくれた。公立はこだて未来大学は、函館山と正対する山の中腹にあるのだが、その奥へゆくと、さらに展望のひらけた場所があるという。

その風景を見てみようと、遠まわりして帰ることにした。何度か下り、何度か登る。最後の坂を登りきると、急に視界がひらける。その先は一面の畑だった。

畑は海にむかってゆるやかにくだっており、函館湾と接する手前に街が帯状にひろがっている。真正面の奧に函館山、右手に松前半島。その山々の稜線に、夕陽が沈もうとしていた。

一直線に刻まれた道が、地形のパノラマを切り裂いている。その上を、ランクルでゆっくりとすべり下りていった。


濁流化する日本

渡道の途中、新潟・山形・秋田・青森の各県をとおってきた。それぞれの県境は林道を越えてきた。

青森で大雨に遭遇した。河川が濁流化している。真っ茶色の水の塊があとからあとから猛烈に押し寄せてくる。いまにも堤防から溢れだしそうな勢いだ。特定の川だけではない。どの川もどの川も、そうなのだ。

濁流は河口まで流れくだり海に注がれる。そのせいなのか、海もまた海岸に沿って帯状に、茶色に染まっていた。

もしかしたら、雨が降るたびに川がこうなってしまうのだろうか。さすがに、そうではないだろう。豪雨のせいなのか、森の保水力が落ちているせいなのか、複合的な要因なのか、たまたま遭遇しただけでは判断のしようがない。

いずれにせよ、降りはじめて一日もたたないうちにこうまで濁流化してしまったわけだ。背筋の寒くなる光景だった。


テナント募集

夕方に函館に着いた。ちょっとショックだったのは、前にも増してお店がなくなっていることだ。

五稜郭の交差点など、四つある角のうち一つが銀行、あと三つが商業系なのだが、まがりなりにも灯りがついているのは丸井今井のデパートだけ。昨年は営業していたような気がするお店も、今年は軒並み「テナント募集」の札がかかっている。はなの舞やら和民やらのチェーン店のネオンサインがやたらに目立つ。

これが一繁華街の局所的な事情に過ぎないのか、日本の地方都市全体にいえる傾向のあらわれなのか、ぼくにはなんともいえない。函館といえば観光地として華やかなイメージだが、都市動態としてみれば、人口の減りつづける縮小都市のひとつだという。よそ者のぼくの目には、訪ねるにも住むにも、いい町にしか見えないのだけれど。

昨年までぼくが通っていたお店も閉めてしまっていた。今年は行く店がない。とりあえず、ハセガワストアの焼き鳥弁当を買って、今晩はホテルの部屋に籠もることにした。


島牧からの便り

島牧から「残暑(酷暑)お見舞い」と題するメールをいただいた(ありがとうございました)。

7月末に集中豪雨があり、地下室に浸水してバケツ100杯ぶん汲みだした、とある。ユースのすぐ近く、道の駅「よってけ!島牧」のすぐ脇を流れる千走川(ちはせがわ)は氾濫した。そのさい賀老の滝にあがってゆく道路が流された。いまだ通行止めだという。狩場山の登山口は賀老の滝の奥にあるから、ということは今夏は登れないということだ。

ちなみに狩場山は渡島半島最高峰で、ぼくがもっとも最近登ったのは……と思い出してみるに、2006年の9月だ。あれからもう4年もたつ。そのときのことはこちらに書いたとおりなのだが、行程の7割を《くんくん》を背負って歩いたのだった。いまや《くんくん》は小学3年生となり、こちらは歳相応にくたびれているから、絶対に不可能な芸当である。よくやったなあ、われながら。

さらに思い出してみれば、これまでも災害や工事などで賀老へあがれなかったことは幾度もあった。ぼくが島牧に行きはじめたころは、賀老への道はいまのルートとは違っていた。全線ダートで険しいのだが、そこをオンロードのバイクでガシガシ登っていったのだった。この道は、千走川温泉経由のいまの新道が開通したあと、廃道になってしまったようだ。

狩場山に登れなくとも、島牧には気持ちのよいところがたくさんある。例年のごとく来月になれば函館に行かねばならない。その足で、また島牧へ寄ってみたいとおもう。

写真は昨年9月に歌島高原から島牧村の方角を撮影したもの。いちばん奥にうっすら映った、雲をかぶった巨大な山塊が狩場山で、千走川はその懐から流れでている。9月になると河口あたりでは鮭の遡上する姿が岸からも肉眼でよく見える。


方法としてのデジタルストーリーテリング

デジタルストーリーテリングで映像作品をつくります──というと、いろいろな学生があらわれる。

少数ながら毎回混入しているのが、勘違い系とでもいうのだろうか、映像製作という愉しげな言葉だけに釣られてやってくるタイプの学生である。かれらの特徴は、おのれの「感性」とやらを実現したいという欲望にのみ忠実なことだ。たいていのばあい、かれらの語る「感性」とはいたって凡庸なステレオタイプであり、とりたてて独自性の感じられるような類のものではない。ひとりよがり、混乱、じぶんだけが勝手に気持ちのいいマスターベーション。だから他の学生やぼくのコメントやアドバイスにたいして、まるで耳を貸す用意がない。かれらの関心はおのれの欲望を満たすことだけにあるのだから、当然といえば当然だろう。受講態度は、いきおいまじめとはいいにくいものになる。まじめとは、けっして、くそまじめという意味ではない。課題に真摯に取り組む姿勢が欠落しているということだ。

ではまじめな優等生がいいかというと、それもちがう。かれらは答えを先回りして察知する術には長けているが、答えのあらかじめ定まっていない問いに向きあい、じぶんの知力をふりしぼって、粘り強くものを考えることには慣れていない。「答え」は教員が隠しもっているという発想のなかに棲みついている。相談と称して「答え」を探りにやってくる。ぼくのアドバイスを聞いたあとの決まり文句は「××すればいいんですか」「△△すれば大丈夫ですか」である。

むろんかれらとて、じぶん自身の語るべきテーマはもっているにちがいない。だがそれは分厚い皮膜に覆われ、ふだんは本人ですら触れられない深みに格納されている。かれらがまずしなければならないことは、その皮膜を一枚ずつ引きはがし、じぶん自身を掘ってゆくことだ。

他方で、課題を説明した段階で、すでに語るべきテーマを見つけだしている学生もいる。えてして優等生でも目端の利くタイプでもなく、どちらかといえば一見冴えないほうかもしれない。かれらに共通しているのは、じぶん自身ではどうにもできないような、少なくとも当人にはそう感じられて閉塞してしまうような状況を経験してきたことである。

今回の函館のばあい、小中高といじめにあっていたという男子学生が、その典型だった。高校までのいじめの経験もあって、生来の引っ込み思案に拍車がかかり、ひととどう距離をとっていいかわからず、じぶんの殻に閉じこもっていた。大学に入学しバス通学の道すがら車窓を眺めているうちに、それが毎日変化していることに気づいた。そのことから、まわりのことをあれこれ言うよりも先に、じぶん自身を変えなければならないと気づく。そこで勇気をだしてじぶんから同級生に話しかけてみる、というお話である。

かれのようなケースでは、ぼくにはもうほとんど何も言う必要がない。むしろ過剰に介入して邪魔をしないよう気をつけるべきである。いつものごとく途中何人もの学生が受講からフェードアウトしてゆくなかで、かれは粛々とじぶんのするべき作業をすすめた。できあがった作品は、期待に違わず力のこもったよい作品だった。同時にかれのチームはひとりの脱落者をだすこともなく、全員がさいごまで走りきった。

映像制作といえば、昨今あちこちの大学で流行っているようだが、その大半は既存マスメディアの物まねをさせて学生をよろこばせるか、ノウハウの習得か、でなければ「情報伝達」という側面ばかりを無邪気に強調したものだ。そこで忘れられているもののひとつが、作品性である。

乱暴を承知でいえば、ぼくにとっていまや「情報」などどうでもいい。大事なのは「人間」であり「作品」であり、そして人間が作品をつくり、流通させ、それに接するという事実のほうだ。作品は、才能とテクニックとによって捏ねあげられるものではなく、ひとりの人間としての存在になんらかの形で触れることで成立する。作品が根本においてもつ批評性とは、そこにかかわっている。そのことをこの授業のどこかで実感してもらえば、ぼくとしては十分だ。

ただもう一方で、ぼくのデジタルストーリーテリングのこうしたやり方は危うさをはらんでもいる。一歩まちがえば批評性が骨抜きにされ、容易に自己啓発セミナーやセラピー的なノウハウへと転落してゆきかねないからだ。むろん制作という実践からそのような陥穽を完全に排除することは、原理的にできない。仮にできたと主張するものがあったのなら、そうした安全安心な過程が生産するのはたんなる製品でしかあるまい。個人的には、すでにワークショップという手法自体が、そのような道筋をたどって骨抜きにされつつあるように感じている。

これまでのところ、そこへ滑落せずになんとか踏みとどまっていられる最大の理由は、その怖さをつねに意識するようにじぶん自身を仕向けているからだ(もうひとつの土台は、編集者時代に蓄積された経験である)。

ぼくのこのやり方は骨の髄まで文脈に依存したものである。学生がどんなアイディアをもってくるかは、やってみなければわからない。経験や予想では対処しきれない事態が表出しても、その場でただちにもっとも適切な対応を選択しなければならない。ぼくが頼りにできるものといえば、わずかばかりの知識や、これまでの経験とそこで培われた感覚だけだ。それらを総動員して授業にのぞむのだが、そこまでしたところで、つねにうまくゆく保証などどこにもない。こんな方法をマニュアル化してユニヴァーサルに適用しようとするのなら、そのとたん、そこには転落への道が巨大な口を開けて待っているにちがいなかろう。

いま北大で実施している集中講義でも、理学系の修士院生を対象にデジタルストーリーテリングをおこなっている。おどろくべきことに、2名の先生が院生にまじって受講されている。その姿勢にはほんとうに頭が下がる。ぼくの授業にそれだけの価値があるかどうかはともかく、かれらがぼくのやり方から何らかの霊感を得てくださり、デジタルストーリーテリングが日本でもさまざまな形でひろまってゆくとしたら、うれしいことである。

ただ上述のとおり、ぼくの方法は根本的なところでぼくの個性に依拠している。デジタルストーリーテリングといっても、べつにがっちり固まった方法論が存在するわけではない。いろんな方法がある。先行事例を参照しつつ、各自がそれぞれの個性や目的や文脈にかなったやり方を、試行錯誤をとおして編みだしてゆく。それがけっきょく、最善の道だろう。ぼく自身もそうしてきたのだし、いまもそうやって実践から多くを学び、貴重な霊感を得ている。だからこそ、細々とではあれ、実践を重ねつづけられているのだとおもう。


函館

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今年もまた函館に来ている。集中講義は三日目が終わった。デジタルストーリーテリング作品の制作で、学生たちの多くはいまもおそらく作業中だろう。明日はいよいよ発表である。


俺ん家にて

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函館では夜は居酒屋俺ん家にいく。

五稜郭の交差点をすぎて道をくだってゆく。道にはスピーカーで広告が放送されている。なぜか「お祭りマンボ」が流れている。暗い空に白く浮かびあがる五稜郭タワーが近づくと、店はすぐ。純和風の炉端焼きだが、マスターは音楽、わけてもエリック・クラプトンが大好きで、その手の展示と音楽とが、魚の焼ける煙とともに店内を満たしている。

夜ごと3-4本のビデオを見せてくれる。どうもぼくに見せたいプログラムが組まれているらしい。清志郎のライブであったり、この6月のハイドパークやリバプールの野外コンサートであったり、ロックの歴史のドキュメンタリーであったりする。

昨晩は、なんのはずみかロイ・オービソンはいいですねという話になり、するとマスターは、かれが1988年に亡くなる直前に結成された伝説のバンド「トラベリング・ウィルベリーズ」のドキュメンタリーを見せてくれた。

閉店となって外へ出、暗い裏道をホテルへ歩く。函館滞在もまもなく終わりだ。


函館

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今年も集中講義で函館に来ている。昨日は最高気温28.9度。それで「この夏いちばんの暑さ」だったらしい。今日は朝から雨だったのに、夕方突如として雲が切れ、陽が差してきた。授業でデジタル・ストーリーテリングの作品を必死で制作している学生たちは急に色めき立った。「撮影いってきていいですか」というが早いか、カメラをもって教室をとびだしていった。


Char@炉ばた 俺ん家

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函館滞在中は「炉ばた 俺ん家」に通うことに決めている。五稜郭近くにあるこの店は、昨年見つけた。店構えも内装もメニューも、なにもかも完璧な炉端焼きの店なのに、流れる音楽はエリック・クラプトンだ。それを狙いでやっているのでないのが、またいい。

毎晩、音楽のメニューも用意されている。今回は、マスターお気に入りの番組の録画。「Char Meets ????: Talking Guitar」という、フジテレビがCSで放送している番組だ。

チャーが気になるギタリストをゲストによび、トークとセッションを繰り広げる。といっても、前半ひたすらチャーがしゃべりまくり、途中からひたすらふたりのセッションがつづくといった風情で、かなり濃い。ゲストによって、演奏するセッションのテイストがまるっきり異なる。渡辺香津美の回はずいぶんジャジーだし、泉谷しげるのときはひたすらストロークである。坂崎幸之助の回はたのしく、ジェイク・シマブクロの回は圧巻だった。

観ていて愉しいが、つくっているほうも愉しいだろう。とはいえ予算はなさそうだし、放送も不定期らしいから、苦しいことも多いに違いない。苦しいが同時に愉しいという葛藤状態のことを、ある先生が「くるたのしい」と表現した。この言葉は、この番組の作り手たちの気分によく当てはまるのではないか。

くるたのしさが発するオーラを、地上波のテレビ番組から感じることがなくなって久しい。この番組の印象にいちばん近いものはなにか。ぼくの感覚のなかで探しだすとすれば、それはある種のラジオ番組か、ある種の雑誌である。


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